都心の大動脈のひとつ東京メトロ東西線は、郊外で高架となり、荒川を長い鉄橋で渡ります。この鉄橋、いろいろと興味深い特徴が見られます。

私鉄の鉄道単独鉄橋日本最長

 都心の大動脈のひとつ東京メトロ東西線は、1969(昭和44)年3月に全線開通を果たしました。地下鉄とはいえ、南砂町駅(江東区)〜西葛西駅(江戸川区)の間を流れる大河、荒川・中川を越えるため、東西線はやむなく地上に顔を出し鉄橋で渡っていき、そのまま終点の西船橋まで高架区間となります。


大半で地上区間を走る東京メトロ東西線(画像:写真AC)。

 橋の形式は三角形状に鉄骨を編んだ、いわゆる典型的な構造の「ワーレントラス鋼橋」です。全長は1236mで、荒川・中川の河口を一気に跨いでいます。

 この「荒川中川橋梁」が、実はいろいろな「いわく」を抱えています。まずは「私鉄専用の鉄道専用橋梁で国内最長」という点が特筆です。

 完成当時は、静岡県にある東海道新幹線の富士川橋梁(1373m)に次ぐ「長さ第2位の鉄道橋」でしたが、1982(昭和57)年に旧国鉄・東北新幹線の「第1北上川橋梁」(3868m)、1993(平成5)年にはJRと南海が走る関西国際空港連絡橋(3750m)などが開通したため、ベスト3から外れてしまいました。

 それでも「私鉄」でかつ「鉄道専用橋」と限定すると今でも日本最長です。一般的に地下を走っている「地下鉄」が、橋梁最長のタイトル保持者とは何とも皮肉です。

かつての姿はまるで「モーゼの十戒」?

 橋梁は一般的に、無駄な建設コストをかけないよう、河川の堤防と堤防の間に最低限渡すのが常識です。しかしこの荒川中川橋梁には、両岸のそれぞれ数百メートルほど内陸側に、「のりしろ」のように、りっぱなトラス橋梁がずっと続いています。

 一見無駄に見える「内陸部の橋梁部分」ですが、実は東岸と西岸、それぞれにやむを得ない事情があります。


橋のかなり手前、住宅地エリアからトラス鉄橋となっている東西線(筆者撮影)。

 まず東詰めについては、かつての「海の名残り」だったせいです。開業後10年ほど、東西線は東京湾の上を走っていました。都心方面から橋を渡る瞬間、車窓から覗くと大きな堤防が見え、そこから鉄橋の真下は海原が広がっていました。

 1970年代半ば頃に江戸川区南部の通称「葛西浦」は埋め立てられ、今ではすっかり陸地を走る高架線にしか見えませんが、トラス橋の真下には今でも「旧葛西海岸堤防」の一部が史跡として残されており、その昔「モーゼの十戒」のように、海の上を電車が走っていたことを伺わせています。

 西詰のほうは建設当時、すぐそばに工業用水給水用の巨大な水槽があり、近くに橋脚を打ち込めなかったことや、そもそも周辺が軟弱地盤だったという事情があります。

 荒川・中川河口周辺の地盤は沖積層が分厚く堆積する「極めて地盤の悪い場所」で、実際川底から7〜8mは砂礫層、そしてその下には超軟弱の粘土質シルト層となっており、橋脚を安定させるためには基礎を最大72mの深さまで打ち込まなければならず、当時世界的な施工記録だったのです。

 工事費が莫大になるため、橋脚の本数をなるべく減らしたいとの思惑から、橋桁のスパン(長さ)を長くできるトラス橋が、堤防の反対側でも採用されたわけです。

「トラス鉄橋でよかった」というエピソードも?

 さらにこの鉄橋をよく見ると、ビミョウに全体が左に曲がっていることがわかります。鉄橋は直線で造るのがコスト、技術、耐久性いずれの面でも有利なのですが、どうして「左曲がり」なのか、実はよくわかっていません。

 余談ですが、1978(昭和53)年2月に、この鉄橋の東詰め(江戸川区側)の、ちょうど昔海だった辺りで上り電車が強風に煽られ脱線し、多数の負傷者を出すという大事故が起きました。原因は竜巻らしく、どうやら海側から吹き付けた強風が前述の海岸堤防にぶつかって上昇し、電車を持ち上げたのではないかと見られています。

 また脱線した車両は横転したものの、幸いにもトラス橋の特徴的な三角形状に鉄骨を編み上げた「舷」に引っ掛かったため、十数m下の地面へ落下する最悪の事態を、からくも避けています。まさに「トラスさまさま」な出来事と言ってもいいでしょう。


※一部修正しました(10月13日15時37分)。