2014年『ビオレタ』で第4回ポプラ社小説新人賞を受賞しデビューして以来、『夜が暗いとは限らない』、『水を縫う』など、数々の話題作を世に生み出してきた、小説家・寺地はるなさん。

8月18日に発売した、最新作『わたしたちに翼はいらない』は、なんとその前評判から発売前重版が決定。

小説家・寺地はるなさんインタビュー。「小説を書き始めたきっかけは…」

小説家として多忙な日々を過ごす寺地さんですが、私生活では中学校1年生のお子さんがいるお母さんです。そこで今回は、小説家を目指したちょっと意外な理由やお子さんとの生活で大切にされていることなど、プライベートな部分についてお話を伺いました。

●幼少期は「小説家」を目指していなかった!?

話題作を続々と生み出していますが、驚くことに元々は小説家志望ではなかったそうです。そこでまずは、小説家になった理由を尋ねてみました。

「正直に話すと通勤電車に乗って通うのがイヤで、小説家になる前はパートとして働いていました。仕事のときは当時1歳の息子を保育園に預けていましたが、この年齢ってしょっちゅう熱を出しやすいんです。子どもが熱を出すたびにパートを休むのも気が引けるので、都度病児保育に預けていました。ただ、(当時)私のパートが時給1000円で、1日4時間働いて4000円の稼ぎ。それなのに、病児保育に預けると2000円の支出が発生して、『なんだコレ…』と感じたんですよね」(寺地はるなさん、以下同)

ならば、苦手な電車にも乗らずに、なんとか”家”で稼げることがしたい! そんなことを考え始めた矢先、ひょんなことから“小説公募の新人賞”がたくさんあると知ったそうです。そして、「作家になることは考えずに、(公募に)作品を出しまくったら賞金がもらえるのでは?」と考えて、「小説を書く」ということを始めました。

とはいえ、在宅で可能な仕事がほかにもあるなかで、なぜ“小説”という選択をしたのでしょうか?

「私自身できることが少なくて、いろいろ考えた結果、消去法で“文章を書く”というのが残ったんです。昔から書いていたわけではありませんが、『勝手に書けるだろう!』くらいの図々しさがあったし、寝不足だったのでちょっとハイになっていたのかも…。常識的にあり得ない判断をしていたんですよね」

そう振り返る寺地さんですが、賞を取るために書き続けた小説ですが、気持ちの面である変化が生じていきます。

「じつは、“最終選考に残る”のと、“賞を取る“では大きな開きがあるんですよ。最初は、最終選考に残る=デビューできると思っていたし、もしかして職業として選択できるのでは? なんて感じてもいました。ただ、書けるだろうと思って始めたものが、なかなか人には認めてもらえず、自分で読み返してもへたくそだって思ったんですよね…。

だから、書き続けているうちに、“もっとうまくなりたい”という気持ちに変わってきて…『賞金が欲しい』という目的から、『もっといいものが書きたい』という風に自然と変化しました」

●デビューしても、パートはしばらく続けていた

そして、小説に挑戦してから2年。寺地さんが37歳のときに書いた『ビオレタ』が第4回ポプラ社小説新人賞を受賞して、晴れて小説家デビュー。年齢を重ねると、新しい道に進むことや、チャレンジすることに少し怖さが生じることもありますが、30代から小説に挑戦したことに対して、当時不安や怖さは感じなかったのでしょうか?

「たとえば、これがなにかの教室に通うとか、いろんな人に会ったり、教えられたりするものだったらもっと怖かったし、勇気が必要だったと思うんです。でも、小説はひとりで書くものだし、郵便で送るものだから不安はありませんでした」

デビュー当時、息子さんは4歳。そのままパートはやめるかと思いきや、まだ生活していくには大変だったので、パートは続けていたそうです。

「その頃の記憶もないし、削るのは睡眠時間しかなかったので、そこを削って…とにかく大変でした。だから、育児と仕事が両立できていたかっていうと、できていなかったかも…。でも、子どもが小学校入学したときには、執筆の依頼とかも継続的にいただけるようになったので、パートはやめて、小説一本に絞りました。

でも、意外と時間があるから書けるというものでもないんですよ。私は、たっぷり暇があるから書けるっていうタイプではないし、家にいすぎると、ものごとを考えられなくなるんです。小説のテーマが浮かびやすいのは、人に会ったりとか、自分と異なる考え方に出くわしたとき。だから、忙しくてもなにかに関わっていた方が書くことはあるのかなって思います」

そう語る寺地さんに、デビュー前の作品について伺うと「笑うくらいへたくそでしたね」とひと言。そして、「『こう書けばよかったな』とか思うだろうし、誤植とか見つけたらショックで怖いから読まないようにしています」と苦笑いしながら教えてくれました。

●子育てでは“お互いの立場”や“意思”を大切にしたい

新人賞に応募するまで、小説を書いたことはないそうですが、子どもの頃に、小説家に憧れたり、「本」を読んだりすることはなかったのでしょうか?

「父が少し変わっていて、わが家の娯楽は制限されていました。ただ、本を買うのはダメだったけど、図書室で借りることは許されていたので、本は身近な存在だった。もし、テレビとか見せてもらっていたら本は読まなかったと思います。

あとは、想像をするのが好きで、本屋さんとかにある(本の)カタログとかを見て、タイトルとあらすじから一生懸命内容を想像して遊んでいました。ないなら自分でつくるというのは昔からあったので、今思うと、それが後々、“書いてみよう”という経験につながったのかもしれませんね」

幼少期の本を「読む」、「想像する」といった経験が、大人になってからの「小説家」という選択に知らぬうちに結びついていた寺地さん。

息子さんの“読書”事情について尋ねると、「親がすすめると読まなくなる可能性もあるから、(自身からは)あまりすすめてない」とのこと。そして、お子さんとのちょっとしたエピソードも教えてくれました。

「ある日、息子が家を出ないといけないギリギリの時間に起きたんですよね。だから、『急いで準備して!』って息子に言ったら、『遅刻するのは自分であって、お母さんではない。お母さんは、自分の子どもを遅刻させたくないという自分の都合で言っている』って返してきたんです。

もう少し整理されていない言葉だったけど、そういわれると、『そうだよな…』と思う部分もあって。子どもから“はっ”と気づかされることもあり、本人にも納得もしてもらわないといけないから伝えるということは難しいですよね」

そう話す姿は“小説家”から自然と“母”の表情に変わっていました。そして最後に、仕事と子育ての両立に奮闘する中で、子育てで大切にしていることを寺地さんに聞くと、「お互いの立場」と答え、こう続けます。

「子どもと接していると、どうしても親の立場の方が強くなっちゃうから、どうしたらいいんだろうなって思うことが多々あります。こちらの都合で強く言えば聞いてくれるかもしれないけど、それって力で抑えているだけ。そういうのじゃなくて、これからも子どもの『意思』みたいなのを大切にしてあげないとな、とは思っています」

自身の経験や日々感じたことを交えて、そう健やかな笑顔で語ってくれた寺地さん。後編では、話題作『わたしたちに翼はいらない』にまつわるお話を伺っています。