乗客も駅員も荒みきった鉄道「暗黒の4年間」の実態 1945〜1949 ″地獄″は戦後に訪れた
1945年の終戦から約4年間は、生き抜くだけでも必死な、混乱した社会になっていました。その情勢は鉄道内で起きる事件の悲惨さにも表れています。
終戦その瞬間も走り続けていた鉄道
1945(昭和20)年8月15日は人々にとって、空襲や艦砲射撃の恐怖から解放された安堵の日であったと同時に、物資も食料もない中で「戦後」を生き抜く新たな戦いが始まる悲壮な日でもありました。
貨物や客車をけん引した蒸気機関車(画像:鳥栖市)。
国が大きく動揺する中、変わらず動き続けたのが鉄道でした。戦争末期の大規模空襲で設備、車両が大きな被害を受ける中、国有鉄道は貨物主体の「決戦輸送」を敢行していましたが、終戦後は引き上げ輸送、進駐軍輸送、外国人送還輸送など大量の旅客需要に応える必要が生じたからです。
ようやく落ち着きを取り戻したのは、日本国有鉄道発足とあわせて実施され、特急列車、一等寝台などが復活した1949(昭和24)年9月のダイヤ改正頃からと言われています。ではそれまで、生きるか死ぬか「激動の4年間」の鉄道はどのように動いていたのか。当時の新聞から辿ってみることにしましょう。
まずは1945(昭和20)年9月29日の朝日新聞から「乗客を犬箱に監禁 東京駅員の暴状発覚」という衝撃的なニュースです。記事によれば8月15日頃から1か月にわたり東京駅の小荷物係の駅員9人が結託し、駅構内、列車内で乗客の身体検査を勝手に行い、詰所に連れ込んで暴行を加えた上、所持金を強奪しました。さらにこれに反抗した乗客を軍用犬輸送に使っていた犬小屋に閉じ込め、さらなる暴行を加えたというのです。
終戦直後とはいえ、このような暴挙が行われたのは当時の鉄道がそれだけ混乱の最中にあったからでしょう。同年12月3日付朝日新聞によると、終戦から11月3日までの統計で死者13人、負傷者53人が出たといいます。闇市などへ買い出しに出かける近郊居住者の増加で私鉄各社の乗客は同年3月比で倍近くになっている一方、輸送力は2〜4割減となっているため、まさに地獄のような大混雑となっていました。
混雑に混乱 ピリピリした「殺伐の鉄道風景」は現代の想像を超える
1946(昭和21)年12月には、列車内で乗客整理を手伝っていた尾久駅所属の20代操車係が、あまりの混雑で気分が悪くなってしゃがんでいたところ、大宮駅で人波に襲われそのまま死亡するという痛ましい事故も発生しています。
1947年ごろの東京の街角(画像:東京都)。
おんぶした赤ちゃんが車内混雑で圧死してしまった母親が過失致死罪で逮捕されたというニュースに関して、投書欄では「生活のため子どもと乗車せざるを得なかったのに『混雑時に乗った方が悪い」」というのはおかしいという声が上がる一方、「混雑を放置したままなぜ運行したのか」と鉄道の責任を追及する声、車内で「子どもがいるから押さないで」とアピールして同情を誘う「非常識な母」を非難する声など、地獄のような「マナー論争」が繰り広げられる有様です。
また1945(昭和20)年12月に労働組合法が公布されると、1946(昭和21)年2月に「国鉄労働組合」が結成され、早速月末にサボタージュ闘争を繰り広げます。その結果、山手線が一周に4時間を要する事態となり、乗客は激怒。乗務員に暴行し、駅事務室を襲撃、電車に投石する騒ぎとなりました。
殺伐とした雰囲気は至るところに漂っていました。同年9月20日付読売新聞は「乗客を殴り殺す 田町駅の改札係」として、19日昼に40代乗客と20代駅員が口論になり、乗客に頬を殴られた駅員がカッとして殴り返したところ、乗客はコンクリートに頭を強打。搬送先の病院で死亡したと伝えています。
また終戦からちょうど2年が経過した1947(昭和22)年8月15日付朝日新聞は、東海道線内で制服制帽の男が乗客から現金3万円などを盗み、沼津駅で下車したが駅員に捕まった事件を報じています。なんとこの男、東京車掌区所属の本物の車掌で、しかも鉄道司法警察官吏(後の鉄道公安)を兼務していましたが、非番でも制服を着用し、悪事に手を染めていたのです。
さらに同年、川崎から宮城に向かう貨物列車の行先を、貨物駅員らが勝手に山形に書き換えて10両分の硫酸アンモニア(肥料)を奪い取ろうとし、6人が逮捕。おまけに北陸線ではヤミ米を積み込んだ機関車が立て続けに発見され、運転士らが逮捕されています。
ズルする人間と咎める人間、どちらも過激
乗客も黙っていません。同年5月11日、東京駅を発車した超満員の東海道線車内で、制服姿の鉄道員が何と網棚の上へ乗り込みます。乗客が「荷物の置く場所がないから降りろ」と声を上げ、鉄道員は「泥棒が出るからここで見張ってやるのだ」と言い返す「事件」が発生します。
「鉄道員のくせに態度が悪い」と怒った乗客たちが引きずり降ろし、袋叩きにして、次の新橋駅でホームにつき落とされました。彼は鉄道教習所教習生だったので制服を悪用しようとしたものと思われますが、どちらもやることが過激です。
乗客間の暴力も多発しました。例えば朝日新聞は同年8月12日未明、東北本線上野発青森行き列車が船岡駅に到着する直前、乗客2人が荷物をめぐって喧嘩となり、50代男性が短刀などで切りつけられた上、列車からつき落とされ即死したと報じています。
また1947(昭和22)年6月1日にも品川発岐阜行き列車が走行中、一般旅客乗車禁止の寝台専用車への立ち入りをめぐって乗客が乱闘となり、20代男性が40代男性を殴り殺す事件が発生。全国各地でこのような物騒な事件が起きていました。
戦時中、厳しい規制と監視があったとはいえ、事業者と利用者は不思議なほど淡々と鉄道を動かし続けてきました。その反動だったのかもしれませんが、この暗黒の4年間は残念ながら日本鉄道史の汚点と言うほかありません。終戦を挟んでも動き続けた鉄道が日常の象徴だからこそ、同時に鉄道で発生した様々な事件は社会状況を反映していたと言えるでしょう。