旧駅名がストレートすぎ!? JR南武線の最閑散駅「津田山」 宅地に隠れた“ザ・工業廃線”の記憶
JR南武線で最も乗車人員が少ない津田山駅。どのような場所なのか現地を訪れてみました。小さな駅ですが、かつては貨物列車も発着。工業都市 川崎を支えた歴史が見えてきました。
JR(国鉄)の駅だけど私鉄の社長名由来
JR東日本が公表している「各駅の乗車人員」を見ると、2021年度、南武線で最も少なかったのは津田山駅(川崎市高津区:3173人)でした。次点の南多摩駅(東京都稲城市:5265人)よりも2000人以上少なく、百万都市「川崎」に所在しながら閑散駅ぶりがうかがえます。いったいどのような駅なのか、周辺を含め訪問しました。
JR南武線の津田山駅(2023年5月、大藤碩哉撮影)。
駅は平瀬川のつくる谷に位置していました。北側には駅名の由来となった津田山(七面山)が、南側には森林公園とも接する広大な緑ヶ丘霊園があります。もう少しミクロな視点で見ると、駅の北側では南武沿線道路が並行し、南側では市立小学校が隣接しています。
先述の霊園のほか、かわさき北部斎苑の最寄りでもあるため、駅周辺には石材店が目立ちます。駅利用者にも、礼服に身を包み花束を持った人が見受けられました。住宅は主にその周辺に広がっていますが、そうした土地利用が、乗車人員が少ない理由かもしれません。
駅から500mほど坂道を上り津田山公園へ向かうと、そこには津田山碑と頌徳碑があります。2つの碑は1926(大正15)年1月に建てられ、頌徳碑には津田山の由来が書かれています。
玉川電気鉄道(東急の前身)の社長だった津田興二が、同地(七面山)一帯に大遊園地を建設しようと構想。計画は頓挫しますが、そのほかの事業である鉄軌道、電力、玉川遊園地建設などの功績が評価され、以降この地は津田の名にちなみ「津田山」と呼ばれるようになったのです。
ところで、駅の開業は1941(昭和16)年2月のこと。しかも当時は津田山ではありませんでした。改称されたのは敗戦色濃くなった1944(昭和19)年4月のことで、開業から3年は「日本ヒューム管前」という名称でした。
市立小学校、実は工場跡に
日本ヒューム管(現・日本ヒューム)とは、下水道管などに用いられるコンクリート製のヒューム管を製造する会社で、1940(昭和15)年、現在の津田山駅の南側に工場を設置しました。当時、南武線は私鉄の南武鉄道です。同じ浅野財閥系の会社だったため、工場の目の前に駅を設けるのは容易なことでした。ちなみに津田山へ改称された時、南武線は国有化されています。
津田山駅に隣接する日本ヒューム管(現・日本ヒューム)の工場。製品はここから貨物列車で輸送された(写真提供:日本ヒューム)。
工場があった場所は現在、市立小学校とスーパーマーケットになっています。2020年3月までは「スノーヴァ溝の口R-246」という屋内人工雪スノーボード場もあり、その閉業を告げるプレスリリースは日本ヒュームから発出されています。工場が閉鎖されてから久しいですが、土地の所有者は引き続き同社だったわけです。
製造されたヒューム管は、津田山駅から貨物列車に載せて輸送されていました。駅の南口を出ると、小学校との境にある通路を歩くことになりますが、この辺りから工場へ引き込み線が延びていました。出荷を待つ大量のヒューム管が線路に沿って並べられていたそうで、その様子は津田山駅ホームからもよく見えたといいます。
そして津田山駅にはもうひとつ、貨物輸送の拠点だった痕跡があります。現在の緑ヶ丘霊園の北側へも、引き込み線が延びていたのです。
住宅のあいだ 踏切脇… 不自然なスペース
線路は久地駅方面へしばらく南武線と並走した後、現在の「川崎市子ども夢パーク」付近で西へ向きを変え、弧を描くように敷設されていました。向かう先は土取り場。霊園になっている辺りは当時、セメントの材料となる粘土の採掘場だったのです。
粘土はヒューム管と同じように、津田山駅から川崎臨港部へ輸送されていました。当時の記録には、「土取り線」(引き込み線)へ蒸気機関車が入線し貨車を牽引したという記述も見られます。
土取り線はこの住宅のあいだを通っていたとみられる。空間はかつての線路に沿ってカーブしている。写真を一部加工(2023年5月、大藤碩哉撮影)。
土取り線跡は駅側で日本ヒュームの敷地内を通るほか、それ以外の区間は廃線となって久しく周囲は宅地されているため、痕跡はほとんどうかがえません。唯一、霊園手前の道路が廃線跡と重なるほか、住宅のあいだにカーブした不自然な空間が見て取れます。
また土取り線は途中で分岐し、さらに久地駅方面へと延びていた可能性があります。古い航空写真に線路が写っているほか、昭和40年代に沿線で撮影された写真には、現在の津田山第二踏切付近で、草に覆われた線路に車止めが設置されている様子が収められています。
現地を訪れると、線路はとうに撤去されているものの、踏切用地が3線分確保されていて広いうえ、かつて線路が延びていたであろう方向を見ると、住居が廃線跡に沿って後退しているのが分かりました。
南武線の小さな駅、津田山。歴史をひも解くと、意外な一面が見えてきます。