どうしてこんなに地味なんだろう「JR草津線」 国鉄型も静かに消えた京都の近郊線 実は“134歳”
長く残った国鉄型電車113系と117系の引退で話題になったJR草津線。しかし鉄道ファンが現地に殺到することもなく静かに消えていきました。京都の近郊路線でありながら、どうにも地味な同線、実は深いバックグラウンドを持っています。
国鉄型電車の引退で注目…されたよね!?
JR西日本の草津線は、滋賀県の東海道本線草津駅から分岐して、忍者のふるさと甲賀市を経て、三重県伊賀市の関西本線柘植駅に至る37kmの路線です。ただ、京阪神にお住まいの方でも、鉄道ファンの方でも、あまり印象にない路線だと思います。京都駅や大阪駅への直通電車が走りますが、沿線に主要都市や観光名所がなく、車窓は変化に乏しく、優等列車が走らない路線であるのも一因でしょう。
朝夕のラッシュ時には草津線から東海道本線京都駅までの直通が走る。2023年3月までは117系6連、113系8連が充当された(森口誠之撮影)。
2023年春、草津線を走る113系と117系に、注目が集まりました。京阪神最後の国鉄型の近郊型電車だったからですが、鉄道ファンが殺到して大騒ぎになることもなく、4月1日、静かに消えていきました。ある意味、草津線らしい幕切れでした。
そんな地味な路線はありますが、草津〜三雲間の開業は1889(明治22)年と歴史ある路線です。
当初経営していたのは関西(かんせい)鉄道という私鉄です。この年、官営鉄道は、滋賀県内で関ケ原〜米原〜草津〜馬場(現・膳所〈ぜぜ〉)間のルートを完成させ、東海道線新橋〜神戸間を全通させています。その支線的な位置づけでスタートしました。
関西鉄道は、翌年に四日市、1891年に津、1895年に名古屋まで完成させ、関西と三重・愛知を結ぶルートを完成させます。3年後には奈良経由で名阪間直通列車の運行を始めます。ユニークな経営方針で、官営鉄道東海道線を凌駕するサービスを展開し、鉄道史に残る逸話をたくさん残しますが、それはまた別の話。
その後、鉄道国有法で官営鉄道ネットワークに組み入れられます。大正時代は関西から伊勢方面へのアクセスルートとして重要視されました。
ただ、昭和になると、今の近鉄電車にその役割を奪われます。
草津線は近代化から取り残され、1972(昭和47)年まで蒸気機関車D51が走っていました。1980(昭和55)年の電化、1987(昭和62)年のJR西日本移管後も、ディーゼル機関車DD51牽引の客車列車が行き来していました。令和になってまで国鉄型電車が走っていたのも、設備投資が後回しにされてきたからです。
8両が満員になる京都近郊の穴場
そんな草津線ですが、朝ラッシュ時間帯は様変わりします。8両編成の電車は通勤通学客で満員です。
特に草津〜貴生川間の2019年度の輸送密度(1kmあたりの平均通過人員)は1万8237人と高水準を示しています。手原〜貴生川間各駅の2019年の乗車人員数は1日あたり1万3360人で1980年比58%増になっています。沿線の宅地化が進んでいるためで、京都や大津への通勤通学に便利な点や、比較的、地価が安い点が着目されています。
今後も利便性向上への投資が実現できればまだ伸びる余地はあるかもしれません。甲西駅での行き違い設備の設置、手原〜石部間などでの新駅設置、複線化などの構想がありますが、具体化していないのが現状です。
建築系鉄道ファンには聖地的な路線
草津線と関西本線が接続する柘植駅。三重県最初の鉄道駅でもある。1時間に1回、関西本線下りと上りのキハ120、草津線電車が到着すると、駅構内はにぎわう(森口誠之撮影)。
さて、草津線は来年で135周年を迎えますが、歴史があるゆえに鉄道遺産が豊富に残る路線でもあります。ポイントを2点紹介しましょう。
まずは、明治半ばに掘削されたトンネルなどの構造物。関西鉄道は、三雲駅の西側に、3つの天井川トンネルを掘削しました。
滋賀県は、川底が周囲の地面よりも高くなった天井川が多い地域です。土砂が蓄積して洪水が起きるのを防ぐべく堤防を高くしているうちに、人家よりも高い位置に川が流れるようになったのです。
現存しているのは大砂川トンネル1か所です。三雲駅から草津行き電車で西へ2kmほど行くと、大砂川の築堤の下を潜り抜けます。14.5mの短いトンネルですが、石材とレンガで構築された外観は開業時の面影をよく残しています。すぐ近くには、同じ大砂川の下を潜る道路トンネルの大沙川隧道、通称「吉永のマンボ」もあります。1884(明治17)年築造で、現役の石造道路トンネルでは日本最古と言われています。
また、三雲〜貴生川間には明治期以来のレンガ造りのアーチ橋が2つあり、国分橋梁の坑門には関西鉄道の社紋が刻まれています。これも国内では珍しい存在です。
草津で生まれた日本の旅行業
もう1つは、東海道本線との分岐点となる草津駅です。実は、草津駅前は「日本の旅行業発祥の地」でもあるのです。
江戸時代に東海道と中仙道の交わる宿場町として栄えた草津の街は、明治になると、東海道本線と関西鉄道の接続する乗換駅として再び人の交わる場所へと変貌していきます。
そんな草津駅で開業以来、駅弁を販売していた南 新助という人物がいました。駅付近の大地主の1人で、駅構内や駅前に飲食店を開くなど手広く事業を広げていきます。
南は、1905(明治38)年、高野山と伊勢神宮への参拝ツアーを企画し、県内各地から900人が参加しました。大勢の人を集めれば運賃が半額になる制度を活用した形です。これが日本の団体旅行、旅行斡旋事業の始まりとされています。1908(明治41)年には貸切列車で関東や善光寺を巡る旅も実施しています。団体列車の企画運行も国内初となります。
南家の旅行事業は戦後、全国に展開をしていき、現在、旅行業界大手の日本旅行となっています。
創業家一族のうち、南グループ(日本観光開発)は草津駅西口でホテルを営むなど幅広い事業を行い、代表者は日本旅行の主要株主にも名を連ねています。
草津駅の改札口前にある南洋軒。明治の草津駅開業以来の店舗で、都市部の通勤駅にもかかわらず、駅弁を今でも販売している(森口誠之撮影)。
その親戚筋の営む南洋軒グループも草津駅前に店を構え、あんころ餅の和菓子「うばがもち」を販売しています。日本旅行草津店が草津駅東口にある第2南洋軒ビルに入居しているのも明治以来のご縁なのでしょう。以前は「日本旅行 発祥の地」との看板を店に掲げていました。
ちなみに、草津駅改札口前の南洋軒では、うばがもちと一緒に、近江牛すき焼き弁当などの駅弁を販売しています。日本鉄道構内営業中央会に加盟しているのも長い歴史ゆえです。草津線電車は全便、転換クロスシート車なので、お弁当を買って乗り込めば、ちょっとした旅気分を味わえるかもしれません。