フィリピンにまつわる財宝の話はいくつかあります。有名なところでは「山下財宝」なる都市伝説でしょうが、現実に金塊の脱出劇がありました。アメリカ潜水艦による金銀の極秘輸送任務についてひも解きます。

フィリピンの財宝なんのため?

 太平洋戦争にまつわる噂話のひとつに「山下財宝」なるものがあります。これは戦争初期に旧日本軍が東東南アジアの欧米植民地を占領した際、そこで差し押さえた金塊を日本本土に移送しようと計画を立てたものの、戦局が悪化したことで中継地のフィリピンに秘匿したというハナシです。

 戦争後期にフィリピンの軍司令官だった山下奉文大将が、この金塊に関わっているとして「山下財宝」と呼ばれるようになりました。


金塊を積んで真珠湾に到着した「トラウト」、手前は軽巡洋艦「デトロイト」(画像:アメリカ海軍)。

「山下財宝」は信ぴょう性が不明のいわゆる都市伝説ですが、戦争中のフィリピンでは実際に金塊を密かに運び出したケースがあります。ただ、それにはフィリピンとアメリカの関係を知る必要があります。

 そもそも、フィリピンを当初、植民地にしたのはスペインです。16世紀の大航海時代以降、長らくスペインの植民地でしたが、1898(明治31)年の米西戦争でアメリカが勝利すると今度は同国の統治下に置かれました。

 これにフィリピン住民は独立運動を起こします。その直後、1899(明治32)年から1902(明治35)年にかけて起きた米比戦争の結果を受け、アメリカ連邦議会は1916(大正5)年にフィリピンの自治を認めた上でのち、1934(昭和9)年には10年後の完全独立を約束するまでに至りました。

 こうしてフィリピン内部で独立の準備が進むなか、1941(昭和16)年12月8日に太平洋戦争が勃発します。開戦直後、フィリピンに進攻した旧日本軍によってアメリカ極東陸軍は窮地に立たされます。

 日本軍の圧倒的な優勢下を鑑み、司令官のダグラス・マッカーサーがルソン島のマニラ湾に面したバターン半島と湾口に位置するコレヒドール島にアメリカ軍の撤退を命じます。

 彼は1935(昭和10)年にアメリカ陸軍参謀総長を退任後、フィリピンの軍事顧問に就任していました。父親が陸軍将校として米比戦争に従軍し、駐留アメリカ軍の司令官に就任した経緯があったことから、フィリピンとは縁が深かったのです。

 マッカーサーは1937(昭和12)年にアメリカ陸軍を退官した後も、自治政府の要請を受け、軍事顧問としてフィリピンに残りました。そのようななか、日米開戦が避けられない情勢になった1941(昭和16)年7月、ルーズヴェルト大統領(当時)の要請で現役へ復帰、太平洋戦争を迎えます。

本来なら深海に沈める予定だった金銀

 フィリピンに進攻した日本軍は1941(昭和16)年12月下旬、首都マニラへ迫ります。そこで、マッカーサーは司令部をマニラ湾のコレヒドール島へ移し、自治政府のケソン大統領ら政府要人と共に退避しました。


米比戦争でマニラを攻撃するアメリカ軍の砲兵(画像:アメリカ議会図書館)。

 なお、撤退時に通貨の処分を命じられた財務顧問ウッドベリー・ウィロビーによって、アメリカの通貨300万ドル、フィリピンの紙幣2800万ドル、小切手3800万ドルが廃棄されています。

 そして、年が明けた1942(昭和17)年1月2日、ついにマニラが陥落します。

 コレヒドール島にはマッカーサー以下のアメリカ軍だけでなく、ケソン大統領ほか自治政府の要人とフィリピン経済を支える財源も避難しており、その中には金の延べ棒320本(重さ20t)と大量の銀貨が含まれていました。これら金銀が敵である日本側に渡るのは避けねばなりません。なぜなら当時、世界各国とも経済活動の根幹をなす貨幣価値は金本位制を採っていたからです。ゆえに政府が発行する貨幣の信頼性は、保有する金の量で裏打ちされていました。

 マニラにある12の銀行に保管されていた金の延べ棒は、アメリカが約束した10年後の完全独立で、フィリピンの貨幣価値を保証するものだったのです。そのため、これらの金銀はアメリカ軍が降伏する事態に至った場合、深海に沈める手はずになっていました。

潜水艦による金銀輸送は偶然の産物か?

 そのようななか、アメリカ軍は日本軍に対して抵抗を続けるコレヒドール島に弾薬を運ぼうと計画します。ただ、戦艦を始めとして太平洋艦隊の主力が、軒並みハワイ真珠湾で大打撃を受けた直後のため、水上艦船による救援は見込みが立ちません。そこで目を付けたのが潜水艦を用いた隠密裏の輸送。白羽の矢が立ったのが新鋭艦「トラウト」でした。


ハワイに到着した潜水艦「トラウト」(画像:アメリカ海軍)。

 1942(昭和17)年1月12日、潜水艦「トラウト」は船体の釣り合いを保つバラストの代わりに3500発の弾薬を積んでハワイ真珠湾を出発します。そして2月3日、無事にコレヒドール島の船着き場に接岸しました。

 弾薬が陸揚げされると、本来ならバラストになる土嚢(どのう)か砂袋が積み込まれますが、コレヒドール島にはありません。そこで、土嚢や砂袋の代替物として使われたのが、前出の金銀で、有価証券や郵便物も輸送することになりました。

 夜を徹して積み込み作業を終えた「トラウト」は、2月4日午前4時に財務顧問ウィロビーを乗せてコレヒドール島を出航します。昼間はマニラ湾の海底に潜み、夜になって日本側が敷設した機雷原を抜けて東シナ海へと脱出しました。

 こうしてコレヒドール島出港から約1か月後の3月3日、真珠湾に帰還した「トラウト」は軽巡洋艦「デトロイト」に積荷を移し、任務を完了しました。

 ただ、このときはまだ大量の金銀をアメリカまで運んできたことはあまり公になっていませんでした。「トラウト」による金塊の輸送がアメリカ国民のあいだに知られるようになったのは、真珠湾帰還から2か月半も経った5月25日のこと。「タイム」誌が報道したことが端緒です。

 その後、「トラウト」は太平洋戦線で多くの日本艦船を沈め戦果をあげますが、1944(昭和19)年2月29日、南西諸島で日本の輸送船団を攻撃中に旧日本海軍の駆逐艦「朝雲」による爆雷攻撃で撃沈されています。

 潜水艦による物資輸送は太平洋戦争後期に制海権を失った旧日本海軍がしばしば行ったほか、旧日本陸軍も輸送専用の潜水艦「三式潜航輸送艇」、通称「まるゆ」を造って独自に実施しています。しかし、実は太平洋戦争の勃発当初にアメリカ軍も同じ方法を用いていたのです。

 ある意味で、アメリカ軍も考えるところは日本と一緒だったと言えるのかもしれません。