結婚を決めた理由は「なんとなく」だった。惰性で決断したことを女が後悔したワケ
港区界隈に夜の帷が下りる頃、あちこちで「ポン！」と軽快な音を立ててシャンパンが開く。
そこに突如として現れる美麗な1人の女がいる。
彼女の名は、天堂麗香。人呼んで「ポン女」。
港区とシャンパンをこよなく愛し、この地の治安と経済の発展のために生きる伝説の女だ。
◆これまでのあらすじ
早坂に惹かれつつある菜々子。年明け、早坂、近藤の2人と新年会の約束をしていたが、待ち合わせ場所に早坂は現れず…。
Vol.10 別れた理由
早坂が来ないことにガッカリしたものの、菜々子は近藤と2人で『中国飯店』に入った。
クロークにコートを預け、折目正しいクロスのかかったテーブルに着く。
「菜々子ちゃん、なんでも食べたいもの注文して」
菜々子は、少し離れたテーブルの客が大きなフカヒレの皿をサーブされている様子を見て、急に食欲が湧いてきた。
「ああ、美容にいいし、女の子はフカヒレ好きだよね。頼もうか」
菜々子の視線に気がついた近藤が、冷菜のほかに、フカヒレの姿煮や北京ダックなどをオーダーする。
― 近藤さんって、いつでも紳士的だわ。
「早坂は来れなかったけど、菜々子ちゃんとゆっくり話してみたかったから嬉しいな」
「ありがとうございます」
菜々子は、とりあえずと笑顔を作るが、話が続くか不安もあった。
2人きりで会うのは初めてだし、前回は早坂が会話をリードしていた。近藤と菜々子は、どちらかといえば、聞き役だ。
そんな菜々子の様子に気づいたのか、近藤が話をふってきた。
「ところで、菜々子ちゃんって、なんで麗香さんのところで働き始めたの？」
「友達の紹介です。ちょうど仕事を辞めたばかりのタイミングで、お話をいただいたので」
ほどなくこんがり飴色に焼かれた北京ダックを乗せたワゴンがやってきた。目の前で小麦粉の皮、ヤーピンに丁寧に巻かれ供される。
「美味しい…」
思わず笑みがこぼれる。
「喜んでもらえてよかった」
近藤は嬉しそうに菜々子を見る。
「麗香さんと知り合ってから、それまであまり縁のなかったお酒やお料理をいただく機会が増えましたけど、やっぱりお箸でいただくお食事が気取ってなくて好きです」
「麗香さんはパーティー好きだもんなぁ。ところで、麗香さんのところで働く前は、何やってたの？」
「広告代理店で営業やってました」と答えてから、「寿退社して、麗香さんのところに転職しました」と付け加える。
「えっ？菜々子ちゃんって結婚してるの？」
驚く近藤がおかしくて、菜々子もつい笑ってしまう。
「いえ、いろいろ事情があって、結婚の予定はなくなりました」
近藤は事情について深く突っ込んではこなかったが、「別れた彼はどんな人？」と尋ねてきた。
菜々子は一瞬口ごもる。
元彼がどんな人だったか人に話すのは、別れて以来初めてだったから。
「普通ですよ。大学3年生の時に付き合い始めて、一緒に授業に出て、学校の帰りにはスタバでお茶しながら一緒に課題やって…。
一緒にいるのが当たり前だと思ってました。だから、30歳まであと数年ってなったとき、自然と結婚の話になりました」
以前勤めていた大手の広告代理店では、人間関係もうまくいってたし、仕事だって嫌じゃなかった。
とはいっても、部署によっては古い体質を引きずっていて、女性が男性と同じように活躍できる環境とは程遠かった。
それに、仕事だからしんどいなって思うことが、たまにある。
どうしても辞めたいわけじゃないけど、辞められたら嬉しいという気持ちも結婚を後押しした。
「今考えると、私たちの間にどうしても結婚は必要だったか？って言われると、そうじゃなかったかもしれないって思うんです」
あまりにも一緒にいすぎて、キュンって胸を締めつけられるような気持ちはすでになかった。
菜々子は、ここ数年の彼との関係性を思い返した。
「わからなくもないな。僕も一度失敗しているし」
「えっ？」
思わず顔をあげると、近藤と目が合う。
「やっぱ、バツイチだと恋愛対象外？」
「そんなことはないです…」
近藤は、家柄がいい、幼稚舎出身。そして、投資家だなんて菜々子の人生の中で、比べる前例のない優良物件だ。
そんな完璧な近藤に離婚歴があることが、菜々子は意外だった。
近藤は自らの結婚生活について語り始めた。
「元妻はインカレのゴルフサークルの後輩だったんだ。結婚していたのは、2年くらいかな」
近藤は、大学卒業後メガバンクに勤めていた。将来的に伸びる見込みのある、優良な融資先を見つける業務に携わっているうちに、マーケットの動向を気にするのが習慣になったという。
結婚して半年経った頃、銀行の仕事がつまらなくなって退職。その後、実家の不動産の仕事の手伝いとトレードだけで生活し始めた。
「実家の両親との距離も近いし、僕は毎日家にいるし。まさか会社を辞めると思ってなかったみたい。
色々ストレス溜めていたみたいだけど、僕は全然気づいてなくて“別れたい”って言われたときは、言葉が出てこなかったよ」
つい菜々子は「つらいですよね…。私も同じこと言われました」と口走った。
「じゃあ、僕らきっと痛みがわかるもの同士、気が合うんじゃない？付き合ってみるのはどう？」
近藤の言葉に、嫌な気はしなかった。
ただ、さっき元恋人のことを話していて、思ったことがある。次に恋愛するなら、菜々子がとっくに忘れてしまっていた心弾むような感覚を楽しんでみたいと。
「近藤さん、ごめんなさい。私、まだそんな気分になれないんです」
すると近藤は少し残念そうに、しかし穏やかな表情で言った。
「別にいいよ。今すぐどうにか、なんて思っていないから。時々、こうやって食事でもしようよ。
仕事でイライラした時とか、全然話聞くし。こないだみたいに、春までなら早坂もいるから、3人でカラオケでもいい」
― え？春までって…？
菜々子が、聞き返そうとしたちょうどその時、フカヒレの皿が運ばれてきた。
思わず「わー、すごい」と声を漏らす。
黄金色に輝くスープの中に、横たわる大きなフカヒレ。
麗香が日頃からコラーゲン、コラーゲンと言っているから、菜々子も意識して摂るようになった。
「コラーゲン好きの麗香さんに羨ましがられそうです」
菜々子がそう言った直後、テーブルの端にふせておいた菜々子のスマホがブルっと震えた。なんとなく気になって、裏返し、スワイプする。
LINEのトーク画面の一番上には、早坂からのメッセージが表示されていた。
『早坂：今日連絡もせずにごめんね』
メッセージには続きがあるようだ。
気にはなったが、一旦スマホから手を離して、カトラリーを手にとり黄金色のスープを一口含む。
「うーん、美味しい以外言葉が出てこないです」
菜々子は、目の前の料理の素晴らしさに一瞬恍惚となるが、近藤の食べ進む様子を見ながら、話を少し前に巻き戻す。
「ところで、さっき“早坂さんは春まで”って言ってませんでした？」
「ああ、早坂ね。アイツ、4月から海外赴任が決まったらしく、年明けからバタバタなんだよ」
「元々希望だしてたから、叶ってよかったよね」という近藤の声が、遠のいて聞こえる。
― じゃあ、今日来なかったのは…本当に用事？
年末、タクシーで送ってもらった夜のことを思い返した。たった数時間だけの、あの日の夜の楽しさに、いまだに縛られている菜々子。
今、近藤と2人で食事をしているのに、気になるのは早坂のことばかりだ。菜々子の頭の片隅に自覚なく、ふわふわと浮き続けていた、恋の予感。
それが、近藤の一言で無惨にも砕け散った。
▶前回：年末は積極的にアプローチしてきた彼。年明け女に急に冷たくなったワケとは
▶1話目はこちら：港区でシャンパンが開く場所に、なぜか必ず現れる女。彼女の目的は一体…
▶NEXT：1月12日 木曜更新予定
好きになる予感があったのに…早坂のLINEに書いてあったメッセージとは？
