「黒船襲来」2度目は白くなっていた 知られざる「白船来航」米国大艦隊が明治日本に来たワケ
江戸時代後期に日本に来航したペリーの「黒船」。それから半世紀後にアメリカ艦隊が再び日本へやってきたことはあまり知られていません。東京湾に入ってきた27隻の白い米国軍艦のワケと日本の対応についてひも解きます。
パナマ運河ができる前に計画されたアメリカの一大艦隊行動
幕末の1853(嘉永6)年、日本が開国するきっかけになったのが、ペリー提督率いるアメリカ艦隊、いわゆる「黒船来航」ですが、それから55年後の1908(明治41)年10月18日、再びアメリカ艦隊が来日したことはあまり知られていません。横浜に来航したこの艦隊は、船体の塗装から「白船」と呼ばれています。
「黒船」から半世紀を経て来日したアメリカ艦隊は、時代背景や日本に及ぼした影響は異なるものの、黒船のときと同様、日米関係の転機になりました。ペリーの黒船と比べ、知名度が低い白船、すなわち「グレート・ホワイト・フリート」について見てみましょう。
1907年12月16日、ハンプトン・ローズを出航するグレート・ホワイト・フリート(画像:アメリカ海軍)。
「白船」来日のきっかけは、当時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトが1907(明治40)年に議会で行った演説でした。アメリカ海軍の主力である大西洋艦隊を、大西洋から太平洋のサンフランシスコに回航するというものです。
当時パナマ運河は工事中(1914年開通)だったため、アメリカ海軍の主力艦船群を東海岸から西海岸へと回航するのは、南米を経由する大航海でした。
アメリカは1898(明治31)年の米西戦争でスペインに勝利し、カリブ海とフィリピンを支配下に置いていました。さらにハワイを併合し本格的に太平洋に進出しています。そういったなか、躍進するアメリカの国威を世界に示すため、ルーズベルト大統領が考えた一大イベントがアメリカ艦隊の世界周航だったといえるでしょう。
一方、日本との関係では、1905(明治38)年に終結した日露戦争において、ルーズベルト自身が日露間の休戦調停を斡旋(ポーツマス講和条約)していました。なお日米両国は、同年に結んだ桂・タフト協定で、日本は大韓帝国(現在の韓国・北朝鮮)に対して、アメリカはフィリピンに対して、互いにその支配権を確認し合っています。
しかし、中国に権益を求めようとするアメリカは、ロシアに勝利した日本の勢力拡大は将来的に脅威になると捉えていました。
それは日本も同様で、アメリカ艦隊が世界周航に出港した1907(明治40)年に、我が国はアメリカを仮想敵国とする「帝国国防方針」を打ち出しています。一方、アメリカでも日系移民の排斥運動が起こっています。
こうした日米関係を背景にアメリカは軍事力で日本を牽制する、いわゆる砲艦外交の意図も世界周航に反映させていたのです。
なお、日本側はアメリカ艦隊の受け入れに反対する意見もありましたが、最終的に歓迎する方針を決めています。
表向きは日本も白船来航を歓迎
アメリカ艦隊の航海は4回に分かれていました。第1回は1907(明治40)年12月から翌1908(明治41)年5月に、アメリカ東海岸のハンプトン・ローズから南米諸国を回ってサンフランシスコに至るものです。続く第2回は西海岸のサンフランシスコから海軍基地のあるワシントン州のピューゼット・サウンドを往復。そして第3回は同年7月にサンフランシスコを出航し、ホノルル、ニュージーランド、オーストラリア、フィリピンを経て日本、中国を巡り、再びフィリピンに戻るルートでした。
最後の第4回は、12月にフィリピンを出航し、翌1909(明治42)年にかけてセイロン島、スエズ運河を通って地中海から大西洋に抜け、ハンプトン・ローズに戻るというものです。
アメリカ艦隊の陣容は旗艦「コネチカット」以下戦艦16隻、水雷艇6隻、工作艦や補給艦、病院船など5隻というものでした。
人力車でヨコハマ見物を楽しむアメリカ海兵隊員(画像:アメリカ海軍)。
なお、ペリー艦隊が「黒船」と呼ばれたのは、帆船時代から軍艦の塗装が黒かったからで、19世紀後半には白い塗装に代わっています。ちなみに日清戦争や日露戦争の日本艦隊も白い塗装を用いていました。
日本を目指すアメリカ艦隊がマニラを出航したのは1908(明治41)年10月9日のこと。途中、大型台風の直撃を受けながらも、10月18日に横須賀港へ到着しています。
日本側は出迎えに戦艦「三笠」をはじめとする艦隊を随伴させました。緊張する日米関係とは裏腹に、横浜は歓迎一色となり、上陸したアメリカの乗組員も行動が許された藤沢や鎌倉、東京の見物を楽しんでいます。
のちに日本と戦った若き海軍士官たちも来日
訪日したアメリカ海軍の士官には、その後に起こる太平洋戦争で艦隊指揮官として日本と戦うことになる人たちがいました。
太平洋戦争時、南東方面軍司令官時代にはガダルカナルの戦いからソロモン諸島の戦いを経て、第3艦隊司令官としてレイテ沖海戦を指揮するウィリアム・ハルゼーは、白船来航のときに海軍少尉として戦艦「カンザス」に乗り組んでいました。
ほかにも、戦艦「オハイオ」にはミッドウェー海戦の空母部隊指揮官から第5艦隊司令官として太平洋戦争後期の戦いに重要な役割を担うレイモンド・スプルーアンスが乗っていました。
戦艦「ミズーリ」(先代)の艦上で装甲巡洋艦「日進」の乗組員と記念写真に納まるアメリカ海軍士官(画像:アメリカ海軍)。
なお、両名の上官としてのちに太平洋艦隊司令長官となるチェスター・ニミッツは、世界周航が始まった1907(明治40)年当時、フィリピンのアジア艦隊で駆逐艦の艦長を務めていましたが、駆逐艦を座礁させたため軍法会議にかけられて、この訪日には参加していません。しかしニミッツは2年前の1905(明治38)年に少尉候補生としてアジア艦隊で来日しており、日本艦隊の日露戦争凱旋観艦式に参加したほか、日露戦争でロシア艦隊を破り一躍名を馳せた連合艦隊司令長官の東郷平八郎と面会しています。こういった経緯があったからか、太平洋戦争後にニミッツは戦艦「三笠」の保存に尽力することになります。
ちなみに、ハルゼーも東京で行われた歓迎会で東郷平八郎に会っていますが、命令に従っただけだと冷めた感想を残しており、スプルーアンスは特に感想を述べていません。
歓迎ムードに包まれた「グレート・ホワイト・フリート」の裏側で、日米は来るべき対決に向かっていきます。当時その場にいた海軍士官たちは、それぞれの思いを抱きながら30年余りのちに日本との戦いで指揮を執ることになります。