2022年上半期(1月〜6月)にプレジデントオンラインで配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします――。(初公開日:2022年3月6日)
東京・新小岩に白飯をメインにする「ステーキ店」がある。店名はコメトステーキ。店主の大曽根克治さんが、父から継いだ米穀店を閉じ、2019年末に立ち上げた。コメを生かした店づくりが奏功し、行列のできる人気店に。フリーライターの川内イオさんが取材した――。
筆者撮影
「コメトステーキ」の外観。一見、なんの店かわからない作り - 筆者撮影

■メニューは2つだけ…倒産から始まった米穀店主の逆転劇

総武線・新小岩駅の南口を出ると目に入る、アーケード商店街。全長約420メートル、約140店舗が軒を連ねるその商店街をのんびり10分ほど進むと、住宅街に出る。

それまでの賑やかさとは別世界のように静かでひっそりとした通りを歩いて2、3分、明かりをつけた軒先の黄色いテントが夕闇に浮かび上がる。テントにはなにも書かれていないから、ぱっと見はなに屋なのかわからない。

ある土曜の夜、その不思議な店を訪ねると、先にふたり並んでいた。店のなかをのぞくと、10人ほどのお客さんがカウンターに並び、黙々と食事をしている。カウンターの奥では、ひとりの男性がきびきびと動き回っていた。

コメトステーキの券売機。「当店はステーキ屋ではなく、ご飯屋です」と手書きで書かれたメッセージが目を引く(筆者撮影)

2、3人のお客さんが会計を終えた後、男性に「どうぞ!」と呼ばれて、店内に入る。入口の正面にある券売機には、長文のメッセージが貼られている。

「当店はステーキ屋ではなく、ご飯屋です。元米屋が提供する美味しいご飯がメインです。付け合わせのお肉は肩ロースなので、筋も多いし硬いです〜」。そして、券売機の主な選択肢はふたつしかない。「米とステーキ 1600円」と「ステーキだけ 1600円」。

コメがメイン、ステーキは付け合わせ。コメを食べなきゃもったいないと思わせるメニュー。そう、ここは2019年12月にオープンしてすぐ行列のできる人気店となった「コメトステーキ」だ。

この人気店の歴史は、「倒産」から始まった。

■人生で一番働いた1カ月

コメトステーキのオーナーシェフとして毎日ひとりでカウンターに立つ大曽根克治は、新小岩で生まれ育った。1977年生まれの大曽根が小学校2、3年生の頃、父親が始めたのが「松栄米穀」。いわゆる「町のお米屋さん」である。

と言っても、大曽根少年にとっては「親の仕事」という感覚で、毎日の食卓にのぼるコメは「おいしい」と思っていたものの、特にコメを意識して育ったわけではないという。ただ、家族で外食に行った時に「あれ、コメがおいしくない……」と感じることがたびたびあったそうだ。

小学校から高校まで都内の私立校、暁星に通っていた大曽根は、「ぜんぜん勉強しなかった」こともあり、1浪したものの大学進学を断念。「好きな音楽の仕事がしたいから」と音楽系の専門学校に進んだ。その学校を卒業し、音楽業界への道を模索していた1999年6月、父親が脳梗塞で倒れた。

当時の松栄米穀の仕事は、スーパーへの卸が売り上げの5割を占めていて、あとの2、3割が飲食店などの業務用、残りの1、2割が家庭用。父親が倒れた翌日にはスーパーへの納品があったが、それまで家業に興味がなかった21歳の大曽根は、精米機の動かし方すらわからなかった。

そこで精米機のメーカーに電話をして、操作方法を確認。幸いにも父親が意識を取り戻していたため、店のなかにあるものをすべて写真に撮り、スピード現像して病院に持参し、なにをどうしたらいいのかという指示をメモした後、自宅に戻って仕事を始めた。父親が入院していた1カ月間、この生活が続いた。

「当時は自宅と病院を1日3、4往復しながら、納品してましたね。1カ月で10キロくらい痩せたんですよ。人生で一番働いた1カ月ですよ」

筆者撮影
メニューの名前はズバリ「米とステーキ」 - 筆者撮影

■年々減少する店の売り上げ、縮小するコメのマーケット

この出来事がきっかけで、父親が退院した後も家業に専念することになった。子どもの頃から「長男だし、継ぐことになるんだろうな」と思っていたそうで、特に抵抗はなかった。

大曽根の仕事は、コメについて学ぶことから始まった。一昔前に書店で売られていた、職業ごとの「○○になるには」というタイトルの書籍のなかから、米穀店を扱った本を買ってひと通り読み込み、民間資格の「米・食味鑑定士」の資格も取得した。

コシヒカリ、ササニシキ、あきたこまち、ひとめぼれなど多様な品種の味の違い、さらにコシヒカリでも産地による品質の差などがわかるようになってきて、次第にお客さんにセールストークができるようになっていった。

筆者撮影
カウンターに立つ店主・大曽根克治さん - 筆者撮影

しかし、その間も松栄米穀の売り上げは落ち続けていた。これは、業界の変化も大きく影響している。もともとコメの生産、流通、販売は政府の管理下にあった。米穀店は許可制で、コメの価格も定められていた。それが、1995年に食糧法が施行され、流通の自由化によってスーパーやコンビニなどでもコメが売られるようになると、わざわざ米穀店でコメを買う人が激減した。

もともと「日本人の主食」として薄利多売を国から定められ、それゆえに許可制で守られてきた米穀店にとって、これは大打撃だった。コメの低価格は維持されたまま、販路の開拓や価格交渉など慣れない仕事が加わったのだ。

しかも、コメの年間消費量は、1962年度をピークに減少し続けている。1962年度にはひとりが1年で118.3キロのコメを食べていたのに、2000年には64.6キロとほぼ半減している。

父親の体調が悪化し、次第に後継者として店を経営するようになった大曽根も、常々、商売が難しくなっていることを感じていたという。

筆者撮影
インタビューに応じる大曽根克治さん - 筆者撮影

「正直に言って自分も毎日コメを食べるわけじゃないし、市場がどんどん小さくなっているなと感じていました。父親が作った会社だから、僕が守らないとっていう意識はあったけど、店の売り上げも年々落ちていて、これからどうしよう、困ったなと思いながら仕事をしていましたね」

■「倒産するなら1日でも早い方がいい」

2011年、父親が亡くなった。そのタイミングで「清算しようか」という思いがよぎった。しかしこの時、一緒に松栄米穀で働いていた弟が「自分は外で働くから、もうちょっと続けたら?」と言ってきた。恐らく、弟にも「父親の店を守りたい」という想いがあったのだろう。

「そこまで言うなら」と、店を続けることに決めた。ただ、「このままでは潰れる」という危機感もあり、ある日、フェイスブックで赤裸々に現状を明かし、「皆さん、コメを買ってもらえませんか?」と綴った。すると、小中高時代を共に過ごした暁星の仲間を中心に、友人、知人たちが手を差し伸べてくれた。業務用のコメの販売先を、いくつも紹介してくれたのだ。

それでいくらか経営は持ち直し、墜落寸前だった松栄米穀はなんとか低空飛行を続けられるようになった。しかし、減り続けるコメの需要に対しては、焼け石に水だった。

2018年3月、ついに金融機関から運営資金の融資が受けられなくなり、弁護士に相談に行くと「倒産するなら1日でも早い方がいい」とアドバイスを受けた。倒産をするにも費用がかかるため、本当に危機的状況に陥ってからだと倒産するのも難しくなるという話だった。

それまでぼんやりとしていた「倒産」の文字が、急にハッキリと浮かび上がった。その時、ホッとする気持ちもあったと打ち明ける。

「親父の店を残せなかったという悔しさはあります。でも、コメ屋は利益が少ないうえに市場が縮小して、これからどうしようってずっと悩んでいたから、やりきったっていう想いもありましたね。これでようやく一区切りついたと」

■「兄貴分」との偶然の出会い

父親の誕生日だった4月12日、フェイスブックに「店を辞める」という内容の投稿をした。すると、「なにやって生きていきたい? 直球でごめん」とメッセージが届いた。送り主は、砂町にあるラーメン屋「凛」のオーナー、國分義廣さん。

ふたりの出会いは、偶然だった。2012年のある日、砂町方面に納品に行った時にラーメン屋がオープンしているのが目に入った。もともとラーメン好きの大曽根は、ふらりと店に立ち寄った。そのラーメンに一発で惚れ込み、砂町に行った日には毎回食べに行くようになった。

オープン直後でまだ常連が少ない時期だったから、ひとりで店を切り盛りするオーナーの國分さんと、言葉を交わすようになった。たまたまウマが合い、間もなく國分さんは「兄貴分」のような存在になった。客として通う飲食店の店主と親しくなるのは初めのことだというから、よほど相性が良かったのだろう。

「店を辞める」と書き込んだ日、國分さんからのメッセージを読んだ大曽根が返信すると、國分さんから電話がかかってきて、会って話をしようということになった。

「凛」が閉店する22時過ぎ、店を訪ねた。そこで改めて「この先、どうするの?」と問われた大曽根は、「コメの配達で都内の道は詳しいから、タクシーか宅急便ですかね」と答えた。それを聞いた國分さんは、意外な提案をした。

「前に話したステーキ屋、やってみない? せっかくおいしいコメを出せるんだし」

■頭から離れなかったステーキ店のアイデア

國分さんはしばしば、閉店後に自分の店で仲間たちとワイワイ過ごしていた。ふたりが仲良くなってから、大曽根もそこに加わるようになった。

その時に國分さんが「チャーシューを仕入れている肉屋から安く手に入るんだ」とよく振る舞ってくれたのが、ステーキだった。もともとイタリアンのシェフだった國分さんが焼くステーキは、「めちゃくちゃおいしかった」という。

國分さんには思い出があった。学生時代にアメリカに行った際、ボリュームのある1ポンド(450グラム)ステーキを安価で提供する「タッズステーキ」という店に通っていた。店でステーキを焼きながら、「あんな店、日本でもやれたらいいよな」と言っていたそうだ。

筆者撮影
コメトステーキで使用している、1ポンド(450グラム)のステーキ - 筆者撮影

ステーキ屋をやらないかという想定外の話に、大曽根は戸惑った。確かに、コメをおいしく炊くことはできる。でも、分厚いステーキ肉をうまく焼ける自信はない。正直にそう告げると、國分さんは、ニコリとほほ笑んだ。

「大丈夫、教えるから」

兄貴分の言葉に心が動いたが、問題は場所だった。倒産によって、新小岩にある実家と併設されている松栄米穀の店舗も手放さざるを得ない状況で、新たにどこかで飲食店を開くのは現実味がなかった。

倒産手続きを進め始めた大曽根は、事情を知って声をかけてくれた暁星の先輩が経営する和菓子店「うさぎや」で働き始めた。店頭で和菓子を売る仕事で、コメ屋時代に客とコミュニケーションを取るのに慣れていたから、苦にならなかった。

接客しながらも、ステーキ屋のことが頭から離れなかった。もしステーキ屋をやるなら、唯一の可能性は松栄米穀の店舗を改装することだったが、実家と店舗を手元に残すためには多額の資金を用意する必要があった。当時の大曽根には、なんの当てもなかった。しかし、想像もしないところから手が差し伸べられた。

筆者撮影
店主の大曽根さん - 筆者撮影

■「大曽根くん困ってるから、貸すよ」

小学生の頃からテニスをしていた大曽根は、松栄米穀で働きながらテニスクラブに通っていた。テニス仲間ができ、家に遊びに行っているうちに、その兄とも仲良くなった。

倒産が決まってからその兄弟と会った時、「店舗を残したいけど、手が出せない金額が必要で」と打ち明けた。それはグチのようなものだったが、その兄は「俺が貸そうか?」と言った。

「えっ⁉」と仰天した大曽根は、話を聞いて開いた口が塞がらなかった。友人兄は、事情があって使うあてのない大金を持っていたのだ。

「大曽根くん困ってるから、貸すよ」

友人から借金することの怖さもあった。しかしそれ以上に、「そのお金があれば、親父の家と店を手放さなくて済む。ステーキ屋を始められるかもしれない」という希望が湧いた。大曽根は言葉に甘え、勝負に出ることにした。

■「見たことのない風景」で決意を固める

友人の兄から借りたお金で、無事に実家と松栄米穀の店舗を守ることができた2018年7月、ラーメン屋「凛」のオーナー、國分さんに「店の場所のめどがついた」と連絡した。すると2018年10月、異例のイベントを開催してくれた。

店が休日の日曜日に「凛」で1ポンドのステーキを焼いて、大曽根が炊いたコメとともに提供したのだ。これは、「ステーキ屋にどれくらいのお客さんが来て、どんな感じで手元にお金が残るのかを見せてあげよう」という兄貴分の心意気だった。

事前に店頭と凛のSNSで告知をすると、「ラーメン屋が1日限定でステーキ屋に⁉」と興味をひかれたファンが駆け付け、当日はオープン前に行列ができた。用意した60枚ちょっとのステーキはあっという間に売り切れた。

この日はコメを炊くことに専念していた大曽根は、お客さんがステーキを頬張りながら、おいしそうにコメを食べている様子を見て、「ダイレクトにお客さんの反応が見られて楽しい」と感じていた。振り返れば、コメ屋時代にそういう風景を見たことはなかった。

イベント終了後、國分さんからいつもの笑顔で、「どう? やる?」と聞かれた大曽根は、「やりたいです!」と頷いた。

■次々と差し出される救いの手

それでもまだ、ステーキ屋の開店までの道のりは遠い……はずだった。いざ、コメ屋の店舗を飲食店に改装しようと見積もりを取ったところ、数百万円かかることがわかったのだ。

さすがにその費用までは、友人兄には頼れない。どうしたらいいのかわからず、その頃まだ仕事を続けていた「うさぎや」で相談した。すると、また予想外のところから助けてくれる人が現れた。

それは、うさぎやで一緒に働いていた暁星の先輩だった(オーナーとは別人)。その先輩はもともと自分で事業をしていたのだが、廃業する際に自社ビルや投資先のマンションなどを売却した。それで「いま、まとまったお金があるから改装費用なら貸せるよ」と言ってくれたのだ。どのみち、店舗を改装しなければステーキ屋を始めることはできない。大曽根は再び頭を下げて、改装費を借りることにした。

ちなみに、「専門学生時代に『プロント』のバータイムで働いたことがある」というのが唯一、大曽根の飲食店での勤務経験。たった一度、國分さんが自分の店で開いたイベントだけで「勝算あり!」と判断するのは早計だと感じる人もいるだろう。しかし、大曽根に迷いはなかった。

「僕は専門学校を卒業してからコメ屋しかやってなかったから、廃業していきなりサラリーマンになろうっていうのも難しいんですよね。僕は、サラリーマンに必要なスキルを持ってないので。ほかになにかできるわけでもないし、それなら信頼する國分さんが『いける』と思って提案してくれた道にかけてみようと思ったんです」

筆者撮影
コメトステーキの店内。コメと肉を堪能する客で席が埋まっている - 筆者撮影

■兄貴分への信頼の証し…店舗作りと働き方も「ほぼ丸パクリ」

2018年10月、改装工事に着手した。國分さんへの信頼は、店の内装にも表れている。食洗機の配置、カウンターの高さ、幅、並びなど「ほぼ丸パクリ」と自ら認めるほど、「凛」に似せた店舗にしたのだ。

店の入り口に置かれたカンバン(筆者撮影)

しかし、松栄米穀時代から使っていたなにも書かれていない軒先の黄色いテントは、そのまま使用することにした。気に入っていたこともあるし、参考にした國分さんの「凛」も同様に、ぱっと見、なんのお店かわからなかったということもあり、「これでいこう」と考えたのだ。

一般的な飲食店の経営者からすると、店の印象を大きく左右する店舗用テントを新調せず、店名も書かれていない古びたテントを流用するなんて、常識外れもいいところだろう。しかし、パッと見てわかりやすい情報がないことに加え、ガラス張りで清潔な雰囲気の内装とのギャップになり、「なんの店だろう?」と思わず足を止めてしまう効果を生んでいる。これは、大曾根の狙い通りだった。

店を始めるにあたって、いい商品を仕入れなくてはならない。牛肉について素人の大曽根は、國分さんが利用している業者を紹介してもらった。ところが、交渉段階で肉の値段が急上昇し、「これではお客さんに安く提供できない」という状況に陥った。

店の改装は進んでいるのに肉の当てがない……という大曽根を救ったのは、またも友人ネットワーク。テニススクールの仲間が、肉の卸業者をしていたことを思い出した。連絡をすると、アメリカ産牛肉を破格で卸してくれることになり、ピンチを脱した。

飲食店経営のセオリー無視、というより、セオリーを知らない大曽根は、大胆な決断にも躊躇がない。スタッフを雇わず、ひとりで運営している國分さんに倣って、開店後のオペレーションもひとりでやることに決めた。

「凛はラーメンのおいしさに加えて、空間が素晴らしいから、お客さんが絶えないんだと思います。一人であの杯数をさばいているラーメン屋って、ほかにないんじゃないかな。それでも、お店はいつもきれいで、接客も心地いいんですよ。その國分さんに『ひとりでやるからこそいいんじゃない、なんとかなるよ』と言われて、僕もそうすることにしました」

筆者撮影
牛肉は友人の卸業者から格安で仕入れている - 筆者撮影

■「二郎インスパイア系」ステーキと評判に

2019年12月1日の日曜日、メインディッシュがコメ、付け合わせが1ポンドステーキというコンセプトの「コメトステーキ」のオープン。当日は、友人、知人、恩人などが100人ほど駆けつけ、てんてこ舞いになった。

國分さんや國分さんの妻も応援に駆けつけてくれたが、片付けが終わったのは夜中の3時。翌日からは、ひとりですべて担わなければならない。飲食店で働いた経験がなきに等しい大曽根にとって「この調子で続けていけるのか……」と不安になる船出だった。

その不安は的中した。12月半ば、コメトステーキに来たお客さんのツイートがバズり、1万を超える「いいね」がついた。その翌日の水曜は定休日で、迎えた木曜日、開店前から長蛇の列ができていた。最後尾に並んでいた人が食べ始めるまでに、なんと3時間かかったという。それから半月ほど同じような状態が続き、「本当に死にそうになりました」。

筆者撮影
ボリュームまんてんの牛肉 - 筆者撮影

年が明けてしばらくすると新型コロナウイルスのパンデミックが発生し、多くの飲食店は打撃を受けた。しかし、コメトステーキはそれほど大きな影響はなかったそうだ。ひとりで来て、黙々と食べて帰るというラーメン店のような作りにしたのが功を奏したのである。筆者が取材に行った土曜の夜にも並んでいる人がいたように、3年目の今も盛況が続いている。

「7〜8割は常連さんですかね。女性ひとりのお客さんや子供連れのお客さんもいます。週4から週5くる方もいますよ(笑)」

筆者撮影
ステーキに大量のもやしをトッピングする大曽根さん - 筆者撮影

それにしても、である。コメとステーキしかメニューにない店のなにが、そこまでお客さんを惹きつけるのか。ヒントになるのが、コメトステーキを検索すると頻出する「二郎インスパイア系」という言葉だ。

二郎とは、全国に熱狂的なファン「ジロリアン」がいることで知られるラーメン店で、丼に小高い山のように盛られたもやしとキャベツや、一般的なお店の2〜3倍近くと言われる麺の量に代表されるボリュームがひとつの特徴だ。

ジロリアンである大曽根はコメトステーキでもボリュームを重視した。メインディッシュのコメは200グラム、1ポンド(450グラム)のステーキに乗せるモヤシは150グラムあり、一食で総重量は800グラム。大盛りにすると、コメ、モヤシともに300グラムになり、総重量は1キロを超える。「ガッツリ食べたい」という満足感を満たすには十分だろう。

筆者撮影
大曽根さんが「コメの次にこだわっている」というモヤシ - 筆者撮影

■「こだわり抜いたコメ」は元米穀店のプライド

券売機に「お肉に期待している方はステーキ屋さんへどうぞ」と記している、付け合わせ扱いのステーキに関しても、地道に工夫を重ねてきた。

オープン当初はスピードと効率を重視して一度に6枚の肉を焼いていたが、焼き加減がうまくコントロールできないとわかると、「お客さんを待たせてでも、少しでも良いものを出そう」と4枚に切り替えた。また、なるべく硬いところをお客さんに出さないように筋切りの仕方を変え、少しでも硬そうだなと思ったら、カットした状態で提供するなど試行錯誤している。

実家が近所にあり、地元に寄るたびに通っているという常連客に、「どんなところが気に入ってますか?」と尋ねると、「肉ですね」と即答した。

それを聞いた大曽根は「そこはコメって言ってくださいよ」と苦笑した。

筆者撮影
メインディッシュのコメ - 筆者撮影

メインディッシュのコメには、元コメ屋のプライドをかけて、徹底的にこだわっている。主に使用しているのは、会津のコシヒカリ。コメ屋の時から「値段の割に、めちゃくちゃおいしい」と感じ、顧客にも勧めていたものだ。

コメを炊く時には、コメ屋時代に顧客に「おいしいコメの炊き方」としてアドバイスしていたように、「研ぎ過ぎない」「炊く前に水にしっかり浸す」「水もコメもグラム単位で計量する」「炊き上がったらほぐして余分な水分を飛ばす」という基本を厳守。さらに、炊いた後の保温状態が1時間も経つととおいしさが失われるため、どんなに忙しくても少ない量をこまめに炊いている。

その味によって驚くべきことにコメのファンが生まれ、時折、採算度外視で山形の「つや姫」や「雪若丸」、北海道の「ゆめぴりか」を炊くとSNSで告知すると、コメ目当ての客が訪れるようになった。なかには、毎回コメの大盛り300グラムを2度おかわりして、一度に900グラム食べる猛者もいる。これだけ「コメ」が愛され、注目されることに、大曽根は手応えを感じている。

「コメ屋の時と違って、目の前でお客さんの反応を見られるのがいいですよね。コメがおいしいって言ってもらうことが、シンプルに一番うれしいです。父親の代からずっと携わってきたことだし」

■倒産から一転、「うまい話」が続いた理由

大曽根が倒産の決断を下してから、間もなく4年。どん底からの巻き返しを振り返り、大曽根は「そんなうまい話ねえだろっていうのが続いちゃってますよね」と苦笑する。確かに、たくさんの友人、知人がおカネを貸し、知恵を絞り、彼を支えてきた。なぜ、そこまでするのだろう? と疑問に感じ、大曽根の兄貴分、國分さんに話を聞いた。

「大曽根は人に好かれるタイプだし、親身にさせるなにかがあるんですよ。愛し、愛されないとここまでしないでしょう。僕もいろいろな経験をしてきたけど、こんなに本気で人に力を貸したのは初めてです。僕はただ、彼に幸せになってほしいと思ったし、ほかに彼の手助けをした人も見返りを求めてる人はいないんじゃないかな。今の姿を見ると、幸せそうで嬉しいね」

この言葉を聞いて、ハッとした。大曽根に取材を申し込んだ時、こちらが挙げた候補日に「その日は母親の通院があるので臨時休業です」と返信があったのを思い出した。母親の通院に付き添うために店を休むオーナーは珍しいのではないだろうか?

大曽根は、コメ屋の時代から必死だった。商売がうまくいかなくても不貞腐れることなく、「親父の店を守ろう」と駆け回ってきた。コメトステーキのSNSには「母親の通院のために」と休日が記されている。その行動から、國分さんの言葉の意味がうかがえた。

今は個人事業主としてコメトステーキを運営している大曽根には、ひとつの目標がある。店の売り上げが伸びて、もう一度、会社組織を立ち上げる時が来たら……。

「会社名を『松栄米穀』にしようと思って。親父が作ったコメ屋の名前を復活させたいんです」

その日まで、コメを炊き、肉を焼き続ける。

筆者撮影
元米穀店のプライド。こだわりの白飯を求めて客が集まる - 筆者撮影

----------
川内 イオ(かわうち・いお)
フリーライター
1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。2006年から10年までバルセロナ在住。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」の実現を目指す。著書に『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(ポプラ新書)、『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(文春新書)などがある。
----------

(フリーライター 川内 イオ)