「因果関係ないなら、なぜ娘は死亡した」 DV・ストーカーで娘を奪われた母親の5年間 - 小林ゆうこ
※この記事は2021年01月15日にBLOGOSで公開されたものです
神戸地裁尼崎支部で昨年12月25日午後、ある民事訴訟の判決が言い渡された。原告は、5年前に娘（当時27歳、以下・N子さん）を失くした母親（69歳）。死亡に至ったのは交際していた男（当時32歳）からの暴力が原因だとして、男を相手取って損害賠償を求めていた。
ところが、判決は「殴打と死亡との因果関係については認められない」。男に殴打されたことが原因でないならば、なぜ娘は命を奪われたのか――。母親は判決を不服として、1月7日に控訴した。「娘の死の真相を知りたい。娘の無念を晴らしたい」。そんな願いからだ。
判決は殴打を認めるもくも膜下出血との因果関係を否定
N子さんが死亡したのは、2016年1月10日のこと。死因は外傷性くも膜下出血だった。
その13日前の15年12月28日、兵庫県芦屋市で、男から頭部を殴打される事件が起きている。事件を伝える新聞記事によると、N子さんの頭部を殴打した男は、駆けつけた警察官に傷害容疑で現行犯逮捕された。男はN子さんの元交際相手だったという。
男に殴打されたことがN子さんの死につながったのか――。民事訴訟でも争点となり、法廷では殴打の前後を目撃し110番通報したタクシー運転手の重要な証言も得られた。ところが、「男は殴ったが、くも膜下出血との因果関係は認められない」。判決はこう評価した。
娘の死と向き合う上で、納得する答えが欲しい。そのために、母親は今後も法廷で争っていくことを決めた。
「因果関係がないなら、なぜ娘は死亡した」 納得できぬ判決
昨年12月25日午後、神戸地裁尼崎支部。判決はわずか数分で告げられた。目を充血させた母親は、ただ呆然とした様子で歩くのが精一杯。私にはそんなふうに見受けられた。
裁判所の外までゆっくりと歩を進める。言葉を紡ぎ出すようにしてつぶやいた。
「因果関係がないとしたら、いったい娘はなぜ亡くなったというんでしょうね。これほど残念な判決が出るとは…」
代理人も口をそろえた。
「目撃証言や、倒れたタイミングからしても、くも膜下出血の原因になると思われる頭部の揺さぶりは、被告が顔面を殴打したこと以外には考えられない。納得できません」
判決は、次のような医学的な理由をその根拠として示している。
・くも膜下出血をきたした衝撃の程度については、証拠上、明らかでない
・N子を殴打した強度については、証拠上、明らかでない
・解剖医の鑑定では顔に損傷はなく、脳の機能不全を起こした原因は、証拠上、明らかでない
「3年かけて訴えてきたけど、結局、真相は分からないということが、分かりました」。母親は悔しさをにじませた。
母親にとって、今回の民事訴訟は娘が死亡に至った真相を知るための唯一の手段だった。
男は殴打した現場で現行犯逮捕され、拘留は40日間にも及んだものの、地検は「嫌疑不十分」を理由に不起訴処分にした。起訴をされない――。男が刑事裁判にかけられることはなかった。
一本気で強い正義感の子 娘の好きだったスフレケーキを前に涙した母親
判決が告げられて裁判所から出ると、母親とともに近くの珈琲店に入った。母親はコーヒーを注文し、さらに「あ、これも」と言って、メニューにあるケーキの写真を指差した。
運ばれたのは、N子さんの大好物だったスフレケーキ。しかし、なかなか手をつけようとしない。ケーキのそばに置いたスマホを見つめ、微笑みを見せる待受画面上の娘に何か語りかけているようだった。
コーヒーカップを手にしながら、涙ぐんでいた。
「美味しいと言いながら食べていたことを思い出します。兄が2人いる末っ子で、家族みんなに可愛がられて育ちましたけど、ちょっと一本気で正義感の強いところがありました」
さらに、語り続ける。
「殴る蹴るといったDV（ドメスティック・バイオレンス）を受けても、自分が更生させたいと考えるような子で…。男の離婚した奥さんたちもDVを受けていたと知って、彼女たちの仇を私が取るんだと言っていました」
母親が、DVやストーカー被害は、支配欲に猛り狂う男に立ち向かうことでは防げないと学んだのは、娘が亡くなってからだった。暴力が我が身に降りかかるなど考える余地もなく、母も娘のN子さんもずっと穏やかな生活を送ってきた。母親は早くに夫と死別し、女手ひとつで娘ら3人を育てた。
同棲を開始直後からDV 同僚だった男が急変
娘が頭部を殴打される事件が起きた2015年、母親は再婚した男性と米・フロリダ州で暮らしていた。それでも、娘とはLINEで頻繁に連絡を取り合っており、会社の同僚だった男と交際していることも把握していた。
「2人の様子が一変するのは、交際を始めて間もない頃のことでした」
男には嫉妬深さがあり、女性を常に監視下に置きたがった。娘はそう感じていた。
民事訴訟に際して裁判所に提出した陳述書には、母親の知るDVの様子が綴られている。
2人が交際を始めたのは2015年5月。直後から、同じ社内にいるにもかかわらず、男は一日に何度も娘にメールを送っていた。娘が外で同僚と昼食をとっていても、電話で居場所を聞いてくる。コンビニに行くことも自由にできない。
夏になり大阪府茨木市内で同棲を始めると、暴力をふるわれるようになった。全治1週間のケガを負ったこともある。酒が入ると暴力は激しさを増した。
とても理解できない一面もあった。男は、暴力を加えた翌日には泣きながら土下座して謝罪。謝罪の意思表示として高価なバッグをプレゼントすることなどを繰り返した。
日本時間の深夜、母親のもとに「暴力をふるわれている、怖い」と娘から国際電話があった。娘の近くで暮らす次男に連絡して、無事に男から離すことができた。ところが、男がまた娘を連れ戻す事態に。娘は再び逃げたが男と口論となり、パトカーを呼んで次男宅に戻ることもあった。
暴力を繰り返す男との関係は、男の千葉県への転勤が断ち切ってくれるはずだった。しかし、転勤に伴って同棲は解消されたものの、執拗な電話やメールは途切れることがなかった。
バーで暴力を受け全治1ヶ月 所轄の警察署は捜査に消極的
そして、15年11月8日。出張で大阪を訪れていた男に呼び出された娘は、店内で40分間にわたり暴行を受けた。事件のきっかけは、一緒に訪れたダーツバーで、娘が「お酒を飲みすぎるのはよくない」と諭したことだった。途端に男の殴る蹴るの暴行が始まったという。
通報で駆けつけた生田署員が撮った写真を、娘は保存していた。頭、顔、腕、背中、太腿に、アザや、男が踏んづけた靴の跡がくっきりと残り、全治1ヶ月の重傷との診断だった。
娘は当然、被害届を出そうとした。ところが署員は次のように告げたという。
「君も手を出しているから、逆に被害届を出されるかもれしれない、相手は初犯だしね」
娘は生田署ではなく自宅近くの芦屋署に相談した。親身に相談に乗ってくれた女性署員のアドバイスを踏まえて、12月1日に再び生田署に相談し、ようやく被害届は受理された。生田署への不信感が拭えないまま、娘は弁護士を介して男に治療費や欠勤中の生活費を請求した。
警察に被害届を出して別れる決意を固め、弁護士を通じ男と明白な距離を置くようになった。それでも、接触を図ろうとする男の姿は変わらなかった。
芦屋署は男に接近しないよう警告を発したが、男はそれを無視する。男からの着信が一晩の間に70回に上るなど、ストーカー行為はエスカレートしていった。
「くも膜下出血は外傷による」 医師はそう説明した
2015年の年の瀬。母親は次男からの連絡で、またも娘が男に暴力をふるわれ、意識不明の状態に陥ったことを知った。急遽アメリカから帰国し、病院に駆けつけた。29日の夜遅く、30日に日付が変わるかという頃だった。医師から次のように説明された。
「救急隊が到着したとき、娘さんは心肺停止でした。自発呼吸がなかったため人工呼吸をしています。頭部のCT検査と造影CTを行いましたが、明らかな脳動脈瘤痕はなく、くも膜下出血の原因は外傷によるものと考えられます」
その年の11月、娘が三宮のバーで暴行を受けた際、母親はアメリカを離れて娘のもとに駆けつけることができなかった。すぐに帰国して、娘に直接何かを伝えられていたら、命は救えたかもしれない。鼻にチューブを挿入された娘の姿を前に、後悔の念が募った。
「『なぜ？』と自分を責め始めるとキリがなかった。交際を止めてやれなかったことや、最初は男を好青年だと私が褒めたこと。いろいろなことが思い出されて、一睡もできず食べ物が喉を通らない日が続きました」
翌年1月10日、娘は意識が戻らないまま帰らぬ人となった。その後の数ヶ月間の記憶は曖昧だ。葬儀を済ませてアメリカの家に戻っても、ソファーで仮眠を繰り返しながら娘の無念を思って泣いてばかりいる日が続いた。
「私が闘わなければ、娘の死は報われない」 母親の決意
娘の死から3ヶ月後の4月11日、検察から男を不起訴処分にしたという連絡が入った。とても受け入れられなかった。
その後、男を不起訴処分に決めた若い検察官の一言が何度も脳裏をよぎるようになった。
「一発殴っただけで、脳の血管が切れたということなので、もともと脳動脈瘤がなかったとは言い切れない」
時間が経つにつれて、その検察官の発言は皮肉にも母親を鼓舞するものになった。「私が闘わなければ、娘の死は報われない」。事件から1年半ほどが経過した頃、娘の無念を晴らそうと考えるようになった。それは死の真相を突き止めることーー。
検察からは、娘に脳動脈瘤があった可能性を言われた。しかし、脳に病気の予兆があったとはとても思えず、腑に落ちなかった。CT画像に痕跡が見えないと診断され、死亡鑑定書でも同様のことが記されていた。
男の犯行が疑わしいことは誰の目にも明らかなのに、不起訴処分となった。“疑わしきは罰せず”の理念は分かる。それでも、捜査が綿密に行われていないのではとの疑念もあった。
当然のこと、医学の知識があるわけでも、捜査や法律に明るいわけでもない。様々な弁護士に相談してきた。インターネットを活用して、気になる情報があったらすぐに調べ、浮かんだ疑問には解決法を探した。そんな日々を続けてきた。
医学や法律を知れば知るほど、不起訴処分に納得がいかなかった。神戸検察審査会に申し立てをしたのは、2017年9月。被疑者の不起訴処分について、市民が審査を申し立てられる制度だ。しかし、その半年後、A4サイズ1枚に記された「議決」にまたも期待を裏切られた。議決の趣旨には「本件不起訴処分はいずれも相当である」と記され、理由は次のようなものだった。
本件申立書及び申立人提出資料並びに不起訴記録を精査し慎重に審査した結果、関係資料等を総合的に判断すると、上記検察官がした不起訴処分の裁定は相当である。よって、上記趣旨のとおり議決する。
真相を明らかにしたい 母親の思いに協力者も
「捜査の可視化」「国民参加」――。司法制度改革は、そううたっていた。しかし、現実は程遠い。「遺族ひとりの力では無理なのか」。母親の前には高い壁が立ちはだかっていた。
何度か犯罪被害者の会に参加するなか、ある女性との出会いが転機となった。25年前の強盗強姦事件の当事者で、証拠書類や証拠品の焼却処分など捜査の違法性をめぐって、兵庫県警西宮署を相手取って国賠訴訟を起こし、一部勝訴していた。
「ストーカーなど犯罪を繰り返す可能性のある人をそのまま野放しにしているということが、この事件の一番の問題だと思う。警察や検察、司法の存在意義は、市民の安全な生活を守ることが本分のはずなのに、真逆のことが行われている」
女性も自らの経験から、司法制度の現状に危機感を抱いていた。被害者の遺族は捜査記録を見ることすらできないーー。そんな無力感を抱える母親を次のように励ましてくれた。
「犯罪被害者や遺族のほとんどは、声を上げることすらままならない。なのに、ひとりでそれをやり続けていることに敬意を表したい。大きな声になるよう支援していきたい」
元検察官という立場で相談に乗ってくれる人もいた。“捜査する”側の助言は大きな自信となった。
「書類を詳しく見たが、普通なら問題なく起訴処分にしているだろう。なぜ担当した検事は判断を間違ったのか。そもそも、生田署が傷害事件の被害届を受理しなかったこと、すぐに捜査をしなかったこともおかしい」
検察官に判断ミスがあったのかーー。いま最も問いたいのはその点ではない。娘がどうして命を落としたのか、そして、男はなぜ刑事裁判にかけられなかったのか。疑問が消えることはない。
今年の命日も芦屋駅前に 娘に誓ったこと
5回目の命日を迎えた今年1月10日。母親は2人の息子とともにJR芦屋駅前を訪ねた。
娘が倒れた現場に静かに花を手向け、報告したのは大阪高裁に控訴するということ。真相を知るために決してあきらめない。そんな覚悟を伝えた。
新型コロナの影響で人は少なかったが、街はいつもと雰囲気がどこか違った。「えべっさん」で知られる西宮神社の十日えびすの日だったからかもしれない。
娘はこの日、女性の友人と祭りに出かけることを楽しみにしていた。しかし、そんな新年の晴れやかなひとこまを、そして命を27歳にして奪われた。
亡くなった病院から西宮神社までは歩いて5分足らず。目と鼻の先だった。
「お祭りも見ないで旅立っていくなんて。残酷なことです。でも、えべっさんの近くにいたから、七福神にさらわれてしまったのかもしれませんね」
“神様たちからも愛されていますよ、きっと”。現場からのLINEにはそうとしか返信できなかった。母の一念が、司法に風穴を開けることを願うばかりだ。
