「関東芸人はなぜM-1で勝てないのか?」敗者・ナイツ塙宣之だからこそ語れた漫才論 - 松田健次

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※この記事は2019年08月29日にBLOGOSで公開されたものです

ナイツ塙宣之による「M-1論」「漫才論」がそそぎ込まれた新刊「言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか」(集英社新書 聞き手:中村計)が刊行された。これは昨年夏、集英社新書プラスのWEBサイトで集中掲載されて反響の大きかったインタビュー「関東芸人はなぜM-1で勝てないのか?」が発端で、大幅な加筆によって書籍化されたものだ。

< 集英社新書プラス 「関東芸人はなぜM-1で勝てないのか?」ナイツ塙宣之インタビュー 2018・8・24配信 >

「古馬」のレースに変わったM-1グランプリ

このインタビューで塙宣之は、漫才に関する思考分析を常とする「漫才論者」の横顔を見せた。

「M-1」に対する塙の論考でまずハッとさせられたのは、M-1の第一期(2001~2010)と第二期(2015~)の捉え方だった。

塙は「(第二期からは)参加資格を従来の結成10年以内から結成15年以内に延ばしたことによって、経験値の高いやつがごろごろいるようになった。競馬で言えば、3歳クラシックから、古馬のレースになってしまったようなもんです」と、M-1に大きな変化が起きていたことを俎上に挙げた。

このルール変更によってM-1は、発想の新しさを競う「新ネタ」の大会から、キャリアによって磨かれた上手さ、「経験値」も評価の大きな対象となり、レースの様相が変わったのだという。この指摘を始め「なるほど」と頷ける論説が並んだ。そして塙はこのインタビューのラストにこんな言葉を残す。

< 集英社新書プラスWEB「関東芸人はなぜM-1で勝てないのか?」より >

中村計(聞き手)「一部では笑いを点数化すべきではないという意見もありますが」

塙宣之「笑いは語るものじゃない、とかね。でも、語るもんじゃないって言ってる時点で、もう語ってますから。そういうやつって、要はかっこつけてるんですよ。東京の芸人はなかなかM-1の審査員を受けたがらないそうですが、僕はオファーがあったらぜんぜん受けますよ」

この発言は当然M-1関係者にも届いただろう。「漫才論者」であることを世に発信した塙の姿はその4か月後、「M-1グランプリ2018」の審査員席にあった。これまでM-1出場者の中で過去の優勝者が審査員席に並ぶことはあったが、優勝経験のないファイナリストで審査員になった漫才師は塙宣之が初めてだった。

痛感した王者との差から生まれたM-1論

そして、ファイナリストと審査員の両方を経験した数少ない当事者として、塙はさらなる「M-1論」を深め、書籍にそそぎ込んだ。語られた「論」はすべからく「M-1」ファンを気づきの洞窟へいざない、笑いについて論じる悦びへと導くものばかりだった。

例えば、その一部――

・霜降り明星・スーパーマラドーナ・ゆにばーすの「つかみ比較」論

・「漫才は(自分・相方・客の)三角形が理想」論

・漫才師ごとのネタの持ち「時間適性」論

・「コント漫才」論

・「マヂカルラブリー&トム・ブラウン」論

・「山里亮太型ツッコミ以前以後」論

――等々。語られた「論」を支える背景に、ナイツ自身によるM-1での戦績が大きく関与していることが感じられた。2008年3位→2009年4位→2010年6位。「漫才論者」としてプレイヤーである自身への自己分析も存分に語られている。

M-1で評価されるとはどういうことなのか。評価されないとはどういうことなのか。優勝者にあって敗者に足りなかったものは何か。ナイツは、頂点との差、下位との差、それらを痛感する結果を重ね、塙は他のM-1漫才師達のスペックを捉えて論じる際の軸足にした。

もしこれがM-1プレイヤーでも、ひとつの派を成すほどいる「ファイナル初出場で優勝」を飾った芸人(例:中川家、ブラックマヨネーズ、サンドウィッチマン、NON STYLE、パンクブーブー、トレンディエンジェル、とろサーモン、霜降り明星)からされた場合、頂点からの目線という印象はついて回るわけで、ことに敗者を語る際の説得力は少なからず損なわれると思う。

塙は本書のプロローグでこう述べる。

< 塙宣之・著「言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか」(集英社新書)より >

最初に言っておきたいことがあります。この本は、ぶっちゃけ、言い訳です。ナイツがM-1で優勝していたら、何を言ってもカッコいいのですが、そうではない。おまえが偉そうに何を言っているんだという話です。

M-1は頂点を極めた勝者の物語だけではない。頂から裾野を成す大勢の敗者がいて、毎年ひとつの活火山を形成する漫才界の地殻変動の物語だ。知りたいのは「カッコいい」だけの話ではない。それ以外のあらゆる物語であり、漫才という芸能の的確な言語化だ。

ナイツとして予選落ち時代という山の麓から、ファイナル3位という頂の間際に駆け上がり、そこからの順位後退に忸怩たる思いを抱き、そして審査員という立場でM-1に再帰を果たす・・・。それらを体験した塙宣之は「M-1」において結果的に(他にない)多彩な視座を獲得している。

そうして語られる様々な指摘、分析、洞察が独善と一線を画し、一徹した「誠実さ」のようなものを感じさせる。それは「言い訳」という自認を踏まえ、自身への批評と他者への批評を常に意識往復しているからなのだろう。

新型漫才を発表し続けるナイツ

ナイツは出世作である「ヤホー漫才」で全国区となり、その名が知られて以降、ヤホー的な「言い間違い」のネタをベースにしながら、その一方で「型」の違う新ネタを毎年コンスタントに発表し続けている。ナイツの新ネタは新作ゲームの発表に近い。それはヒットタイトルのシリーズ化ではなく別種の新ゲームだ。

メジャーな漫才コンビのほとんどは、ひとつの「型」を作りあげたら基本的にはその「型」を変えることはほとんど無い。そういう漫才コンビにとって新ネタとはゲームならシリーズ化だ。ドラクエ、FF、ポケモン、何でもいい。ひとつのヒットタイトルを成したら、あとはその世界観に沿ったシリーズと多少のアレンジが新ネタだ。

ナイツが異色なのはゲームそのものを新たに考案してくる処だ。ゲームの世界観、フォーマット、ルールに手をつけてくる。そうして見せるのは、こういう「型」もありますし、こういう「型」もありますよ、という大胆な新ネタ。新ネタというよりも新しい型、新ガタだ。

しつこくも音楽で例えてみる。漫才を楽曲だとすれば、「型」を確立した漫才コンビとは「リズム(テンポ)」と「メロディー(掛け合い)」がフィックスしたということだ。そこで出来上がった楽譜を変更する必要はない。楽譜イコール芸風だ。

そこでの新曲(新ネタ)という概念は、新たな歌詞を指す。新ネタとは歌詞の更新。リズムとメロディーをそのままに歌詞を更新することだ。これは、大きく俯瞰すれば虎舞竜の「ロード」みたいなことでもある。

だが、ナイツは楽譜そのものを崩すことを厭わない。リズムとメロディーに手をつけてくる。楽譜そのものを変更する。ナイツの漫才は音楽で言えば楽器という見立てになるのかもしれない。棋士が盤上に歩を指すような塙の小ボケ、東洋一穏やかな土屋のツッコミ、合わさってひとつの音を奏でる楽器。リズムとメロディーを大胆に変えても、そこで奏でる音はナイツという楽器の音色となる・・・。

あらためて古今東西の漫才で、新たなフォーマットをこれほどコンスタントに発想し続ける漫才師は思い当たらない。ナイツのネタ作りを担当する塙の頭には日々、漫才について思考し続け、漫才を論じる言語がストックされていくのだろう。「言い訳」はその大開放だ。

ノンスタ石田との東西M-1論者解説を期待

あと4か月もすれば、また今年のM-1決勝がやって来る。その時期に向けてM-1界隈で塙宣之の「言い訳」が様々にクローズアップされるだろう。もし叶うなら「M-1」の結果が出た後に塙宣之とNON STYLE石田明による感想対談を聴いてみたい。

石田は「M-1」後に「岡村隆史のオールナイトニッポン」(ニッポン放送)に招かれ、岡村を相手に「M-1」を振り返っての総論各論を語っている。まさにプレイヤーならでは、センターマイクに立った視線から繰り出すような石田のスキル解説も面白く興味深い。

東の塙、西の石田、東西プレイヤーの「M-1論者」による振り返り解説。そんな場が実現したら、只々うれしいな。