※この記事は2019年08月09日にBLOGOSで公開されたものです

東京都の児童相談所が運営する一時保護所について、第三者委員が「過剰なルール」であり、「人権侵害」だと指摘していたことを朝日新聞(2019年7月18日)が伝えた。一時保護所での過剰なルールは私も取材で聞いたことがある。奈々美(24、仮名) もその一人だ。父親が母親に暴力を振るった場面を目撃した「面前DV」という心理的虐待と、母親からの虐待、兄からの性的虐待の被害を受けた。しかし、奈々美の言葉で言えば、「運良く、(児童福祉の)サポートを受けることができた。

●「面前DV」。母親が父親に殴られる姿を見る

「父は母に対して暴力を振るっていました。怒るときは一気に爆発するんです。自分の考えは正しいって思っているようです」

奈々美(24、仮名)は幼少期からずっと、父親の暴力を見てきた。いわゆる「面前DV」だ。4歳のころ、父親が母親を階段から突き落としたことがあった。

「すごい音がしたんです。母が倒れていました。母は『見ないふりしていいよ』と言っていました。きっと喧嘩をしていたんだと思いますが、理由はよくわかりません。そのときの私にとっては衝撃的でした」

奈々美にとっては2人とも親である。父親は子どもには手を出さず、優しかった。また、奈々美は、母のことも好きだった。そのため、板挟みになっていた。父親といるときは母親の悪口を聞き、母親といるときは父親の愚痴を聞く。そんな生活が続いた。

あとで知ることだが、母親は、双極性障害、いわゆる躁うつ病だったようだ。優しいが、話しかけにくい雰囲気があった。

「母親はもともと鬱傾向があったようなんです。だから、躁うつになったのは結婚後だったのではないか、と思えます。母はよく、『本当はあの人とは結婚したくなかった』と言っていました。職場の人に無理やり見合いをさせられて、結婚したと言っていました。好きな人がいたようなんですが、反対されたそうなんです」

●離婚によって、母親が暴力的になっていく

小学生になると、母と兄と3人で暮らすようになった。母は精神疾患を抱えながら、シングルマザーになった。苦労はしたようだが、母親はこの頃から、子どもに対して暴力的になっていった。

「殴ったり、叩いたり、暴言がありました。物を使って叩かれることもありました。髪を掴んで引きずり回されることもあったんです。理由は、『反抗した』というものです。母はすぐにヒステリックになって、いきなり爆発するんです。ご飯を食べるのが遅かったり、宿題をしなかったり、片付けをしなかったり、ちゃんと返事をしないと、そうなります」

母親からは暴力を受け続けた。小学5年生のとき、皿洗いをしている最中、皿を落としてしまった。なぜかそのときに鼻血が出て、びっくりしたからだ。母親に「早く、片付けなさい」と言われた。そのとき、奈々美の頭に浮かんだ言葉がある。

「なんで生きているんだろう」
「死にたい」

そう思った奈々美は、その割れた皿で手首を切った。生きている意味がわからなかったからだ。

父からの面前DV、母親からの暴力、兄からの性的虐待について話をする奈々美

●父親の面会交流時に、兄からは性的虐待を受ける

一方、兄からは見下されつつ、性的虐待を受けることになる。離婚した父親とも月1回の面会があった。兄と2人で父親の家に宿泊していた。父親は2人の子どもが遊びに行っても、睡眠薬を飲んで、早く寝る生活だった。兄とは客間で寝ていたが、次第に、体を触られるようになった。

「ほぼ毎回触られるか、触らされるか、でした。触られるときは、起きてはいたんですが、怖くて何も言えませんでした。最初は意味がわかりませんでした。でも、兄のことを嫌いじゃないので、それで仲良くなれるのなら、と思ったこともありました。機嫌が取れましたので。でも、途中から脱がされるようになり、エスカレートして、挿入されそうになったんです」

兄の性的虐待がやむきっかけは、母親に相談したことだ。学校での性教育で、生理のことを知り、妊娠してしまうのではないか、との不安からだった。奈々美は、児童相談所に一時保護されることになる。

「このとき、兄は中学生です。怖くて、母親に言ったんです。しばらくすると、どういう経緯からかはわからないですが、保護されました。兄は児童擁護施設で生活するようになりました」

実は母親は、兄の性的虐待の場面を目撃したことがあった。親子3人で川の字になって寝ていたが、母親がトイレでいなくなった時に、兄が手を出したことがあった。母親は兄を怒ったが、虐待が続いているかは知らなかったのかもしれない、兄はなぜ、そんなことをしたのか。

「反抗したら殴られました。理由は気まずくて、兄には聞けません。児相でも掘り下げられることはなかったようです。児相の人は『若いから』と言っていました」

小学6年生のときだ。兄と別れて暮らすということは、母親と2人で生活をすることになる。すると、母親の、奈々美への暴力はエスカレートすることになる。兄がいなくなり、奈々美ひとりが標的になったからだろう。

「誰にも言えませんでした。インターネットもなかったので、調べられませんでした。他の家がどういう親子関係なのかもわからなかったので、特に異常だとは思っていたなかったですね。この関係しか知らないのですから」

●母親が養育できず、抜毛症になった奈々美も施設へ

兄が児童養護施設に入った頃から。母親の恋人がよく家に遊びにくるようになった。のちにその恋人と再婚することになる。

「その人が来るときは、豪華なご飯が出たんです。母親としても、『いい母』『いい女性』として振舞っていたんでしょう。その恋人は、母親の暴力的な面を知らない。険悪な雰囲気があっても、”反抗期の娘”に見えたことでしょう。その人が帰ると、いつもの暴力的な母に戻りました」

奈々美は徐々に家に帰りたくなくなっていく。

「近所の野良猫の溜まり場があるんですが、そこで友達と話したりしていました。母に反抗的に見えたんでしょう。ご飯をもらえないこともありました。そんなときは、冷凍庫や冷蔵庫にあるものを探して、自分で食べていました」。お小遣いはお年玉だけでした。そのため、お金がなくなると、母の貯金箱から、五百円ほどをとっていました。見つかって怒られたこともあります」

中2のとき、母親は育児放棄をする。このとき、一時保護所に入ることになる。その後、奈々美は児童擁護施設に入所することになった。この頃、抜毛症が激しかった。それだけストレスを抱えていたということだろう。

「抜くことでストレスが解消するんです。無心でやってしまいます。なかなかやめられませんでした。今ではまつ毛を抜くのは克服しました。おしゃれは好きなので、治したいんですが、どうしても、衝動が抑えられない」

それから3年間、母親とは顔を合わせていない。ただ、恋人と結婚をして、生活が落ち着いたのか、面会に来た。そのとき、母親は「ごめん」とだけ言っていたという。

「施設に入ることについて、最初は嫌だったんです。転校をしないと言えないし、中学生は携帯電話も使えなかったからです。でも、今はよかったと思います。だって、家では勉強ができる環境じゃなかったですから。施設では、勉強も教わることもできたし、高校にも行けました。虐待もありませんでしたし」

●施設を出たあと

施設を出ることには不安があった。大学に進学することになるが、必要な費用の一部は奨学金でまかなった。不足した生活費などはアルバイトで稼いだ。

「施設を出るとアフターフォローをしてくるところは少ないですが、私がいた施設は奨学金の管理をしてくれましたし、個人的にかもしれませんが、職員の人が、定期的に面会もありました」

親からは手紙がたびたび届いた。歳をとって暴力的でなくなった一方で、過干渉になった。直接連絡を取れるようになって、そんな面がエスカレートした。しかし、アルバイトで忙しかったためもあり、一年生の終わりごろには鬱になった。

「それまでは、鬱とかって大げさじゃないか?と思っていたんですが、本当に起きれなくなりました。移設の人が様子を見に来てくれましたし、病院にも付き添ってくれました。『死にたい』というよりは、『消えたい』という思いでした」
相次ぐ虐待事件をニュースで知り、自身の体験を振り返るようになった奈々美

東京都目黒区、千葉県野田市、北海道札幌市で、虐待死事件が相次いだ。一方、子どもを保護する「一時保護所」が、子どもを管理するルールが「過剰な規制で人権侵害にあたる」として、都の第三者委員に指摘された。そのことを朝日新聞(7月17日付)が独自に伝えた。

「虐待関連のニュースは、注目しています。私は運が良く、セーフティーネットにひっかかっただけ。でも、私が入った一時保護所は大変な場所でした。半分、少年院のような感じでした。ベランダにも有刺鉄線が張られていました。職員も威圧的で、規則を守らないと、個室に入れさせられます。そこで、1日中、小学生で習う漢字を書かされました」
「新卒で入った会社が家族経営で、いじめられました。理不尽なことで怒られた。ブラック企業だったんです」

そのため、会社を半年で辞めた。現在は、母親と2人で暮らしている。徐々に、関係は改善しているが、時々、干渉されることがある。