私たちはみんな、とっくに社会運動をやっている。『みんなの「わがまま」入門』 - 紫原 明子
※この記事は2019年08月08日にBLOGOSで公開されたものです
「社会運動」と聞いて、自分に関係のある言葉だと感じる人は、果たしてどのくらいいるんでしょうか。私は正直なところ、自分にはまったく関係のない話だと思っていました。なぜなら、私はヘルメットとかゲバ棒とかも持っていないし、集会に行ったりもしないからです。
デモに参加しようかなと考えたことは何度かあるけれど、予定が合わなかったので断念してきました。社会に対して色々と思うところはあるし、主張もします。でも物書きがみんな運動家なんてことはないだろうし、私の活動が運動であるとは、まるで思わなかったんです。
ところが先月、立命館大学准教授で社会運動を研究されている富永京子さんと、女性学のパイオニアである上野千鶴子さんのトークイベントを聞きに行った際、お二人の刺激的な話が進むにつれ、ひとつの疑惑が私の中でにわかに急浮上してきたのです。それは、
"もしかして私、社会運動をやっているのでは……?!"
ということです。
お二人のお話しの中で、共働き夫婦の妻が、子どものお迎えに行ってよと夫に言うのだってひとつの社会運動、という例え話がありました。ならば、「赤ちゃん泣いてもいいよ」を伝えるステッカー(https://woman.excite.co.jp/welovebaby/)を作ったりしたのも(泣き声がいやだという人の気持ちを変える意図はないとはいえ)実は社会運動だったのかもしれないと思い始めました。というか、私自身もこのプロジェクトのことを誰かに説明するとき「こういう意図の運動です」と言ったことがあるような気もします。なのに、イコール社会運動という認識はなかったのです……。
また質疑応答の際、ネット炎上をどう見ているか、という参加者からの質問に対して上野さんから、“今やネットも立派な戦場です。メディアアクティビズム、という言葉があります”というお話しがありました。もし、「これはおかしいぞ」と、自身の意見をツイートして、それを読んだ人の意識を変えたり、ましてや大きな渦になって、企業や行政の動きにも影響したりなんかしたら、たしかにそれも運動と呼ぶべきかもしれません。ということは、ツイッターで意見をツイートする時点で、私たちはみな小さな社会運動をしている……?!
極めつけは、イベント終了後に富永さんにサインを書いていただいたときのことです。ツイッターで私の存在を知ってくださっていたという富永さんが、サインに添えてくださった言葉は、まさかの"「わがまま」プロフェッショナルにお会いできて嬉しいです"でした。
念のために説明すると、この「わがまま」というのはわがままボディとかのわがままではなく、富永さんが上梓された本のタイトル『みんなの「わがまま」入門』にちなんだ表現です。運動などを通じて自分の権利を主張することを、どこか遠慮してしまう私たちの気持ちに寄り添って、「わがまま」とされているのです。
で、もちろんそこには富永さんのリップサービスも多分に含まれていると思いつつ(何しろトークイベントのお客さん一人ひとりにお土産のお菓子を配ってくださったような気遣いの方だったのです)、私はまさかの「わがまま」のプロフェッショナルという、称号をいただいてしまったのです。
……そうか、今やヘルメットとゲバ棒を持って、正面から切り込みにいかなくても、社会運動は、できる!……というより、最早やっている!……ということに、私はこの日、ようやく気がついたのです。
「SNSで意見発信=運動」になる可能性
そう考えると色々と納得のいくことが沢山ありました。真っ先に思い出したのは、ある企業の広告が女性蔑視ではないかと、ツイッターを舞台に異論が巻き起こったときのことです。私の見る限りあのときは、女性の中にも、女性蔑視だと感じる人と、そうは感じないと言っている人とがともに確認され、しかし結果としてその広告はすぐに取り下げられることになりました。
あまりにもスピーディな対応だったせいか、逆にそんな結末を迎えた後も議論は続いて、女性蔑視だと声を上げた人には「そこまでやる必要があったのか?」という疑問や批判の声が寄せられました。一方、声を上げた中の一人の方が、それに対し、こんなお返事をされていたのです。
「そもそも取り下げることを要求はしていない。これは女性蔑視ではないかと感じ、そう意見し、企業の意図を知りたいと言ってきただけです」
私はこのとき、件の広告が女性蔑視とは限らないのではないか、と感じていた方だったので、おのずと取り下げさせることもなかったんじゃないか、と感じていたわけですが、上のようなツイートを見て、そうか、そういうこともあるよなあ、と納得しました。
一人ひとりが「おかしいのでは?」と意見を言う。そこに何かをすぐに変えてやりたいという意図があるかどうかは別で、もしかしたら、ちょっと話し合ってみよう、考えてみよう、という問題提起みたいな気持ちの場合もあるかもしれません。でも、そんな個人の真意とは裏腹に、企業の方が先回りして言葉の力を恐れ、方針を変えるということもまた、最近はよくあります。私たちが運動と思っていないことまで、運動になってしまう。インターネットで誰もが意見を言える時代には、そういうことが起きるのだと、知っておかなくてはいけないなあと思います。
個人的な"わがまま"は、誰かの望みかもしれない
そんな中にあって、富永京子さんの『みんなの「わがまま」入門』は、子どもから大人まで、幅広い人に強くおすすめしたい一冊です。
何しろこの本は、社会運動とは何か、なぜ必要なのか、でもなんでそれがわがままに見えてしまうのか、一体どんな風にやってみればいいのか、そういったことが、驚くほどわかりやすく説明されている、私のようなものにうってつけの入門書だからです。なんでも、中高一貫校で実際に富永さんが講義をされたことがきっかけとなって書かれた本だそうで、子どもでもわかるようになっています。
私はこの本を何冊か買って、身近な学校に寄贈したいなと思いました。なぜかというと、学校に通うあらゆる子どもたち、先生たちにとって、少しだけみんなと合わなかったり、違ったりする子をどう受け入れていくか、受け入れられるのかというのは、程度の差こそあれ、いつだって大なり小なり悩みの種だからです。
実際、私の周りには学校に対して懸命な運動を行っている親御さんが少なからずいます。発達に偏りがあったり、あるいは人一倍繊細なところがあったりして、みんなと同じことが同じようにできない。でも、特別支援学級や養護学校が合うかというと、それもまた悩ましいような子どもたちを、"今の環境から排除しないでください、こんなことを許してくれたらいいんです"と、働きかけている親御さんは沢山います。けれども、そういった人たちはときに、学校やほかの親御さんたちから、クレーマーのように扱われたりするのです。
声を上げなければそんな事情を抱えている人がいることは見えません。学校にも沢山の事情があるのはわかるけれど、“普通”に馴染めない人を切り捨てていいかというと、そんなこともないはずです。
……いやいやそんな綺麗事言ったってさあ、という呆れた声が聞こえてきそうですが、それが実は綺麗事じゃないこと、一般に“普通”とに分類されそうな人たちが、現実にはいかに少ないか。そういうことの説明から、『みんなの「わがまま」入門』は始まります。だからぜひ、沢山の人にこの本を読んでほしいと思うのです。
今さら誰かがダイバーシティを推進しなくても、私たちはとっくに異質な人たちの集団の中で生きていて、誰かの個人的なわがままのように思えるようなことも、蓋を開けてみれば、大勢が望んでいることだったりするかもしれない。あるいは、誰かのわがままが聞き入れられる社会は、私のわがままにも温かい社会かもしれないのです。