コロナ禍やウクライナ侵攻以降、本当の情報を見極めることが難しく、「無知のわな」に陥りやすくなっていないか(写真・Rhetorica/ PIXTA)

2019年以来私たちは、とてもおかしな迷宮の世界に入ったように思える。コロナ禍とロシアのウクライナ侵攻によって、私たちはいつのまにか無知の虜になったように感じる。コロナ禍においてもウクライナ侵攻においても、十分な情報を得ることなく相手(敵)に恐れおののき、どんどん恐怖をあおり、いつの間にかしっかりとした情報を理解することを放棄し、無知の罠(わな)に陥っているように思えるのだ。

海外に行けないことで海外とのつながりを絶たれ、海外のメディア情報も絶たれ、まったくの情報孤立の世界に陥ってしまっている。誰かがそうしろと命令しているわけでもなく、情報源を絶たれていることで、個々人が粛々と自己規律的(自分勝手)にたった一つの方向で、ものごとの善し悪しを考えるようになっているのである。事態は深刻だ。

われわれは「無知のわな」に陥った 

私のような研究者は、相手の情報をつかむことが仕事である。一方的に決めつけ、一方側からの情報だけを受けるということは研究者としてはできないし、やってはいけないことだと教えられてきた。映画のように一方に正義がいて、他方に悪があるというような勧善懲悪のような世界があればいいのだが、これまでの私の経験からいってそうしたことは一度としてなかった。

ウクライナの戦争に関していえば、ロシア・テレビの英語放送、フランス語放送などが重要な情報源であった。しかしEUがこれらの放送局を禁止したことで、情報が入ってこなくなった(日本もそれに従った)。いつのまにか、西側世界も情報統制という戦時体制へと進んでしまったのである。今や東側対西側との総力戦による戦争体制に入ってしまったかのようだ。

私も、久々にラジオの短波放送が聞けるラジオを購入し、YouTubeなどの動画サイトやホームページで第三国、例えば中国のCGTNやインドのWION(World Is One News)などのメディアを盛んに探すようになった。情報が直接入ってこないからだ。日本がロシアと戦争しているのであれば、それは理解できないことではない(そうあるべきではないが)。相手国の情報を知ろうとするものが、スパイとして摘発されるからだ。

しかし、今はそんな状態にあるわけではない。あくまでも形式的には、日本は第三国の立場のはずだ。アジア・アフリカの国はそうした第三国の立場から、今でもロシアと西側の情報を両方とも流し続けている。集団的自衛権の行使は、日米安保条約の話であり、NATO(北大西洋条約機構)との集団的自衛権に巻き込まれているわけではない。日本はNATOの加盟国ではないのだ。

とはいえ、事態は戦争状態にあるかのようである。これは由々しき問題である。しかし一方で、NATO加盟国のフランスでさえ、フランス・ソワール紙やシュッド・ラジオなど、政府の強硬なロシア対策に反対する放送も徐々に出ている。

報道の誇張や偏見から事件は起きた

今の状況を見ると、1990年代のユーゴスラビアの内戦のときのことが、ふと頭をよぎる。私は政府給費留学生として1981年にユーゴスラビアに留学していたために、この内戦には深く心が痛んだ。今のクロアチアにいたのだが、セルビアにも友人がいた。ユーゴの内戦では、西側の報道は一方的にセルビアを悪とし、スロベニア、クロアチアを善としていたように思える。しかし戦争というものは、どちらにも言い分があるものだ。

セルビアではつい先日、1999年にアメリカ軍が中国大使館を爆撃し、大使館員3人が亡くなった事件の追悼式が開かれていた。この中国大使館への攻撃も1995年に起こったとされる、スレブニッツァ(現在のボスニア・ヘルツェゴビナ)でのセルビア人によるイスラム教徒虐殺という非道な事件の前にすべてが正当化され、正義と人道のための必要な攻撃として西側では処理されてきた。

だが、この問題は西側の報道の多分の誇張や偏見から起こった問題でもあった。ジャーナリストのピーター・ブロックの『戦争報道メディアの大罪』(田辺希久子訳、ダイヤモンド社、2009年)は、この西側の報道体制について厳しく批判した書物である。彼によると西側の報道は最初からセルビアを悪者として報道していたというのだ。もちろんジャーナリストといえども両方の軍の取材はできない。一方的であるのはある意味致し方ない。しかし、なるべく相手の報道も参照して、報道すべきなのである。

大体こうした報道がなされるとき、決まって出てくるのは、大量虐殺や大量破壊兵器による殺戮、毒ガス兵器などである。本当にそうしたものが使用されたのかどうか、慎重に検証しなければならない。例えば、化学兵器など使用できそうにない国、ナイジェリアで化学兵器が使用されたという報道がなされたことがあるが、これは少し考えればわかる話である。ナイジェリアにその力があるのかどうかということだ。十分に考えずにそのまま信じてしまう。

スイスのジャック・ボーという人物が最近書いた、『フェイクニュースに支配される世界』という本があるが、このナイジェリアの話がそこに出てくる。彼はスイス人の元大佐で情報に関する専門家だが、「われわれの理解は部分的であり、偏見に満ちている」と述べている。

何事もバランスが重要だ。私たち研究者の役割はそこにある。その意味では責任は重い。またそれを言う勇気が必要だ。しかし、これを欠けば、また戦前と同じように大政翼賛社会となり、最終的にはわが国民に悲劇が訪れるのだ。時流や風潮にのらずに、「愚直足るべし」なのだ。

詩人の佐藤春夫(1892〜1964年)が「大逆事件に関係した」として処刑された彼の故郷の医師・大石誠之助(1867〜1911年)について書いた詩を上げておく。「愚者の死」というタイトルだ。

大石誠之助は殺されたり。千九百十一年一月二十三日、げに厳粛なる多数者の規約を裏切る者は殺さるべきかな。死を賭して遊戯を思ひ、民俗の歴史を知らず、日本人ならざる者愚なる者は殺されたり。「偽より出でし真実なり」と絞首台上の一語その愚を極む。われの郷里は紀州新宮。渠の郷里もわれの町。聞く、渠の郷里にして、わが郷里なる紀州新宮の町は恐懼せりと。うべさかしかる商人(あきうど)の町は歎かん、--町民は慎めよ。

この詩は、当然逆説として読まねばならない。日本に残る、権力に逆らえないという歴史を無視して、軽率にも権力に背いた大石は愚者である。しかし、愚かだがこの日本人ならざる愚か者こそ、実は日本の救援者でもあるということだ。まさに愚かたるべし。愚かなもののいない世界、それは実は闇といえるのだ。

「バカの壁」と「愚者たること」

平成最大のベストセラーといわれる養老孟司氏の『バカの壁』という書物がある。バカとの壁とは、偏見に満ちた壁という意味だ。人は一度刷り込まれた偏見からなかなか脱出することができない。脳が閉じてしまうのだ。それをどう壊すか。それが本書のもつ意味だ。

最近の報道を見ていると、われわれもいつのまにかバカの壁をつくっているように見えてならない。重度の痴呆状態にあるといっていい。報道があたかも統制されているような状態だ。自粛といえば聞こえがいいが、「義を見てせざるは、勇無きなり」で、自粛の罪も重い。

確かに自分にとって都合の悪いことを認めるのは、だれしもいやなことだ。だから、見ないでおきたい。できたら、なかったことにしたい。しかし、これを続ければ、うそが誠になり、誠がうそになっていく。こうして、どんどん脳が遮蔽されていくのだ。このバカの壁を崩すにはどうすればいいか。

それには、愚者になることだ。愚直という言葉がある。何事も、自分の目でしっかりとみて右顧左眄(うこさべん)しないということだ。しかし、メディアが真実を伝える勇気がなければ、それは容易ではない。メディアとは、情報を伝達する媒介のことである。さしあたり現代では、それは教育、放送、新聞などである。

フランスのルイ・アルチュセールという哲学者は、こうしたメディアをかつて「国家イデオロギー装置」と呼んだ。読んで字のごとく、国家に都合のいいことを垂れ流す装置という意味である。国家に都合のいいことは、国民にとって都合のいいことであるとは限らない。真理とはえてして、国民に都合のいいことではなく、国家(その権力者)に都合のいいことである場合が多い。だから、国民はつねにここから逸脱し、自らの目で確かめねばならない。「百聞は一見にしかず」という言葉は、まさにそれだ。

とにかく、われわれは「愚者たるべし」なのである。

(的場 昭弘 : 哲学者、経済学者、神奈川大学経済学部教授)