「結婚できないなら…」30歳女が友人の“ご報告”に追い詰められて？
港区、千代田区、中央区、渋谷区、新宿区。
通称「都心5区」。このエリアは、東京でもずば抜けて不動産価値が高い。
日本の高級住宅街を抱えるこのエリアに住めるのはもちろん、“選ばれし者たち”のみ。
そこに選ばれた女たちは、男、仕事、年収、プライベートも“すべて”手に入れたいと思っている。
尽きることのない欲望を持つ女たちは、白鳥のように美しくあろうと足元でもがき続けているのだ。
File9. 春香、千代田区在住。「大手町住まい」に驚かれる
「春香さん、どこに住んでいるの？」
「えっと、大手町です」
「大手町！？」
こんな会話、もう何百回と繰り返してきただろう。
早稲田大学を卒業後、大手証券会社に勤務して8年がたつ春香は、2年前に大手町の1LDKマンションを購入して住んでいる。
20代でマンションを購入することは、少なからず周囲から驚かれた。しかし、仮に結婚して別の場所に住むことになっても、このマンションなら簡単に売れるだろうと考えたのだ。
「最寄り駅が大手町」と言うと、ほぼ100％「えっ！？」「住む場所なの？」という反応が返ってくる。
春香の住まいは、正確には千代田区神田錦町だが、最寄り駅は大手町。
しかも、使える駅は大手町だけではない。神田駅や神保町駅、小川町駅など、1km圏内に何駅もあり、多くの路線を使うことができるのでアクセスにはまったく苦労しない。
春香が大手町に住んでいる理由は、職場に近いこと。加えて、最近はコロナ禍で回数は減ってはいるものの、出張するには東京駅が便利だからだった。
スーパーも小規模ながら、いくつかあるので生活にはまったく不便がない。
しかし…。
ただ便利というだけで色気のない大手町の住環境に、30歳を迎えた春香は少しずつ焦り始めていた。
春香の心をざわつかせるのは、あの“ご報告”…！
ある土曜日。
春香は大学の友人からの誘いで、六本木ヒルズの『OBICÀ MOZZARELLA BAR』に向かっていた。
大手町のいいところは、どこに行くにもアクセスがいいことだ。自宅から六本木へはタクシーで15分もあれば着くので、お気に入りのヒールを傷めることもないのがいい。
しかし、タクシーに乗った春香の顔は浮かなかった。
― あーぁ、どうせまた結婚の報告だろうなぁ…。
近頃、久しぶりに友人から連絡が来るとしたら、だいたいは結婚報告だ。
「春香！お久しぶりー！」
店に着くと、すでに席に座っていた友人が春香を見つけるなり、パッと晴れやかな顔を向けた。
「あのね、春香。早速の報告なんだけど…実は私、今年の秋に結婚することになったの！コロナだから式は親族だけにするつもりだけど、もうすぐ彼と同居するんだ」
― あぁ、やっぱり結婚の報告だよね…。付き合って長かったもんね…。
案の定、春香は友人からのご丁寧な“ご報告”を受けることとなった。しかし、そんな複雑な思いは見せぬように、にこやかにこう返した。
「うわー！そうなのね。おめでとう！」
「ありがとう〜！引っ越して落ち着いたら、ぜひ遊びに来てね！ところで春香は、最近どうなの？」
「うーん…。特に変わりないよ？普通に仕事して…」
人生の幸せのピークにいる友人を前に、何と言ったらいいのだろう。30歳という年齢は、今も昔も女性を仕分けする残酷な数字だ。
嬉しそうな友人を前に、春香は帰りに何を買って帰ろうかなどと、まったく別のことを考え始めていた。
◆
幼い頃から成績優秀だった春香。震災直後の就職難の時でも大手証券会社の内定を得て、地道に証券会社でキャリアを築いていた。
将来どうなりたいかなどを真剣に考えたことはなかったものの、与えられた仕事を真面目にこなしてきた自負はあった。
しかし、プライベートはというと、出張が多いために出会いの場にも行けず、男性と一緒にする趣味もなく、長年恋人がいない状態が続いていた。
― みんなライフステージが変わっていくのに、私は何をやっているんだろう…。
春香の誇りは、「早稲田大学卒業」と「とりあえず真面目に証券会社に勤めていること」だけ。しかも、その証券会社においても、出世が早いわけでも目覚ましい成果を上げたわけでもない。
周りの変化と、その変化に追いつかない自分を見て、春香はこう思うようになっていた。
「このままだと格好がつかない。格好がつかないなら…出世でもしないと」と。
仕事なら、きっとうまくいくはず
「格好がつかないから、出世しよう」
その考えだけで、春香は2ヶ月後に控えた昇進試験の勉強を始めることにした。自分でも浅ましい考えであることはわかっていた。
しかし、こうでもしなければ、春香は自分という人間が脆く崩れてしまいそうだったのだ。
― まぁでも、きっと大丈夫よ。昇進できるはず！
春香には、余裕を感じる根拠があった。
証券業界は全体的に男性が多いが、この状況を打破するために女性活躍を推進させようという動きがある。
そのため、男性社員よりも女性社員の昇進を優遇する動きが、春香の会社でもあったのだ。
― だから、女性の自分はきっと昇進させてもらえるだろう…。
春香はそう考えたのだった。
◆
迎えた昇進試験日。
― えっ…。何これ、ヤバイ…。
試験会場の会議室に着いて、春香は驚いた。というのも、会場を見渡すと半数以上が女性社員だったのだ。
― みんな、こんなに昇進したいと思っていたの？
思いもよらぬ女性受験者の数に、春香は完全に動揺してしまっていた。
筆記試験が終了し、春香の面接の順番がきた。
「5年後、10年後、15年後のご自身のキャリアをどうお考えですか」
「わが社にどのような役割で貢献できると思いますか」
「部下の育成面で、ご自身がどのように貢献できると思いますか」
「女性だけではなく、男性のキャリア育成について、どのようにお考えですか」
「日本の金融業界の今後について……」
― そんなこと、考えていないし…。
真面目にキャリアを考えているのであれば、自ずと考えるであろう質問ばかりだ。しかし、そんな意気込みもなく、ただ現状打破のために昇進試験を受けた春香。
執行役員を筆頭に5名の面接官からのあらゆる質問に、完全にしどろもどろになってしまった。
◆
試験の結果は予想通り、春香の昇進は見送りとなった。
一方、同じ部署で1年後輩の河野真司が昇進試験に合格したと発表されたのだ。早速、彼の昇進を祝う会が開かれた。
「河野くん、おめでとう！実は私も試験受けたんだけど、落ちちゃって…」
こう声を掛けた春香に、真司は答えた。
「そうだったんですね。でもまたチャンスありますから大丈夫ですよ！僕、春香さんや皆さんに早く恩返ししたいと思っているんです」
― 恩返し？
怪訝な顔をする春香を前に、真司は続ける。
「僕、入社してからずっとこの部署の皆さんにお世話になっていて、早く色々な機会を与えられる人間になりたかったんです。
まぁ、今回の昇進はその最初の一歩でしかないですけどね。もちろん、春香さんとももっといい仕事したいので、これからもよろしくお願いします！」
1年後輩の真司から告げられたのは、感謝の気持ちだった。
真司は、社内で自分が何をやりたいのか、それがどう会社に貢献できるのかを、真摯に考えていたのだ。
そんな真司を前に「結婚もしないで格好がつかないから」という理由で昇進試験を受けたことが、春香は心底恥ずかしく思えてしまった。
「河野くん、おめでとう…。私も、あなたに与えられるように頑張るよ」
春香は小さく微笑み、目の前のグラスに口をつけるのだった。
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