頼れる夫に変身した元彼に遭遇し、女がとっさに封印した“本音”
結婚3年目の夫婦に、待望の第一子が誕生。
これから始まる幸せな生活に心を躍らせたのも束の間―。
ささいなことから2人の愛情にひびが入り始める。
すれ違いが続き、急速に冷え込んでいく夫婦仲。
結婚生活最大の危機を、2人は乗り越えられるのか?
◆これまでのあらすじ
彩佳が外出している間に、義母を呼び寄せた昌也。彩佳がそれを咎めると、昌也も教育や育児などの話を持ち出して応戦する。すれ違うばかりの2人だが…?
「あ、出かけたんだ」
7時。
ガチャンとドアが閉まる音で、彩佳は目を覚ました。
いつもなら「行ってきます」と、寝室にちらりと顔を出す昌也だが、今朝は無言で出かけたらしい。
彩佳は、彼の怒りを感じ取る。
スマホに目をやると、一通LINEが届いていた。
『今晩、夕飯いらないから』
どうやら昌也には、仲直りするつもりはないようだ。長期的な冷戦を覚悟する。
「こっちだって、謝るつもりないから」
彩佳は、スマホの画面に向かって吐き捨てた。
散らかった部屋に義母をあげた上に、昌也の昼食の準備までしてもらっては、彩佳の立場がまるでない。
さらに昌也は、怒りに任せて母親失格というようなことを口走った。
― 何さまのつもり?っていうか、どの口が言うのよ?
毎日育児を頑張っているのは、紛れもなく彩佳だ。
昌也は、教育本や育児本を読み漁っていた割には、実践力が伴わず、理屈ばかり並べてくる。頭でっかちで、語るのは理想だけだ。
そんな彼に、教育やしつけについてとやかく言われる筋合いはない。
思い出せば思い出すほど、頭にくる。
「こうなったら、あっちが謝ってくるまで口きかないんだから」
彩佳と昌也の絆は深まるどころか、日々、溝が広がっていくばかりだった。
リビングの一角に置かれた段ボールに気づいた彩佳。その中身は…?
のしかかるプレッシャー
「ああ、幸せ」
彩佳は、昨日買ってきた『メゾン カイザー』のパン オ ショコラを頬張った。
大好きな陶器ブランドのベルナルド。エキュムのプレートに、パンとオレンジやブルーベリーを盛りつければ、優雅な朝ごはんのできあがりだ。
パン オ ショコラは、サクサクの生地に、バターの良い香り。軽く温めると、中から甘いチョコレートがとろりとあふれ出す。
食後のコーヒーを飲んでいた彩佳は、窓際に新たな段ボール箱が置かれているのに気づいた。また昌也が何かを買って、置きっぱなしにしているのだろう。
「こんなところに置かないでよね。邪魔なんだけど!」
彼の書斎に押し込むために段ボール箱を動かそうとするが、ぎっしり入った本のせいで持ち上がらない。中を覗いてみると、そこには大量の育児や教育本が入っていた。
「またこんなの買って。知識ばかり増やしてないで、実践してよ」
つい不満の声がもれてしまう。だが、何気なく手に取った本のタイトルに、彩佳は目を留めた。
“幼稚園受験”や“幼児教育”の文字。ほかの本も、受験ガイドや名門幼稚園合格などの言葉が並んでいる。
昌也自身も、幼稚園から高校までエスカレーター式で進学したから、幼稚園受験は自然なことなのだろう。
たしかに、結衣を妊娠中にはお受験の話もしたし、彼は雙葉や白百合を受けさせたいと言っていた気がする。
だが、出産後はそれどころではなく、夫婦の話題に上らなくなっていた。
適当に手に取った1冊をパラパラめくってみると、0歳からの幼児教育の重要性や母親の役割が、熱く語られている。
「夫婦のチームワーク、家族の輪、夫の献身ねえ」
つい乾いた声が出てしまう。昌也とギクシャクしている今、彩佳には何も響かないし、なんだか白けた気分になってしまう。
― それより、本当にお受験考えてるなら、もう少し歩み寄ってほしいわ。
彩佳は、パタンと本を閉じた。
「お義母さん、さすがだわ」
冷蔵庫を開けた彩佳は、おかずが入った容器がぎゅうぎゅうに積まれている光景に、思わずため息をもらした。
ひじきの煮付けやたたきごぼう、お漬物やスペアリブの煮込み。それから、チーズケーキまで入っている。
昌也からのSOSで、すぐにこんなに持ってこられるのは、純粋にすごいと思う。
家事を完璧にこなし、会計事務所を経営する夫を支える義母。
さらに昌也の幼稚園受験も成功させたのだから、専業主婦の鑑のような人だ。
「彩佳は、育児に専念してほしい」
不意に彩佳の脳裏に、昌也の言葉が蘇った。
これまではありがたいお言葉くらいに思っていたが、今となっては義母のようになってほしいと言われているように聞こえるのだ。
悠々自適なセレブ妻ライフが一転、彩佳に結衣のお受験というプレッシャーがのしかかる。
跡継ぎという問題も、今後出てくるかもしれない。
― ああ、憂鬱。
彩佳はこの時、昌也と結婚したことの重みを初めて感じてしまった。
夫への不満を募らせる彩佳。結衣の1ヶ月健診で、ある人物を見かけ…
元彼との遭遇
「わあ、もはや懐かしい…」
迎えた1ヶ月健診。
彩佳は、結衣と聖路加国際病院のウェルベビークリニックを訪れていた。この1ヶ月間、怒涛の日々だったから、退院した日がはるか昔のように思える。
雲ひとつない青空と、夏のような強い日差し。時折吹くやわらかな風が頬を撫で、結衣もなんだか気持ちよさそうにしている。
「天気も良いし、診察が終わったらお散歩でもしていこうね」
彩佳は、結衣ににっこりと話しかけた。
― ふぅ、無事に終わったあ。順調に育ってくれて、なにより。
第一関門突破に、ほっと心を撫でおろす。病院を後にした彩佳は、ベビーカーに結衣を乗せて、周りを散策してみることにした。
妊娠中によく散歩していたあかつき公園に足を伸ばす。
― 前に来た時には、お腹の中にいたのにな。
あの時にはまだお腹の中にいた結衣と一緒だと思うと、とても感慨深かった。
のんびりベビーカーを押していた彩佳だが、視界に入ってきた光景に、思わず息が止まった。
「…え?」
少し先に、よちよち歩く男の子を連れた男性の姿が見えたのだ。
角張った肩に、がっしりした体つき。ピチッとしたポロシャツの襟を立て、少し猫背で歩くその姿は、アメフト部出身だった元彼の義人にそっくりだ。
彼は、メガバンク入行の同期で、一時期付き合っていた。
― ま、まさかね。
平日の真昼間に、メガバンク勤めの義人が公園にいるわけないだろう。
その時。疲れてしまったのか、小さな男の子がドスンと地面に座った。
「じゃあ、パパが抱っこしてあげよう」
息子を抱き上げるために振り返ったその男性は、間違いなく、元彼の義人だった。
「うそでしょ!」
彩佳はとっさに、被っていた帽子を目深に下ろして、くるりと踵を返した。
予期せぬ遭遇に、呼吸が荒くなる。彩佳は、ベビーカーを精一杯押して、足早にその場を離れた。
◆
「びっくりした…」
帰宅した彩佳は、ミネラルウォーターを一気に飲み干した。
帰りのタクシーでも荒かった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
「あんなところで見かけるなんて、信じられない」
自分から一方的に別れを告げ、納得していない彼を押し切って破局した過去もあって、義人とは一切の連絡を絶っていた。
連絡先やSNSの繋がりも消してしまったから、彼が今どんな状況なのか、よく分からない。
― 義人って今、何してるんだろう?
気になった彩佳は、義人と共通の友人から、Instagramで彼のアカウントを探してみる。
セキュリティ意識が低いのか、すぐに義人のアカウントは見つかり、誰でも閲覧できる状態になっていた。
最も新しい投稿は、3日前。
“春斗と公園でピクニック”という、芝生にレジャーシートを敷いて息子にお弁当を食べさせている写真だった。
ゆっくりスクロールして、他の投稿を眺めていく。最近は、子どもと遊んでいる写真ばかりだった。
どの写真からも、仲睦まじい様子と幸せオーラが溢れ出ている。
― この人が奥さんか。なんか、意外かも。
黒髪のショートカットがよく似合う、キリッとした雰囲気の女性。
彼女の誕生日や結婚式の投稿から、義人より3歳年上の姉さん女房で、弁護士をしていることが分かった。
企業弁護士として活躍している奥さんはかなり忙しいらしく、義人も全面的に、いやむしろメインで育児をやっているようだ。
― 羨ましいなあ。
ふいに頭をよぎるものがあった。とっさに彩佳は、頭をブンブンと振って、こんなことを考えてしまった自分をいさめる。
「なに考えてるのよ。義人と別れたのは自分じゃない」
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元彼・義人のことが頭から離れない彩佳は、我慢できず連絡を取ってしまう…。