女にとって、33歳とは……。

32歳までの“20代の延長戦”が終わり、30代という現実に向き合い始める年齢だ。

結婚、キャリア、人間関係―

これは、33歳を意識する女たちが、それぞれの課題に向かって奮闘する2話完結の物語だ。

▶前回:既婚者との泥沼関係から抜けられない32歳女。断ち切るためにとった手段とは




33歳までに離婚したい女・桂木静佳(32歳)【前編】


金曜日の20時。

在宅勤務を終え、勤怠システムに終業記録をつけたところで、夫が帰ってきた。

「ただいま、静佳」

「あら、お帰り。今日は金曜なのに、早いのね」

ごく自然な空気を装って声をかける。

「…そうだね。最近は仕事も落ち着いてるから、早く帰れてありがたいよ。先、風呂入るね」

手短にそう話すと、彼はリビングから出て行った。その後ろ姿を、私はじっと見つめる。

― 今日は“デート”じゃなかったってことね。

シャワー音が聞こえてきたところで、私は立ち上がり脱衣所に向かう。

洗面台の上に置かれた夫のスマホを手に取り、義母の誕生日4桁を打ち込んでパスコードを解除する。ホーム画面の中から“あるアプリ”を選んで立ち上げると、いつも通り女との甘ったるいやりとりが繰り広げられていた。

『幸人さん、昨日はごちそうさまでした♡また横浜デートしましょう♡』

『僕も、一緒に過ごせて楽しかったよ。今度は昼間に湘南の方にも行ってみようか』

どうやら昨日は、仕事終わりにアプリで出会った女とドライブデートでもしていたらしい。私は素早く自分のスマホを取り出し、トーク画面を写真に収めた。

こうした夫の火遊びに気がついたのは、数ヶ月前。スマホをいじっている夫に後ろから話しかけた時、ホーム画面に、有名なデーティングアプリのアイコンが小さく目に入ったのだ。以来、時々チャンスを見計らっては、こうして証拠だけ写真に残している。

― 今のところ色々な女の子とカジュアルにデートしてるだけで、一線は越えていないみたいだけど…。

真実を知りたいようで、知るのが怖い――そんな日々が続いている。


夫の女遊びに悩む妻。2人の出会いは…


出会いは、会社の三田会で…


夫と知り合ったのは9年前、私が23歳の時だ。

世田谷区等々力で生まれ育った私は、中学・高校と東洋英和に通い、大学は慶應の文学部を卒業した。そして大手食品メーカーに入社した社会人1年目の初夏、社内の三田会の集まりに参加したのだ。




グランドプリンスホテル新高輪のバンケットルームで開かれたそのパーティーで、のちに夫となる桂木幸人に出会った。彼は当時31歳で、相模原の研究所勤務。どこか色気のある垂れ目に特徴的な鷲鼻、そして大人の余裕を漂わせた雰囲気に、少しドキドキしながら会話したのを覚えている。

「今日はお偉いさんもいるからお堅いパーティー形式だけど、普段は若手だけで集まって飲むことも多いんだ。よかったら今度、ぜひおいでよ」

「え〜、いいんですか!ぜひぜひ♡」

そうして三田会の集いに度々参加するようになると、2人で会話する機会も増えていった。1年ほど経つと休日に出かけるようになり、ほどなくして付き合うことになった。

交際は順調に続き、社会人3年目・25歳の時、横浜ベイシェラトンで108本の薔薇の花束とともに、プロポーズを受けた。もちろん私に断る理由なんてなく、満面の笑みで“YES”と答えた。幸せな結婚生活への期待に胸をふくらませて――。




大学時代の先輩に相談して…


「結婚するまでは、最高だったんですけどね…」

「静佳、それいつも言ってるね」

土曜日の午後、代官山の『カフェ・ミケランジェロ』。

ギスギスした心をおいしいもので癒したくて、大学のサークル時代の先輩・凛子さんを誘ってランチに来た。温かい春の日差しに包まれた空間の中、私はどんよりと暗い表情で凛子さんに不満を訴える。

「正確には、結婚1年目までは楽しかったんですけどね。1年経ったら仕事が忙しくなったとかで、家に帰るのが遅くなって、休日出勤も増えて…夫婦の時間が激減したんですよね…」

ゴニョゴニョと愚痴りつつ、トマトソーススパゲッティを口に運ぶ。クリームの効いた優しい味わいが口のなかにふわりと広がると、肩に入っていた力がほんの少しだけ抜けるようだ。

しかし、自身も浮気性の夫に悩まされている凛子さんは容赦ない。スパゲッティの味に癒されている私に、鋭い視線を向けた。

「ねえ静佳。桂木さん、やっぱり特定の女がいるんじゃないの?デーティングアプリで遊んでる若い子だけじゃなくて、何年も付き合ってる相手とか…。LINEや他のアプリは確認した?」

「ええ。でも、LINEには怪しいやりとりはなかったですし、デーティングアプリも最初に見つけたもの以外は特にインストールされてなくて…」

その唯一インストールされているアプリも、履歴を見ると登録したのは半年ほど前のようだ。だから、凛子さんの言う「何年も前から付き合っている女性がいる説」は、私はナシだと思っている。

しかし凛子さんは納得いかないのか、「うーん」と眉間にしわを寄せている。

彼女の言いたいことも、わからなくはない。アプリでこれだけ遊んでいるのだから、他に特定の相手がいる可能性は否定できない。今のところその証拠は見つかっていない、というだけで。

ただ、もどかしいようで、この状況にどこか安心している自分もいた。

― 彼とはなるべく波風を立たせたくないし…。不用意に事を荒立てたくないのよね。


夫との間に“波風を立たせたくない”と思う静佳。その理由は…


夫と私は、今まで1度も喧嘩したことがない。

「お金は僕が出すから、静佳の好きなように決めていいよ」

彼は日ごろから、口癖のようにこう言う。夫の実家が不動産経営をしている関係で、彼は自分名義の不動産を横浜から川崎にかけて数棟所有している。

潤沢な収入源と8歳の年の差も手伝ってか、人生における決め事については、およそ私のやりたいようにさせてくれた。

ハリー・ウィンストンの婚約指輪、リッツ・カールトンでの挙式、武蔵小杉の駅直結タワマンの購入に、クラシカルで上品なテイストのインテリア。どれも、私の好みで決めてきた。

もちろん、彼の意見が私と異なるようなら、夫婦として話し合うつもりだった。けれど結果的に、彼はいつだって「静佳の幸せが僕の幸せだから」と私に合わせてくれた。

だからか、出会って9年が経つけれど、私たちは意見が対立したり、口論になったりしたことは1度もないのだ。

そうして凪のように穏やかな結婚生活を送ってきたから、女性の件について夫になんと言って追及し、どんなふうに不満を伝えればいいのか、私はわからないでいる。




「まあ、静佳が桂木さんのことを『絶対に浮気していない』って信じられるならいいけど…。もし、ちょっとでもアヤシイと思うことがあれば、そのときはちゃんと向き合いなよ」

凛子さんは変わらず険しい表情で、諭すように私に言う。

「2人とも、もう10年近い付き合いになるとは言っても、ここから先の人生はもっと長いんだから。信頼し合って人生を一緒に歩んでいける人かどうか、見極めるべきだよ」

「…そうですね…」

夫と本格的に離婚協議に入ろうとしている凛子さんの言葉には、重みがある。ただ私は、やはりどこかで甘い考えを捨てきれない。

「彼が急に、自発的にデーティングアプリをやめて、自分のところに帰ってきたらいいのに」なんて期待せずにはいられないのだ。

― ううん。多少遊び続けてても、最後に私のところに帰ってくるなら目をつぶったっていいかも。全部、軽い火遊びだもの。

それほどまでに、夫と正面切って戦うことは、私にとって想像できないことだった。




「ただいまー。あれ?幸人さん、寝てるの?」

凛子さんと別れ、代官山でショッピングを済ませた私が武蔵小杉の家に帰りついたのは、16時ごろ。

この時間だというのに、夫は寝室で横になっていた。慌ててスマホを確認すると、30分前に『頭痛いから寝てるね』とLINEが来ていた。片頭痛持ちの彼は時々、急に寝込むことがあるのだ。

― かわいそうに…。お水と薬、置いておこう。

サイドテーブルに常備薬とミネラルウォーターを置き、寝室を出る。リビングに戻ると、片隅に置かれた彼のビジネスバッグがふと目についた。

“桂木さん、やっぱり特定の女がいるんじゃないの?”

凛子さんの声が、頭の中にリフレインする。

自然と、バッグに手が伸びていた。

― 大丈夫…だよね?

心臓がどくどくと大きな音を立てている。慎重に、バッグの中を探っていく。

すると、内ポケットの中から見慣れないスマホが出てきた。思わず息を呑む。会社用スマホとも違う型式だ。

パスコードは相変わらず、義母の誕生日で簡単に開いた。迷わず、LINEアプリを開いた。

そこには1つだけ、『杉下製餡所』という名のトークルームが存在していた。

― 製餡所?会社の取引先とか?

反射的にそれをタップした。

すると中に履歴はなく、たった1行、夫から発信したらしいメッセージだけが残っていた。

『瑞穂、昨日はありがとう。ホテルのデイユース、なかなか快適だったね』

既読はついていない。

「何よ、これ…」

たまらずに、1人つぶやく。

これはきっと、火遊びでも気の迷いでもなんでもない。私との夫婦生活を続けながら、並行して真剣に付き合った女性が存在するということなのだろう――直面しなければならない現実に、私は打ちのめされていた。

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夫の裏切りに打ちのめされる静佳の取った行動とは…。