既婚者との泥沼関係から抜けられない32歳女。彼に結婚を迫ったら…
女にとって、33歳とは……。
32歳までの“20代の延長戦”が終わり、30代という現実に向き合い始める年齢だ。
結婚、キャリア、人間関係―
これは、33歳を意識する女たちが、それぞれの課題に向かって奮闘する2話完結の物語だ。
◆これまでのあらすじ
妻のいる男性と6年間関係を続けている瑞穂。「32歳の誕生日までに結婚したい」と彼に伝えたが、期待を裏切られる反応で…
▶前回:「これなら自分で買えるんだけど…」50万円のプレゼントを贈られた32歳女が、本当に欲しかったモノ
33歳までに“彼”がほしい女・杉下瑞穂(32歳)【後編】
恋人の桂木さんから「33歳の誕生日までに結婚する約束はできない」と言われた夜から、2週間。
あれきり、桂木さんとは連絡を取っていない。
こんなにも長期間連絡を取っていないのは初めてだ。たまに職場で見かける彼は、いつもと変わらず元気そうで、余計にこの状況がつらかった。
― 彼は私がいなくても全然寂しくないんだな…。
一緒に過ごした町田のワンルームにいると、楽しかった日々を思い出してしまう。彼と決別するためにも、早くこの部屋を出たい――そんな想いは、日に日に強くなっていった。
◆
土曜日の午後、私は気分転換でもしようと、町田駅付近をぶらついていた。
ルミネやマルイをウロウロとしてみるが、ショッピングをする気さえわいてこない。
もう帰ろうかと家路へと向かう途中、いつもは素通りする駅前の不動産屋で、ふと足が止まった。駅付近にできるタワマンのホテルライクな内装写真が貼りだされていて、目を奪われたのだ。
― こんな家に私も住めたらなぁ…。
すると、中にいた営業らしき男性が私に気づいて出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。お引っ越しをご検討ですか?」
「あ、いえ…今すぐってわけじゃないのですが」
スタッフの勢いに思わず口ごもってしまったが、ぼんやりと引っ越したいと思っていたのは事実。彼に促されるままに中に入った。
不動産屋で物件を探す瑞穂。そこで気づいたこととは…
「ご予算はどのあたりをお考えですか?」
「今の家が8万5千円なので…今度は少し奮発して、12万円くらいまでなら」
すると、大森さんというその男性はたくさんの物件チラシを印刷して、丁寧に紹介してくれた。
「職場が相模原でしたら、町田のほかにも、たとえば橋本とか。立川という手もありますね」
都心から離れているということもあって、12万円も出せばかなりグレードの高い賃貸を選ぶことができる。けれど、なんだかどれもピンとこなかった。
― うーん…。どれもオシャレで広くて、通勤にも便利なんだけど…。
ふと、友達の住んでいる家を思い出す。
品川本社で働く同期は、稼ぎのいい男性と結婚した人が多い。
20代の時、ホームパーティーで招かれると、中目黒の一戸建て、広尾や赤坂の超高級レジデンスなどに居を構えていたから驚いた。町田の狭いワンルームに住む私からすれば、うらやましい世界だった。
素敵な家を訪問するたびに、“いつか私も桂木さんと住めたら”なんて思ったこともあったっけ…。
昔の出来事を思い出し、胸がチクリと痛む。
― 私、どこに行っても桂木さんのことばかり考えていたんだな…。
都心からはるか離れた相模原で、平日は職場と家の往復。
休日も、友達と会うことはほとんどない。既婚者となった彼女たちに桂木さんとのことはとても話せなくて、自然と疎遠になっていった。
結局、定期的に会うのは桂木さんを含め会社の人だけ。ずっと、狭い世界の限られた人間関係で完結してしまっていたのだ。
― そう考えると…住むところが町田でも、橋本でも立川でも、結局は会社中心の暮らしになりそう。なんか、今と同じ感じね…。
気づけば、考え込んで黙りこくってしまっていたようだ。大森さんが、心配そうな表情で私の顔を覗きこんできた。
「お気に召す物件はなさそうですか?」
「すみません、そういうわけでは。ただ……」
「ただ…?」
「私は社会に出てからずっとこの辺りに住んできたので、別の場所に引っ越してもいいかなって…」
「なるほど…。別の場所というとどのあたりをお考えですか?」
真摯に話を聞いてくれる大森さんに対して、私は妙に勢いづいて話し続けてしまう。
「これまで、地元の新潟とか筑波とか、ずっと郊外に住んできたんです。だから、1度くらいはもっと違ったところに住みたいような気がして…」
「つまり、都心に住まわれたい、ということでしょうか?」
「そう、都心です。都心に住みたいんです!」
大森さんの問いに対して食い気味に答えてみて、ハッとする。自分でも気づかぬうちに、私には都会暮らしへの憧れがあったようだ。
なんだか恥ずかしくなって大森さんの顔をちらりと見ると、彼は思いのほか、キラキラと目を輝かせていた。
「いいですね!今までの生活をガラッと変えるの、新しい人生って感じで。ぜひ、お手伝いさせてください!」
言うなり、彼はすぐに手元のPCに何やら打ち込んでいく。そして、瞬く間に数枚のチラシを印刷して見せてくれた。
「会社にも通いやすい小田急線沿線で考えると、成城学園前とか、代々木上原とかはどうでしょう。僕も住んでみたいくらいです!」
さっきまでの落ち着いた雰囲気とは打って変わって、テンションが高めな大森さん。「上原にはおススメのカフェがいっぱいあって」なんてウキウキしている。
「他にも良い感じの物件いろいろありそうなので…少々お待ちください!」
そうしてまた彼がPCに向き直った瞬間、膝にのせていたバッグの中でスマホが振動した。表示されていた通知をそっと確認して、私は息を呑む。
『瑞穂に会いたい。今夜、家に行っていい?』
2週間ぶりに来た、桂木さんからの連絡だった。
音沙汰のなかった桂木からの連絡。瑞穂の反応は…
― どうしよう…。
たった1行のそのメッセージに、心は強く揺さぶられた。
ついさっきまで、引っ越しをしようと心に決めていたのに。頭に浮かぶのは、町田のワンルームで過ごした、彼との甘くて濃密な日々だ。
2人掛けの小さなソファで、肩を寄せ合って映画を見たこと。コンパクトなキッチンで、彼のために様々な料理をつくったこと。
― あっ…。部屋、掃除してない。
ふと気づく。6年間ずっと、いつ彼が来ても良いように準備を欠かさなかったけれど、この1週間だけはそれをさぼっていた。部屋は荒れ放題で、とても彼を迎えられる状態じゃない。
居ても立ってもいられなくなり、大森さんに声をかけた。
「大森さん…ごめんなさい。私、急に用事が入ってしまって…」
「本当ですか?それは残念…またいつでもご案内しますから、その時は私の名刺の携帯番号にお電話くださいね!」
嫌な顔一つしない大森さんに、私は深々とお辞儀する。
転がるように店を出て、町田の自宅へ向かった。
「洗濯機回して、掃除機をかけて、それから…」
帰宅早々、ぶつぶつ言いながら部屋を片付け始める。
電車の中で、桂木さんには『16時以降なら大丈夫』と返していた。
それに対して彼から『楽しみ!じゃ、また後で』と軽いトーンの返信が来たことをきっかけに、LINEのラリーが続いた。2週間のブランクを感じさせない、いつも通りのやりとりだった。
― 元の関係に戻るかは、私、次第だよね。
とにかく今は、彼に早く会いたい。そんな気持ちで、私は休みなく部屋の片付けを続けた。
「あ、これ…」
不意に、黒い紙袋が目に入る。桂木さんからもらったイジィデはクローゼットに収まりきらなくて、袋の中に眠らせたまま、ソファの上に置きっぱなしにしていた。
2週間前の記憶が、一気にフラッシュバックする。
「33歳の誕生日までに結婚したい」という望みが砕け散った瞬間。
あの時の絶望を思い出し、胸がぎゅっと締め付けられた。
「とりあえずこれ、どこかに置かなきゃ」
ぐるりと部屋を見渡す。そして、改めて気づいた。
― ああ、なんだろう。どれもこれも…全然、私の趣味じゃない。
そこは、桂木さんのための空間だった。
濃いブラウンのソファは付き合ったばかりの時に購入したものだが、桂木さんの勧めで選んだ。それと色を合わせて、テレビボードや本棚も揃えた。本当は北欧テイストの明るい部屋が好みだけれど、彼が勧めるものはなんでも素直に受け入れてきた。
― この部屋、私の生き方を表してるなあ…。
友達がどんどん結婚していくなか、道ならぬ恋に費やした長い時間を否定したくなかった。だからこそ「結婚」という形で見返りを得たいと、彼にすがり付いてきた。幸せを彼に委ね、そのためにも愛されようと、食事の好みや服装のスタイルまで、必死で彼に合わせてきた。
その結果、何が残ったのか…。自分の年齢を考えたら、きちんと直視しなければならない。
― 彼と会うのは、もうやめよう。そして今度は新しい場所で、新しい人間関係をつくろう…33歳の誕生日までに、生活を立て直そう。
今度は、強く決意を固めた。スマホを手に取り、彼にLINEを送る。
『ごめん、やっぱりもう会えない』
既読がつく前に彼のアカウントをブロックし、大森さんの名刺を取り出して、電話をかける。
「先ほどはすみません。明日また、お店に伺ってもいいですか?代々木上原の物件を見たくて――」
土曜の午後。空はまだ明るい。
大森さんの「今からでもいいですよ!」という元気な声が、小さな部屋に響いていた。
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桂木の妻・静佳。彼女の悩みは…。