これは男と女の思惑が交差する、ある夜の物語だ。

デートの後、男の誘いに乗って一夜を共にした日。一方で、あえて抱かれなかった夜。

女たちはなぜ、その決断に至ったのだろうか。

実は男の前で“従順なフリ”をしていても、腹の底では全く別のことを考えているのだ。

彼女たちは今日も「こうやって口説かれ、抱かれたい…」と思いを巡らせていて…?

▶前回:モラハラ夫に耐えかねて、家を飛び出した30歳妻。1ヶ月後、自宅に戻った女が見てしまったモノは…




ケース15:20代の最後に、大きな決断をする女・椎名一葉(29歳)


「ほんまにごめん」

深夜3時。突然マンションの呼び出し音が鳴った。玄関を開けると、付き合って2年になる雄輔が息を切らして立っている。

「…子どもができたんだ」

― えっ。今、なんて言った?

いきなりの発言に驚き、思わず自分のお腹に手をやる。…私は妊娠などしていない。その様子を見ていた彼は、慌ててこう言った。

「別の子との間に、子どもができたんだ」

その瞬間、すべてを悟った。雄輔に二股されていたこと。そして、その彼女が妊娠してしまったこと。

いつもワックスで綺麗に整えられている彼のツーブロックが、汗のせいで崩れて、額にへばり付いている。

「もう、一葉には会われへん」

大好きだったはずの、雄輔の関西弁。それがやけにカッコ悪く聞こえた。

「…何言ってるか、わかんない。ちゃんと話して」

玄関に立ちつくす彼を部屋に連れ込もうと、グッと手を引いたそのとき。雄輔の背後に女の姿が見えた。

彼女はうつむくと、お腹に手をやる。そして彼に目配せし「先に降りてる」と言って、エレベーターホールに向かって歩き出した。

「そういうことやから。…ほんまごめんな」

そう言って私と目を合わせることもなく頭を下げると、雄輔は女を追いかけて走り去って行ったのだ。

追いかけることは、しなかった。あまりに突然の出来事で、状況を把握するのが精一杯だったから。

あれから3年。

出版社で文芸誌の編集者として働く私は、雄輔以上に好きになれる人が現れず、恋愛から遠ざかっていた。

そんな私のもとに、突然彼からメッセージが送られてきたのだ。


雄輔が突然送ってきた、メッセージの内容は…


ユウスケ:久しぶり。会いたいわ

ストレートなメッセージを見た瞬間、遠い彼方に追いやっていた記憶があふれ出してくる。…過去は美化されるとわかっているけど、あらがえなかった。

雄輔は間違いなく私の人生で、一番愛した男だったから。

おそるおそる返信を打つと、間髪入れずに電話が鳴る。

「…もしもし」

「一葉?まだ恵比寿に住んでるん?」

「あ、うん…」

「今日の夜行くわ。20時でいい?」

相槌しか打ってないのに、勝手に話が進んでゆく。まるで出会った日と同じようだった。

そして、その日の20時。恵比寿駅の東口にスーツ姿の雄輔が現れた。最悪な形で裏切られたはずなのに、私の心臓はバクバクと音を立てている。

「久しぶり一葉。マンションまで迎えに行ったのに」

「それが嫌だから、駅にしたの」

「…とりあえず、行こ!」

そう言って、彼が向かったのは『AELU&BRODO 〜EBISU〜』。2人並んでカウンター席に座り、シャンパンで乾杯する。

…これも、雄輔と出会った日と全く同じだった。



「一葉、もうずっと彼氏いないんでしょ?食事会行こうよ」

5年前、会社の同僚に誘われて参加した食事会。それが雄輔との出会いだった。

「一葉ちゃんは、何飲むん?」

私と同じ年で25歳だった彼は、大学進学を機に大阪から上京し、六本木にあるキー局のドラマ制作部で働いていた。

入社3年目にもかかわらず、深夜のヒットドラマを手掛ける雄輔の周りには、華やかな人たちが大勢いたのだ。そんな彼に声をかけてもらったのが嬉しくて、私の胸は高鳴った。

「えっと…。何にしようかな」

「じゃあ。俺と同じでいい?…泡2つ!」

優柔不断な私は、こうやって最初から雄輔のペースに飲み込まれていったのだ。

「一葉ちゃんの部屋行っていい?」

2人で初めて食事をした日もそうだった。お酒を飲んだ流れで、私は雄輔に抱かれたのである。

それからというもの、突然ホテルに呼び出され、部屋に入るなり体を求められることもしばしば。今思えば、付き合っていたのかさえわからない。

当時の雄輔は、いろんな女と関係を持っていた。そのたびに深く傷つき、もう会わないとLINEをブロックしたことも一度や二度ではない。

だけど毎回、彼はバラの花束を抱えて私のマンション前に現れた。そして「ごめん!」と謝り、地面に頭を押し付けて土下座するのだ。




そして部屋に入るなりベッドになだれ込み「愛してる」と耳元でささやいて、私を抱くのだった。そのせいで、何度も雄輔を許してしまったのだ。

なぜ私が毎回、彼を許してしまったのか。それは母からよく聞かされていた、ある話が原因だったと思う。

「お母さんが若い頃ね、別れるたびにバラの花束を持って、彼氏が謝りに来たの。深夜でもアパートのドアをドンドン叩いて土下座してくるから、最終的に仲直りして。情熱的な恋だったわ」

母は、そんな情熱的な父と結婚した。だから雄輔も私にとって運命の相手だと、そう信じていたのだ。

…しかしあの夜、彼は「子どもができた」と言って、私の前から消えた。



雄輔と出会ってからのことを思い返していた私は、ふと顔を上げた。目の前の彼は、2杯目のシャンパンを飲みながら、ポテトサラダを口に運んでいる。

私は、ずっと気になっていたことを尋ねた。

「ねえ雄輔。どうして突然、連絡なんかしてきたの?」

すると、彼は思わぬ言葉を口にしたのだ。


雄輔が放った、驚きの言葉とは


「子ども、できてなかったんだよね。嘘つかれてて」

「えっ…?」

「彼女とそういう関係やったんは、ほんまやけど。後から嘘だってわかって」

雄輔はまるで、何度も練習していたかのようによどみなく続けた。そしてゾッとするほど冷静な声で、こう言ったのだ。

「今からさ、一葉の部屋に行ってもいい?」

…その言葉を聞いて、彼と別れた後に母から聞いた“あの話”を再び思い出した。それは雄輔にフラれた年の暮れに、福岡にある実家へ帰省したときのこと。

「一葉、そろそろいい人いないの?帰省するなら、彼氏くらい連れてくればいいのに」

やたらと結婚を急かす母をかわしながら、私はこんなことを聞いたのだ。

「お母さんが若い頃にさ、別れるたびにバラの花束を持って謝りに来た彼って…」

「一葉、待って!」

すると母は私の言葉をさえぎって、辺りをキョロキョロと見渡す。そして父が別室にいるのを確認してから、声を潜めてこう言った。

「あれはお父さんとは別の人。あの人と結婚してたら大変なことになってたわ。…この話は、お父さんには秘密だからね♡」

母はニッコリ微笑むと「晩ご飯にしましょ」と言って、キッチンへ行ってしまった。

それまで私が父だと思い込んでいた、母の“情熱的な恋”の相手。なんとそれは、全くの別人だったのだ。




「ダメ、かな…?」

そう言って雄輔はジッとこちらの目を見つめながら、テーブルの上にのせられた私の左手を握っている。

一方の私は、母の言葉を思い出しながら、スーッと高ぶっていた感情が沈んでいくのを感じていた。

「ごめん。私はもう、雄輔に抱かれたくないの」

そう宣言し、あっけにとられてグラスを落としそうになっている彼を残して店を出た。そのままの勢いで雄輔のLINEをブロックし、月を見上げる。

かりそめの情熱的な恋に溺れ、受け身に生きてきた。そんな私が30代を目前にして、ようやく彼と決別できたのだ。

― さようなら、抱かれた夜。

自分の人生は、自分で決める。恋も仕事も、生き方も。

きっとここから、大人の恋が始められそうだと思った。

Fin.

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