6年間既婚男に費やした32歳女。彼から50万のプレゼントをもらい…
女にとって、33歳とは……。
32歳までの“20代の延長戦”が終わり、30代という現実に向き合い始める年齢だ。
結婚、キャリア、人間関係―
これは、33歳を意識する女たちが、それぞれの課題に向かって奮闘する2話完結の物語だ。
▶前回:「私の市場価値って、こんなもの?」年収750万・31歳女が、転職活動で突きつけられた現実
33歳までに“彼”がほしい女・杉下瑞穂(32歳)
金曜21時。大手食品メーカーの相模原研究所。
私以外の社員は、もう退社してしまったので、執務室には私しかいない。
昨年に同僚の1人が販売促進部に異動になったけれど、欠員補充されないせいで業務負荷は増えるばかりだ。1浪かつ大学院卒の私は、32歳といえども社会人7年目。
ベテランぞろいの研究所ではまだまだ下っ端で、次から次へと仕事が降ってくる日々だ。
今日も打ち合わせが立て込んだせいで、定時までにやろうと思っていた実験データの分析に手を付けられていなかった。だからこうして、遅くまで居残りしているというわけだ。
都心の高層ビル勤務なら、残業中に東京の夜景を見下ろして気分がアガッたりするのかもしれないけど。相模原の2階建ての研究所だと、せいぜい向かいにあるコンビニしか見えない。
でも、私はここで働くメリットも実感している。職場が都心から遠く離れた郊外の町だからといって、決して悪いことばかりではないのだ。
― そろそろ切り上げて、出ようかな。
うーんと1つ伸びをして、私用スマホを確認する。
“彼”から、連絡がきていた。
遅くまで残業した金曜夜、瑞穂が会いに行った相手は…
待ち人
相模原駅から横浜線に乗り、新横浜駅へ。
駅から5分ほど歩いた場所にある雑居ビルの地下、いつものバーに到着すると、“彼”がカウンター席で待っていた。
「遅くまでお疲れさま、瑞穂。大変だったね」
笑顔でそう言ってくれたのは、同じ相模原研究所で働く別の課の課長である桂木幸人さん。8歳上の、私の恋人だ。
「ごめんね、待たせちゃって。桂木さん、18時には退社してたでしょう?いったん家に帰ってたの?」
「いや、今日は一度帰ったら出られなさそうだったから…。この辺で軽く1杯飲んで、時間をつぶしてた」
彼は穏やかな表情を崩さないが、ごく自然に手元のグラスに視線を落とした。
家庭のことに言及するとき、彼は私への後ろめたさからか、少し気まずそうな態度をとる。おそらく今日は、彼の妻が在宅勤務でずっと家にいる日だったのだろう。
私たちと同じ会社で働く彼の妻は、品川本社の人事部に所属していて、研究所の働き方や人間関係に詳しくない。だからこの6年間、バレずに秘密の関係を続けることができた。
桂木さんと出会ったのは、この会社に新卒入社した6年前。
新潟の県立高校から1浪を経て新潟大学に進学し、筑波大の大学院を出た私は、26歳でやっと社会に出た。
最初の上司とは馬が合わず、毎日厳しく叱られては落ち込み、残業しながらこっそり泣くこともあった。そんな苦しい時期に優しく声をかけてくれたのが、当時は私と同じ課に所属していた桂木さんだった。
「杉下さん、大丈夫?あんまり抱え込みすぎないようにね」
角が立たないような言い方で上司に進言して私をフォローしてくれたり、残業後には頻繁に飲みに誘ってくれて、話を聞いてくれたりもした。
そんなことまでされて、好きになるなという方が無理な話だ。
彼に奥さんがいることは知っていたから、必死に恋心を押しとどめた。けれど彼の方も私のことを憎からず思っていたのか、誘われるがまま、次第に休日にも会うようになっていった。
青葉台で生まれ育ち、慶應の理工を出た桂木さんは、私がこれまでの人生で経験したことのない素敵なレストランや、おしゃれなカフェに連れて行ってくれた。新潟や筑波で付き合ってきた男性たちとは段違いに洗練されている桂木さんに、私は夢中になった。
― この人と、ずっと一緒にいたい。
2人で会うたびにその思いは強くなっていき、ほどなくして彼に導かれるように体を重ねた。その日から、私たちの関係は続いている。
そんな馴れ初めを回想しながら、バラライカを手に彼と乾杯した。
― 『奥さんとはうまくいってない』ってずっと言ってるけど…。結局、どうなってるんだろう。
内心そんなことを思う。
私は、桂木さんのことが大好きだ。できるなら奥さんと別れて、私を選んでほしいと思う。そう伝えたことは何度かあったが、その度に「俺もいつかはそうなりたいと思ってるよ」と返されるばかりで、具体的な進展は何もない。
「そうだ、瑞穂。先週末、誕生日だっただろう?おめでとう。これ、プレゼント」
モヤモヤと考え事をしていたが、彼の言葉で我に返った。
「あ…ありがとう」
ずしりと重たい大きな紙袋を手渡される。バーの中は照明が絞られていて、黒っぽいショッパーのロゴがよく確認できないまま、中に入っていたものを取り出した。
「えっ…。これって…」
プレゼントを開けてみて、驚く瑞穂。中に入っていたのは…
暗がりでまばゆいばかりに輝くのは、ヴァレクストラのイジィデ。しかも欲しいと思っていた、白のミディアムサイズのものだった。
ブランドロゴが入っていない、シンプルで高級感のあるデザイン。スタイリッシュで無駄のないフォルムに、なめらかなコバの輝き。どれを取っても美しく、うっとりしてしまう。
「すごい…!どうして私が欲しがってるってわかったの?」
「そりゃあ、長い付き合いだからね。瑞穂の欲しいものくらい、なんだってわかるさ」
私の様子を見て、桂木さんは満足そうに唇の端を持ち上げる。その顔を見て、はしゃいでいた気持ちがほんの少しだけ落ち着いた。
― 欲しいものくらい、なんだってわかる、かぁ…。
なんとも言えない気持ちで、膝の上のバッグに視線を落とす。
たしかに、イジィデのミディアムは、次のボーナスで買おうかなって思ってた。値段は50万円くらいだから、別にボーナスを待たなくても、その気になれば今すぐにだって自分で買える。
桂木さんと出会った新入社員のころは、住宅補助を含めても手取り20万円を切る収入で、ハイブランドを買うなんて夢のまた夢だった。
そんな私に、桂木さんはことあるごとにプレゼントを贈ってくれた。
最初にもらったのは、ダイヤがついたティファニーのTリング。
道ならぬ関係への罪悪感から涙ながらに別れを申し出た時、ブルーの箱から指輪を取り出して、左手の薬指にはめてくれたのを覚えている。
「妻とはちゃんと話すから、もう少しだけ待っていて」
高価な贈り物にそんな言葉を添えられたら、「私は大事にされている」とつい考えてしまう。その後も、自分では簡単に買えないくらいのプレゼントを彼はよくくれた。
― でも…。この年になってようやくわかった。値段のついているものって、収入さえ上がれば手に入るのよね。
イジィデだろうがシャネルのマトラッセだろうが、その気になればエルメスのバーキンでさえも。自分で手に入れることはできるのだ。
だから、私はお金で手に入らないものが欲しい。
「ねえ、桂木さん。私ね、来年の33歳の誕生日には…あなたが欲しいの。あなたと結婚したい」
桂木さんの表情から、すっと笑みが消える。
2人の間に、長い長い沈黙が流れた。
◆
「ただいま…あー、寒っ…。なに、この部屋」
町田の自宅に帰った瞬間、独り言がこぼれる。
駅徒歩6分、8万5千円のマンションには、社会人1年目の時から住んでいる。相模原勤務者への住宅補助は4万円しか出ないから、初任給でも払えるレベルの物件を選んだ。
「33歳の誕生日までに結婚したい」という要望に対して、桂木さんは小さな声で「ごめん、約束できない」とつぶやいた。そして、あろうことかこう言ったのだ。
「僕を待つのが辛ければ、他の男と結婚してくれて良い。瑞穂が幸せになることが一番大事だから」
いつものように「もう少しだけ待っていて」と言われるのか、はたまた「1年後までに妻と別れる」と約束してくれるかと思ったのに…。
期限を切った瞬間、急に態度を変えた彼に、心底ガッカリした。
「はぁ、とりあえずコレ、しまっとこうかな…」
クローゼットを開き、天井近くの棚にバッグを置こうと腕を伸ばした。
瞬間、手が止まる。
棚の上は、桂木さんからのプレゼントでいっぱいだった。もう、バッグ1つ置く場所さえない。
クローゼットだけじゃない。洗面台には彼の整髪料、お風呂場には彼が好きなAesopのシャンプー。テレビボードの収納には、彼用の部屋着。この部屋には、彼との思い出が詰まっている。
いつか彼と結婚できると信じていた。
だから、収入が上がってもこの部屋をあえて動かなかった。武蔵小杉に暮らす彼からすると、町田は職場から自宅までの通り道。家庭でうまくいっていない彼にとって安らげる場所になればと、いつも居心地よく整えて彼を待ち、終電で帰っていく彼の背中を見送ってきた。
でも、そんな生活を終わりにしたいと、今日は本気で思った。
「引っ越し、したいな…」
薄暗い部屋にへたりこみ、ぽつりとつぶやく。
収まりどころをなくした腕の中のバッグを、そっと抱きしめた。
▶前回:「私の市場価値って、こんなもの?」年収750万・31歳女が、転職活動で突きつけられた現実
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長い恋愛が終わり、引っ越しを決意する瑞穂だったが…