「変わってやる!」

そう思った瞬間から、人生はアップデートされていく。

10年前の恋愛の傷から、着飾ることをやめノーメイクで生きてきた春野菜月(29)。

そんな彼女が、変わることを決意したら―?




土曜の夜22時。

一人暮らしの部屋に、春野菜月(29)の悔しそうな声が響いた。

「一体なんだったの、あの男!失礼すぎるから!」

顔をしかめながら思い返していたのは、つい3時間前の出来事だ。



東京駅から歩いてすぐの距離にある、イタリアンバル。

カルボナーラが有名なそのお店で、菜月は友人の茜と恭一と食事をしていた。

茜と恭一は、大学時代からの親友。出身大学は違うが、同時期にロンドンに留学をしていて、現地で意気投合した仲間だ。

同じ寮に滞在していたため、当時は毎晩のようにフリースペースに集まっていた。

留学からはもう10年が経つが、今も2ヶ月に1回は理由をつけて、こうして3人で集まっているのだった。

ふたりといると、心が落ち着く。菜月にとっては、唯一無二の仲間だ。

乾杯するやいなや、「男探し」をしている茜が、いつものように近況を話し始めた。

「聞いて!先週ね、この人とお台場デートしたの」

男性の写真を見せて明るく笑う茜は、相変わらず綺麗。明るい色の巻き髪がよく似合っている。

「茜はあいかわらず楽しそうね。恋愛っていいねえ」

菜月がレモネードに口をつけて微笑むと、茜は不服そうに口をとがらせた。

「菜月。またそんな他人事みたいに言って!」

茜は菜月の全身をまじまじと見て、ため息をつく。

「いつも言ってるけど、菜月みたいな原石がすっぴんメガネでいるなんて、本当にもったいないわ」

そして、明後日の方向を見て、怒ったように言うのだった。

「アイツさえいなければ、菜月はモテモテの人生のはずだったのに」

「アイツ」。そう言われて3人が頭に思い浮かべたのは、同じ男…。

10年前に菜月をふさぎこませた男・トニーだ。


菜月の心に刻まれた、悲しい過去とは…


それは、菜月たちが留学していた10年前こと。

留学先で出会った現地人の恋人・トニーは、菜月にとって初めての男性。心の底から、大好きで大好きで仕方なかった。

その日菜月は、半年近く一緒に過ごしているトニーという英国人男性と手をつないで歩いていた。映画デートの帰り道だった。

「ねえトニー。この後は、どうする?」

菜月が甘えた声で言う。すると彼は、突然立ち止まって肩をすくめた。

「ああ、菜月。君に言わなきゃならないことがある」

「なに?」

「…残念なんだけれど、もうこれっきりにしよう。…彼女に、ものすごく怒られちゃったんだ」

菜月は耳を疑う。

「…ん?彼女?」

そう聞き返すとトニーは、菜月が英語を聞き取れなかったと思ったようで、やたらとゆっくりと同じ言葉を繰り返した。

「…そんなのひどい」

「ごめん、悪かったよ」

― 半年間すべてを捧げたのに、私はトニーの浮気相手に過ぎなかった。何も気づかず、まっすぐに信じていたのに…。

寮に戻る気になれず、ひとり敗北感にまみれながらビッグ・ベンを見上げる。霧の中でほんのりと輝く文字盤を見ながら、菜月は思った。




― 彼女さん…どんな人なんだろう…。

どうしても見てみたくなってしまった菜月はその晩、半泣きのままトニーの家の近くまで歩いた。玄関ドアが見える場所で、腰を下ろす。

30分ほど経っても誰も来ない。もう帰ろうか…。そう思ったとき、トニーが女性と腕を組んで歩いてきたのだ。

思わず凝視したその女性は、とても素朴な人だった。

そばかすも、乱れた髪もそのままで、どこにでも売っていそうなシンプルなフリースを着ている。

― なんで?どうしてあの人の方がいいの…?

正直、自分の方が数段綺麗だと思った。

「私、こんなに着飾ってきたのに…」

トニーに出会ってから必死で勉強したメイクも、服も、すべて無意味だったわけだ。

可愛くなるために費やした労力も、時間も、ムダ。

すべてがむなしく感じた。

― 恋愛って怖いや。…裏切らないのは、夢だけだわ。それなら、私は夢を追おう。恋愛なんてもうしない。通訳者になって、絶対に活躍しよう。

そう決心したのだった。

あれから10年。

菜月は今、本当に通訳として活躍している。恋愛なんてなくても、幸せに生きてこられた。誰からも傷つけられることなく、幸せに――。

…そのはずだったのに。



平和に生きてきた菜月に衝撃的なことが起きたのは、3人でイタリアンバルでの食事を楽しんだ、その帰り際のことだった。

トイレに行くと言って席を立った茜が、なかなか戻ってこない。

「ねえ菜月。茜、ちょっと遅くない?女子トイレ見にいける?」

恭一に言われ、菜月は席を立ちトイレに向かった。するとトイレのすぐ横で、茜が見知らぬ男に絡まれているのを発見したのだ。


茜に絡んでいる男が、とんでもない発言をする


早足で近づくと、2人の会話が聞こえてくる。酔った様子の男は菜月に、「また食事会やろうよ」と言っていた。

― なんだ、茜の知り合いか。茜は顔が広いなあ。

茜はコロナ前、連日のように食事会をしていた。その結果、やたらと知り合いが多い。

ホッとして引き返そうとしたその時、「なに?知り合い?」という男の声が、背後で響いたのを感じた。

振り返ると、茜がこちらに手を振っている。

「ごめん、菜月!戻るの遅いから見にきてくれたんでしょう?」

「うん。でも知り合いならよかった!恭一のとこ戻るね」

すると様子を見ていた男が突然、ニヤリとしながら言ったのだ。

「え、君…茜ちゃんの友達?なんか全然タイプ違うね?」

男の冷やかすような視線が、自分に注がれている。

「なに?菜月は私の親友ですけど?」

茜がにらみながら言うと、男は鼻で笑った。

「親友?嘘でしょ。だいぶ年上に見えるし」

茜が「信じられない」という様子で男の顔を見ても、男はヘラヘラと笑っていた。そして言ったのだ。

「じゃあ茜ちゃん、食事会やろうね。あ、その人みたいなのじゃなくて、ちゃんと『女の子』連れてきてね」

怒った茜はそのままお会計を済ませ、恭一を連れて店を飛び出した。

店を出た後に話を聞いた恭一は、「は?どんな男だよ」と憤慨している。

「2人とも、いいのよ。あんなチャラそうな酔っ払い男に何を言われても、私は全然気にならないから」

…そう言って、笑い飛ばしたはずなのに。

田園都市線に乗って、自宅の最寄り駅の二子玉川で降りる。ホームを歩きながら、菜月はいつもより地面を見て歩いている自分に気づいた。

そのままとぼとぼと歩き、自宅マンションのオートロックを解錠する。

男からは見向きもされない人生になったけれど、菜月は見事通訳者になった。28歳になるタイミングでフリーの通訳者として独立もできた。

それで自分は幸せだと、ずっと思ってきたのに。

「ちゃんと『女の子』連れてきてね」という男の声が、鋭いナイフのように心臓に刺さっていた。




鏡を手に取り、自分の顔を凝視する。

「…まあ確かに、パッとはしないけれど。でも女の子ではあるもん」

小さくため息をついた後、菜月はメガネを外した。そして屈んで、洗面台の下の引き出しを開ける。

引っ張り出したのは、メイクポーチだ。

悔しさに顔をしかめながら、ファンデーションのチューブの蓋をクルリと回した。手のひらに、明るい肌色のペーストを乗せる。

「…なんか固まってる」

思わず苦笑いをした。随分使っていないせいで、出し始めの部分が干からびていたのだ。

ファンデーションを塗ったのは、去年の夏、友人の結婚式に出席したときが最後だ。

ベースメイクから目元口元まで、時間をかけてメイクを施す。こんなに隅々までメイクアップしたのは、トニーと一緒にいた頃以来だった。

「…あれ?」

鏡を見て、菜月は目を丸くした。

― なんか…思ったより全然いいかも。

今の菜月は、はっとするくらい綺麗だった。

トニーといた頃より、ずっと――。

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