外食が思うようにできなかった、2021年。

外で自由に食事ができる素晴らしさを、改めてかみ締める機会が多かったのではないだろうか。

レストランを予約してその予定を書き込むとき、私たちの心は一気に華やぐ。

なぜならその瞬間、あなただけの大切なストーリーが始まるから。

これは東京のレストランを舞台にした、大人の男女のストーリー。

▶前回:平日1時間しか会えない彼氏を待ち続け…。一途な女が迎えた、予想外の結末




Vol.6  めぐみ(34歳)最後の晩餐


「めぐみさん、この度は本当にすみませんでした」

外苑前のカフェで私の目の前にいる、七海という女が深々と頭を下げて謝罪してきた。

外側に巻かれたサイドバングが彼女の頬を隠す。ミルクティー色の髪。このハイトーンを出すには、2回以上ブリーチをしているはずだ。ダメージを気にせず好きな色に染められるのは、24歳という若さゆえなのだろう。

後先考えず、欲望のままに行動してしまう愚かな女によく似合っている。

カフェの外では数組が席が空くのを待っているようだ。ザワザワしていて落ち着かない。

― 夫の浮気相手に会うにしては、騒がしすぎたかな。

そう思ったが、仕方がない。

この女に会う前に、近くの『川上庵』でお蕎麦を食べたかったのだ。クルミだれで、どうしても。

好きなものを口にしてからだと、毅然とした態度で臨める気がした。だから、川上庵から近い、このカフェを七海と対面する場所に選んだのだ。

「……慰謝料として200万を払えば、職場にも親にも言わないでいてくれるんですよね」

七海が念を押して尋ねてくる。

「ええ。約束どおりに」

「よかった。ありがとうございます」

七海は、安堵からか泣きそうな顔をしながら、私が渡した口座番号が書かれたメモを見ながらスマホで振り込み作業を始めた。

ネイリストの彼女の長い爪には、細かなラメがぎっしりと塗られており、私の好みとは真逆だ。


夫婦円満だったにもかかわらず、夫が浮気してしまったワケは?


「今、振込完了しました」

七海の言葉で、私はスマホでネットバンキングを開く。

「入金確認できたわ」

そう言ったあと、私は、椅子に置かれた七海のバッグに視線を向けて言葉を続けた。

「そのピンクのカプシーヌは返せとは言わないから、安心して」

生地がペラペラの安物のワンピースとあまりに不釣り合いなそれは、ルイ・ヴィトンが好きな夫・雅志からのプレゼントだろう。

「すみません…」

彼女はうつむいたまま気まずそうに答える。

弁護士を通さずに、夫の浮気相手と決着したのは正しかったのか…。200万円という金額は、不倫の代償として妥当だったのか…。

正解は、わからなかったが、私はこの方法を選んだ。

夫の浮気を知ったとき、私の怒りは、相手の女へ向いた。だから、私は七海と直接連絡を取り、その罪の重さを反省させるべく慰謝料を請求することにしたのだ。

「じゃ、失礼するわ」

私が千円札を置いて立ち上がると、飲み残したコーヒーの表面がかすかに揺れた。

外に出ると、イチョウが綺麗に色づき始めていることに初めて気がついた。






結婚して3年が経った今年の初め、私は勤めていたPR会社を辞め、思い切って専業主婦になった。

経営者である夫・雅志をサポートし頼りにする姿勢を見せることで、男の本能をくすぐり、仕事が上手くいけば、と思ったのだ。

そのおかげかはわからないが、夫が経営するシステム開発会社は順調に事業を拡大し利益は右肩上がりとなる。

精神的にも余裕が生まれ、そろそろ子どもを作ろうかという話も出ていた矢先。雅志は、急にお金を持った男の典型のごとく、私より10歳も若い女・七海と関係をもったのだ。

彼のスマホにポップアップで表示された“七海”という女性からのメッセージで、その事実は発覚した。

しかも『今度はシラフでしよ。笑』という生々しく気持ち悪いメッセージ…。

「隠し事はしたくないし、めぐを心配させたくないから、俺のスマホはいつでも見ていいからね」と結婚前から言われていたが、実際に見たことはなかった。

でも、そのメッセージを見た瞬間、黒い感情に襲われて彼のスマホにパスワードを入れてロックを解除し、浮気の証拠を突き止めたのだ。夫と七海は、マッチングアプリを通じて夏に出会った。関係をもったのは、2回。

深い関係ではなく、お互い相当酔っていたと夫は弁明していたが、私は許せなかった。

夫にも500万円の慰謝料を一括で支払わせ、離婚を言い渡した。




「めぐはワインのペアリングにしたら?俺は、とりあえずビール」

それから1ヶ月後の2021年12月。

雅志と、西麻布の『AZUR et MASA UEKI』に来ていた。

ここは、恋人になって初めての私の誕生日を祝ってもらった場所。そして、彼と夫婦になってからも、事あるごとに訪れるフレンチレストランだ。

でも、2人で食事をするのはこれで最後になるだろう。

なぜなら、雅志に書かせた離婚届を私が持っていて、明日にでも区役所に出しに行こうと思っているから。

夫婦の最後のディナーをせめて思い出にしようという、私の優しさだ。

クリスマス前ということもあって、店内の雰囲気は上品でしっとりしている。

「フレンチでも1杯目は必ずビールなの、雅志は相変わらずだよね」

私が嫌味っぽく言うと「シャンパンが苦手な人もいるんです〜」と夫がおどけた口調で答える。

言い訳も反論もすることなく、離婚に合意をした雅志。彼は今、精一杯重い空気を出さないように努めているように見えた。




私は、“秋止符、冬の訪れ”とタイトルがつけられたクレープ状の前菜を手で口に運び、香箱蟹を堪能した。

そのまま冷えたシャンパーニュを喉に流し、視線を他のテーブルへ向ける。

年配の夫婦や、付き合いたてのような初々しいカップルは皆幸せそうに見える。

私たちも側から見れば、何も問題ない夫婦に映るのだろう。でも、明日離婚届を出し、年が明ければ別々に暮らすことになる。


最後の晩餐がスタートしたが、意外な展開に…


「もうあなたのイビキに悩まされることもないから、生活の質が格段に上がりそうだわ」

2杯目に出されたオーストリア ヴァッハウの白ワインを一口飲むと、私はわざとにっこり微笑みながら言った。

「そうだね」

雅志は、バツの悪そうな表情で答えた。

しばらく無言で食事をしていると、フォアグラ、車海老、カカオのスペシャリテが運ばれてくる。




チョコレートのようなソースと、車海老、フォアグラは絶妙にマッチしていて、不思議な感覚に陥る。

「おいしい」
「ねっ。本当、うまいわ」

フレンチが苦手な雅志が唯一、時々行きたがるお店なのもうなずける。

「車海老とカカオがこんなに合うって不思議だよな…。なんだか出会った頃の俺たちみたいじゃない?」

― は?

雅志がしんみりと言うので驚く。

自分の過ちのせいで、順風満帆だった私たちの結婚生活が終わるというのに、まるで円満離婚のような口ぶり。

この男は何を考えているのだろうか。

「ほら。めぐは昔から清楚で女優さん風なのに、俺は下品で昔ヤンチャしてたのがバレバレだろ?だから合わなそうなんだけど、そうでもない。みたいな?」

そう言って笑ってから、雅志はビールを美味しそうに飲んだ。

私は答えることなく、ワインを飲みながら鼻で笑ってやった。

だって、別に清楚だったわけではないのだ。

ダークトーンの髪色の方が綺麗な肌がより映えるし、軽く見られることから避けられる。ナチュラルメイクで勝負できる顔の造りと肌だから、濃い化粧は昔から不必要だっただけ。




それよりも、私は、雅志に初めて会ったとき、目鼻立ちがハッキリしているし、どこか危なっかしいセクシーさを漂わせていて、かっこいい人だなって思った。

でも、私を一途に思ってくれて大事にしてくれるギャップが好きだった。

不倫なんて、頭の悪い浅はかなやつがすることだと言っていたのに。そんなことしたら、離婚することになると予測できただろうに、それでも抱きたいくらい魅力的な人だったのだろうか。

― ねぇ、私を裏切ってるとき、どんな気持ちだった?

思わず口にしそうになった言葉をワインで流し込み、ぐっと堪えた。どんな返事が返ってきても、イライラしてケンカになってしまいそうだったから。

「めぐ、傷つけてしまって本当に悪かった。新しい仕事見つかるまで、生活は保証するからね」

雅志が、メインのお肉に手をつける前につぶやく。

きっと、夫はまだ私のことが好きだ。それは見ていればわかるし、魔がさして若い子と遊んでしまったことをものすごく後悔しているのだろう。

でも、浮気を絶対に許したくない私のプライドも、わかっているはずだ。だから、離婚することをすんなりと受け入れてくれたのだろう。

だけど……少しはすがってほしかった。

別れたくないと、やり直すチャンスをくれと言ってほしかったし、心のどこかでそれを期待していた。



その後、とくに会話を交わさないまま、食事は進んだ。

甘さ控えめな栗のデザートを食べ終わり、オリジナルのハーブティーもすでに2杯飲みきっている。

「楽しかったよ」

「えっ?」

「雅志との結婚生活、すごく楽しかった」

雅志は、今までで一番悲しそうな顔をした。それを見て、ようやく決心がついた。

「だから…離婚は保留にしてあげてもいいよ」

私は直前まで迷っていた言葉を口にすると、雅志は今まで見たことない笑顔で何度もうなずいた。





▶前回:平日1時間しか会えない彼氏を待ち続け…。一途な女が迎えた、予想外の結末