これは男と女の思惑が交差する、ある夜の物語だ。

デートの後、男の誘いに乗って一夜を共にした日。一方で、あえて抱かれなかった夜。

女たちはなぜ、その決断に至ったのだろうか。

実は男の前で“従順なフリ”をしていても、腹の底では全く別のことを考えているのだ。

彼女たちは今日も「こうやって口説かれ、抱かれたい…」と思いを巡らせていて…?

▶前回:「あなたにどうしても会いたくて…」と、DMで男に迫る30歳美女。腹の底で企んでいたコトとは




ケース13:究極の愛を探し求める女・永瀬希子(22歳)


「どうして返信してくれないの…!?」

敏郎さんが消えたのは、冷たい雨が降りしきる土曜の朝だった。

おかしいなと気づいたのは、いつもならすぐメッセージを返してくれるはずの彼が、LINEを未読無視してきたから。

「今から部屋に行くね」と送ったにもかかわらず、3時間も既読がつかなかったのだ。なんだか嫌な予感がした私は急いでコートを羽織り、東急目黒線に乗り込んだ。

時刻は朝の8時。普段はサラリーマンでごった返すこの路線も、土曜日の今日は空いている。

目黒駅に着くと西口を出て、権之助坂の方へ向かって歩いた。飲食店が立ち並ぶゆるやかな坂の先に、敏郎さんの住むデザイナーズマンションがあるのだ。

「ハァ、寒い…」

どうやら今年最大の寒波が押し寄せているらしい。横殴りの雨はいつの間にか雪に変わり、ブーツの中はじっとりと濡れてしまっている。

マンションのエントランスに着くと、敏郎さんの部屋番号である602を押した。しかし何度呼んでも、彼からの応答はない。私は次に601号室を呼び出した。

「…はい」

「朝からすみません。602号室のものですが、部屋に鍵を忘れて締め出されちゃって」

「あぁ、わかりました」

気だるげな女性の声とともに、オートロックが解除される。

私はエレベーターホールを抜けて部屋の前まで行くと、かじかむ指先で玄関の呼び鈴を鳴らした。…しかし、ここでも応答はなかったのだ。

― 敏郎さん、いつからマンションに戻ってないのかしら。

そこで私はマンションを出ると、裏口にある郵便受けを見てみることにした。

「えっ!?ウソでしょ…」


郵便受けの前で、女が見てしまったモノとは…?


敏郎さんの住んでいた602号室のポストには、なんとテープが張られていて、郵便物が受け取れないようになっていたのだ。

「いつの間に引っ越しちゃったの…?」

私はショックのあまりその場にヘナヘナと座り込み、立てなくなったのだった。



「あの…。もしかして、作家の木崎敏郎さんですか?」

彼と出会ったのは、今から3ヶ月前。

目黒駅前にあるカフェで、コーヒーを読みながら原稿に目を通す敏郎さんに、おそるおそる声をかけたのは私のほうだった。

彼は私より7つ上の29歳で、今後を期待されているミステリー作家。大学で推理小説研究会に所属していた私は、書評を書くほど彼のファンだった。

だから窓に映っていた横顔だけで、すぐに“木崎敏郎”だとわかったのだ。

「先日、木崎さんの新刊『究極の愛』読みました。よかったです」

私の声に、敏郎さんはゆっくりと原稿から顔を上げた。切れ長の一重まぶた。目の下には、大きなクマができている。

「…ありがとう。君、僕の読者にしては若いね」

リクルートスーツに身を包んだ私を見ると、彼はニッコリと微笑んだ。

「就活中の大学3年生です。もしかしてそれ、次回作ですか?」

赤字がたくさん入った原稿に目をやると、敏郎さんは「そうだよ」と小さく頷く。

「私、あそこのビルで15時から一次面接なんです。それまで少しお話しできませんか?」

「あぁ、いいよ。きっと君は僕のファン最年少だからね」

彼はそう言うと、原稿の傍らにあった空のコーヒーカップをよけて、私を招き入れた。

それから面接までの1時間は、まるで夢のような時間だった。高校時代からずっと読んでいた本の作家が目の前にいたのだから。

彼の新刊『究極の愛』には、40歳を超えてもなお夢を追いかける憎めない男と、その男を篭絡するファム・ファタール的な女が登場する。

女は主人公に会うとき、決まってヴァレンティノのコートを着ていた。

敏郎さんは29歳だけれど、無精ひげを生やした口元のせいか40歳前後に見える。そして彼から発せられる繊細な言葉の数々は、まさに小説の登場人物そのものだった。

「君は珍しいよ。僕の読者のほとんどが40代以上の男性なのに」

そう言って笑う彼は、以前見かけた写真より何十倍もカッコよかった。私はたった1時間で、敏郎さんが生み出す作品だけでなく、彼のことが大好きになってしまったのだ。

「また、お話しできませんか?」

「もちろん。次の短編は、若者向けのミステリーにしようと思ってるんだ。君の就活、取材させてよ」

こうして連絡先を交換し、カフェで度々会うことになった。

私の第一志望は、目黒駅前にある大手ECサイトを運営する会社。面接が進むたびに、そのオフィス近くにあるカフェへ集合し、何度も話をした。

そして内定を貰ったその日に、彼は『レストラン ラッセ』へ連れて行ってくれたのだ。




白ワインを1本あけたところで、私は酔い潰れてしまった。…というのは嘘で、酔い潰れたフリをした。

「敏郎さん。もう私、立てません…」

そう言って、彼の胸に顔をうずめた。作家だろうが、所詮はただの男。22歳の女子大生に誘われて断る人はいないだろう。

このテクニックは、敏郎さんの小説から学んだ。彼の小説に登場するファム・ファタールは、こうやって男を篭絡するのだ。

私は敏郎さんにもたれかかるようにして権之助坂を上り、彼のマンションで一夜を過ごした。私が男性に抱かれたのは、この日が初めてだったのだが。

それから私は、頻繁に敏郎さんへ連絡するようになった。たまに連絡がつかないときは、彼の編集担当にメールをして状況を伺うことも。

不規則な生活をしている敏郎さんが、心配だったのだ。

― 私は作家の恋人として、しっかり彼を支えなきゃ。

徹夜続きの彼のため、料理を作ってマンションに持っていくこともあった。留守のときは、別の部屋のベルを鳴らしてオートロックを開けてもらい、玄関のドアノブにかけて帰ることもあったけれど。

…そんな矢先に、彼が消えたのだ。



私は、敏郎さんと出会った日からの出来事を思い出しながら、雨に打たれていた。

そのとき。背後からいきなり声がしたのだ。

「えっ、君…」


背後から、いきなり声をかけてきた相手とは…?


振り返ると、そこには敏郎さんが立っていたのだ。そして彼の隣には、なぜか1人の女が寄り添っていて、こちらを不安そうな顔で見ている。

「何度LINEしても返事ないから、心配になって来ちゃった。…部屋、引っ越したの?」

すると彼は鍵を握りしめながら「そう、引っ越すことにしたんだ。今日は引き渡しの日」と言った。

「何も言わずにどうして?私、毎日敏郎さんのこと…」

「まずい、行こう」

彼は私の言葉を遮るように叫ぶと、隣にいる女の手を取り、一目散に走り出した。

一緒になって駆け出した女は、ヴァレンティノのコートを着ている。…私は彼女を知っていた。敏郎さんの小説に登場する、あの悪女だ。

「ねぇ、敏郎さん!その女、悪女だよ!」

そんな叫びも届かず、2人は雨の中に消えていった。そして私は、マンションの前で警察官に取り押さえられてしまったのである。



「…というのが、私と敏郎さんの出会い。そしてこれまでの流れです。あの女は悪女だと、彼に伝えていただけませんか?」

私の言葉を、眼鏡をかけた中年女性がガラス越しに聞いている。私が勾留されてすぐ、両親はやり手の女性弁護士を雇ってくれた。

「あなたは本当に、木崎敏郎さんとお付き合いをされていたのですか?」

「はい、彼とは真剣に付き合っていました」

弁護士は深く息をつくと、私に1冊の文芸誌を手渡した。

「あとでゆっくり読んでもらうとして…。付箋が貼ってあるところ、読んでみて」

それは敏郎さんが寄稿した、短編小説だった。




主人公は、真面目で冴えない就活中の女子大生。彼女が男の部屋に無理やり上がりこむ描写があったが、男は女をベッドに寝かせ、自分はソファで寝たと書いてある。

その後も女子大生からの一方的な愛に、男が苦しめられるという物語のようだった。

「あなたの話とそっくりですよね。これ、どこまでが本当の話ですか?木崎さんは、あなたと恋愛関係になったことはない、と証言しているようなんですが」

冷たい目でこちらを見据える弁護士にイラだち、私は目を見開いて叫んだ。

「私は彼に抱かれたんです!」

興奮して立ち上がった拍子に、バサリと足元に文芸誌が落ちる。

表紙には『木崎敏郎、初のノンフィクション小説。ストーカー』と印刷されていたのだった。

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