あふれた水は、戻らない。割れたガラスは、戻らない。

それならば、壊れた心は?

最愛の夫が犯した、一夜限りの過ち。そして、幸せを取り戻すと決めた妻。

夫婦は信頼を回復し、関係を再構築することができるのだろうか。

◆これまでのあらすじ

夫の孝之が、秘書の木村と浮気したことを知った美郷。娘のために再構築に挑むものの、嫌悪感は深まるばかり。

ついには夫の方から浮気を疑われてしまい、ショックを受ける。しかし、男友達の最上に背中を押され、美郷は夫と話し合うことにしたのだった。

▶前回:深夜のオフィスで男友達と2人きり。夫の浮気を相談していたら、急に彼の体が近づいてきて…




南向きの大きな窓から、ダイニングテーブルに朝の日差しが降り注ぐ。

陽光はいつの間にか、ほんの少しだけ春らしい柔らかさを帯びてきたようだ。

穏やかな土曜日。朝食を終えた絵麻は、ピアノのコンクールも近いため早々にレッスンに出かけてしまっている。

夫婦2人きりになったリビングで、私は孝之の正面に座り声をかけた。

「じゃあ、書こうか」

「ああ」

手元の封筒を開けて中から紙を取り出す。緑色の枠に彩られた、薄っぺらな書類。

それはこれまで、私たち夫婦にはまったく関係ないと思い込んでいたもの。

そう、離婚届だ。


離婚届に記入するふたり…。その結論に至った理由とは


証人の欄にはすでに私の両親の名前が記入され、判が押されている。白紙の離婚届をニセコに送り、あらかじめ記入を済ませてもらったのだ。

初めは孝之の両親に頼もうとしたものの、義母が強く反発したため、事情を話して実両親に頼むことになった。

「木村さんはもう、地元の仙台で新しい人とお付き合いしているらしいわよ。それなのにいつまでも済んだことをグダグダと…。忘れてしまいなさいと言ったでしょう!」

義母はそう私を責めるけれど、木村さんが今どうしているかは私には関係のないことだった。

これは、私と孝之が決めたこと。

夫婦で決意した、他人が入る余地のない2人だけのけじめなのだから。






もう、1ヶ月も前のことになる。

最上くんに背中を押してもらって、孝之と話し合うことを決意した結婚記念日のあの夜。

部屋のドアを開けた私が目にしたのは、想像もしない光景だった。

ベッドの隅に、孝之が座っていた。そして、小さな子どものように背を丸め、静かに涙を流し続けていたのだ。

私が戻ってきたことに気がついた孝之は、信じられない奇跡が起こったかのようにじっとこちらを見つめる。そして慌てて涙を拭くと、絞り出すような声で言った。

「美郷、ごめん…ごめん…。俺、自分が恥ずかしい…」

もう何度も耳にした孝之の謝罪。リビングで受けた2回の土下座が思い出された。

あの時の私は、とにかくショックで、辛くて…。土下座をパフォーマンスだと決めつけ、怒りと屈辱に任せてバカラグラスを投げつけたのだ。

けれど、こうして誰もいない部屋でみっともなく泣き続けていた姿が、パフォーマンスであるわけもない。

私は無言のまま孝之の隣に腰を下ろすと、じっと耳を傾けた。…ついさっき、最上くんが私にそうしてくれたみたいに。

「俺、美郷を疑うところまで落ちぶれてしまった。自分が一度浮気をしてしまったことで、自分も、美郷も、何もかも信じられなくなったんだ。

美郷のことを愛してるのに、魔がさして…。浮気したのは俺なのに…最低なことを言ってしまって…」

ぽつりぽつりと話し始めた孝之の言い分は、やっぱり、身勝手に感じる部分もあった。

魔がさした。

他人事のような、無責任な言葉。

けれど、先ほどほんの一瞬でも最上くんに身を委ねてしまいそうになった私は、もうこれ以上孝之を責める気持ちにはなれなかった。

涙を流しながら話し続ける孝之のそばで、ひたすら彼の懺悔を受け止め続ける。

彼がすべてを吐き出し終わると、私は静かに話し始めた。

「孝之…」


ついに口を開いた美郷が、夫に向かって放った言葉は


私は孝之の背中に手を回して、大切な宝物を愛でるように言った。

「孝之…。大好きだよ、愛してる」

決して私と目を合わさずに、自分のつま先をじっと見つめていた孝之が、真っ赤にした目を見開いて私を見上げる。

そんな孝之に、私は何度でも伝え続けた。

「愛してる。ずっと昔から、孝之は私の大切な人だよ。だからこそ、裏切られた時はすごく悲しかった。孝之のことが大好きだから。これからもずっと、孝之を愛し続けていたいから」

私を見つめるその両の瞳から、またしても涙が溢れる。私はその涙を心に染み込ませるように、孝之の頭を強く胸に抱いた。

魔がさした。無責任な言葉だけれど、人間の心は弱い。

私の心に魔がさして、最上くんを受け入れようとしたとき。道を踏み外す寸前で引き止めてくれたのは、孝之がたくさんプレゼントしてくれた「愛してる」の言葉だったのだ。

孝之の浮気を許すことはできない。

けれど、浮気を繰り返す義父とそれに無関心な義母といういびつな家庭で育った孝之の心は、きっと他のどんな人よりも、この言葉を渇望していたはずなのだ。

孝之の頭を抱きしめながら、私はなぜだかバラバラに砕け散ったあのバカラグラスを思い浮かべた。

― 木村さんじゃなくて、もっと早くに、私がたくさん言ってあげればよかった…。

気がつけば、私の目からも涙が溢れていた。

私は静かに泣き続ける孝之に向かって、これまでの2人の時間を取り戻そうとするみたいに、何度も何度も「愛してる」の言葉をかけ続けた。






離婚届への記入が済むと、私たちはそれを白い封筒に入れて、2人揃って青山へと向かった。絵麻のピアノのレッスンがもうすぐ終わるため、迎えにいくのだ。

表参道ヒルズの駐車場に車を停めて地上へ出ると、通り向いのポストにその封筒を投函する。

「俺たちのけじめを預かってもらう係。美郷のご両親が引き受けてくれてよかった」

封筒が吸い込まれていったポストをじっと見つめながら、孝之が小さな声でつぶやいた。

離婚届を書いて、保管しておく。それは、あの夜が明けた朝に孝之がしてきた提案だった。

もう決して魔がさすことのないように、2度目はないことを孝之が自覚するため。そして…私自身も自立した女性でいるための、ある種の儀式だ。

絵麻のお迎えまではまだ時間がある。私はポストの前で立ち尽くしている孝之の手をとり言った。

「ねぇ、ちょっと行きたいところがあるの」

戸惑ったような顔を浮かべる孝之と、手を繋いで青山の裏通りを歩いた。

最上くんのところでの仕事はまだ続けている。でも最近は自分でも新しく仕事を開拓したりして、着々とライティングや翻訳の仕事を増やしていた。

もっと早くからこうして動くことだってできたのに、今までの私はそれすらしなかった。自分の消化不良のすべてを、孝之に押し付けて甘えてきたのかもしれない。

そう思うと、私たちはなんて歪んだ夫婦なのだろう。

とことん腹を割って話し合い、あの過ちについてはもう話すことはない。けれどこうして一緒にいれば、この先、何度もフラッシュバックに悩まされたり、お互いに疑心暗鬼になって傷つけあう可能性は高かった。

だけど…。

「ほら、ついたよ」

私と孝之が足を踏み入れたのは、スガハラショップだった。ずらりと並んだたくさんのグラスの中から私は、神様が遊び心で握りつぶしたようにぐにゃりと歪んだグラスを手に取る。

「前のグラス割れちゃったから、新しいのを買おう。私が買ってあげる!」

割れたガラスは、元には戻らない。

いびつさのない完璧なバカラグラスみたいな夫婦には、もう戻れない。ガラスよりも弱く繊細な、人間の心。

何もなかったかのように元通りにして“再構築”なんて、できるわけがない。

…だけど、関係を元に戻すことはできなくても、新しく作り上げることはできるはずだ。

探そう。私たち夫婦の手に馴染む新しいグラスを。

自分で選んだ、宝物なのだから。

すこし歪んでたって、きっと、だから、愛おしい。

Fin.

▶前回:深夜のオフィスで男友達と2人きり。夫の浮気を相談していたら、急に彼の体が近づいてきて…