これは男と女の思惑が交差する、ある夜の物語だ。

デートの後、男の誘いに乗って一夜を共にした日。一方で、あえて抱かれなかった夜。

女たちはなぜ、その決断に至ったのだろうか。

実は男の前で“従順なフリ”をしていても、腹の底では全く別のことを考えているのだ。

彼女たちは今日も「こうやって口説かれ、抱かれたい…」と思いを巡らせていて…?

▶前回:3年前にフラれた彼氏から、突然の連絡。いきなりメッセージを送ってきたのは、最低な理由からだった…




ケース11:デートにいつも遅刻する女・江原幸奈(25歳)


「ヤバい、またやっちゃった…」

ベッドから起き上がり、慌ててスマホを手に取る。そこには、十数件の着信履歴とLINEが溜まっていた。

一平:もう、別れよう

ロック画面に表示されている、彼氏からのメッセージを読んだ瞬間。全身から嫌な汗が噴き出した。

ベッドサイドに並べた複数の目覚まし時計に目をやると、時刻は2時20分を指している。15分早く設定しているので、実際は14時をちょっと過ぎたところだろう。

「土曜日に大阪から両親が来るから、一緒にランチでもしない?今回だけは遅刻厳禁だよ」

1週間前、付き合って半年になる彼からの提案に胸が踊った。そして迎えた土曜日の今日。約束の12時から、すでに2時間以上も遅刻しているのだ。

恐る恐る電話をかけると、一平は電話に出るなり、大きなため息をついた。

「ごめん、今起きた…。LINEも電話も気づかなくって。今すぐ準備して向かうね」

「…もう、遅いよ」

遅刻しても毎回「待ってるね」と優しく言ってくれた彼の声が、今日は冷たかった。

「母さんと父さん、大阪に帰ったよ。今日で何回目の遅刻だと思ってるの?さすがに、両親が来た日くらいはちゃんとしてよ…」

「本当にごめん!でも、目覚ましもかけてたの。昨日も早く寝たんだけどね」

「…俺の両親に会いたくなかったんだろ」

すると「違うの!」と激しく否定する私の声をさえぎって、彼は吐き捨てるようにこう言ったのだ。

「約束も守れないような、非常識な人間とは付き合えない。俺は最後まで幸奈がわからなかった。…別れよう」

何度も繰り返してきた恋の終わり。一平に「ごめんね」とだけ送ると、私は枕に顔を押し付け、声を出さないようにして泣いた。

…こうやって遅刻を繰り返した末、私はいつも振られるのだ。


なぜ幸奈は、毎回デートに遅刻してしまうのか…?


「すみません、今から向かいます…!」

一平から別れを告げられて、およそ1年。私は新しい恋なんて全然できず、フルフレックス制の会社で仕事に邁進していた。

数年前から時事系のWEBメディアで、ライターとして働いていた私。しかし今日も、撮影スタジオに向かって走っていた。

海外で活躍する有名なジャーナリストの取材日ということもあり、気をつけていたつもりだったが…。この日も遅刻してしまったのだ。

約束の11時から30分も遅れてスタジオに到着すると、怒り狂う上司の横で、無精ひげを生やした男性が微笑んでいた。

「まあまあ、そんなに怒らなくても」

遅刻した私をフォローしてくれたのは、ジャーナリストの村山洋二という男性だった。白髪の混じった前髪の間から、柔和な目がのぞいている。

彼の顔を見て、私は言葉を失った。同時に過去の記憶がよみがえってきたのだ。



自分が“当たり前のことができない人間”だと知ったのは、今から13年前のこと。

「いい加減にしなさい!」

母は、毎朝ベッドから起き上がれない私の布団をはぎ取って、こう言っていた。

「何度遅刻したら気が済むの!どれだけ成績がよくても当たり前のことができなかったら、人生終わってしまうんだから!」

幼い頃から私は朝が弱く、午前中の授業をよくサボっていた。いや、サボっていたわけではない。本当に起きられないのだ。

起きようとすると全身が痙攣し、めまいがした。

見かねた母が家庭教師を雇ってくれたおかげで、成績は常に上位だったが、クラスでは“協調性がない子”として浮いていた。




「いいじゃないか、ねぇ?成績はいいんだし」

そんな私に対して、唯一優しく接してくれたのは父だけだったのだ。

ドキュメンタリー映画の監督だった父は、私を有名私立中へ進学させようと躍起になっている母を横目に、映画や本を通して、私の知らない世界のことを教えてくれた。

「朝起きられなくたっていい。幸奈は勉強が出来るし、文章の才能もあるんだから」

しかし広告代理店で規則正しく働く母と、不規則に働く映画監督の父はすれ違い、私が中学へ進学した頃に離婚した。

母に引き取られたのち、私は中高一貫の女子校に進学。相変わらず午前中の授業には出られなくて、家庭教師を頼りながら、なんとか大学に進学したのだった。

一方の父は、離婚を機に紛争地でのドキュメンタリー撮影のため、イラクに拠点を移してしまったのである。父が日本を去ると知ったときは、本当にショックだった。

唯一の理解者だと思っていた人に、捨てられたような気がしたのだ。

そうして「私を理解してくれる人は誰もいない…」と心に傷を残したまま、大人になったのだった。



取材が終わったあと。洋二さんは気まずい雰囲気を察してか、私をカフェに誘ってくれた。

「そうか〜。幸奈さんのお父さんも、ジャーナリストだったんだね」

「はい。父だけが私の理解者だったんですが、母との離婚をキッカケに日本を離れちゃって」

彼は私の言葉に耳をかたむけながら、優しく頷いている。

「あの…。今日は遅刻してしまい、本当にすみませんでした」

「いいんだよ、気にしないで」

そのとき、洋二さんと大好きだった父が重なって見えたのだ。そして気づけば、今まで誰にも言えなかった病気のことを口にしていた。

「私、自律神経系の病気があるんです。朝起きられないのも、それが原因で…」

この日を境に、洋二さんとプライベートでも会うことが増えていった。彼は57歳のバツ1で、私と同じ25歳の娘さんがいるという。

さらにお互い代々木上原に住んでいたので、彼のマンションで仕事の相談に乗ってもらうようにもなった。

中学生の頃からずっと“父親という存在”を求めていた私にとって、洋二さんは心から信頼できる人だったのだ。

…あの日までは。


2人の間に起きた、ある事件とは?


洋二さんのもとに通うようになってから、1ヶ月ほど経った日のこと。

いつものように、自宅近くの『ファイヤーキング カフェ』でお茶をしていると、彼はおもむろに小さな袋を取り出した。

「開けてみて」

それは、モンブランの万年筆だった。エレガントなホワイトの本体に「yukina」の文字が刻印されている。

「ええ!こんな高いもの、いいんですか?」

「もちろん、もうすぐ誕生日でしょ。少し早いけど」

そのあとは、いつものように洋二さんの部屋まで行き、彼が作ってくれたポトフを食べながら仕事や恋愛の話をした。

「朝起きられないせいで、毎回彼氏に振られるの」

「病気について話したことは?」

「一度もない。話したら、引かれちゃうんじゃないかって思って…」

「そんなんで引くような男はダメだな。俺は幸奈のすべてを受け入れるよ」

そう言うと、彼は突然私の肩に手を乗せ、そのままソファへと押し倒してきたのだ。

「えっ、ちょっと待って!何するの…!?」

嫌悪感がこみ上げてきて、思わず洋二さんを大きく突き飛ばす。

「…俺は、幸奈を愛している。付き合いたいと思ってるよ」

「ふざけないで!」

自分でもビックリするほどの大きな声が出た。彼は尻もちをついたまま、目を丸くしている。

「どういうつもりか知らないけど…。私は、洋二さんをお父さんみたいだと思って信頼してたのに!」

彼は悲しそうな表情を浮かべ、目を伏せている。ムカムカしていた私は、そのまま洋二さんの部屋を飛び出したのだった。





それから2日後。

私は代々木上原にある『エンボカ 東京』に、高校時代からの友人・佐知を呼び出した。彼女は私の病気についても知っている、たった1人の親友だ。

「それは、幸奈が悪いよ」

洋二さんとの間に起きた事件について彼女に話したところ、あきれ顔でそう言われてしまった。

「男の家へ頻繁に行くってことは『抱かれてもいい』っていう合図なんだよ?むしろ、今まで手を出されなかったのが不思議だね」

「でもさ。うちのお父さんと、ほとんど年齢変わらないんだよ?」

「そんなの関係ないよ。彼の方は、最初から幸奈のことを“娘として”なんて見てなかったと思うな」

デザートピザを食べながら、佐知は厳しい口調で言う。

「まあ、娘と同い年の女に手を出すのは、どうかと思うけどね…。でもさ、ちょっと考え方を変えてみて。彼は幸奈の病気のことを知っても、理解してくれたんでしょ?」

「うん」

「じゃあ、同じことを一平くんにも言った?」

「言ってないけど…」

キョトンとしている私を、佐知がまたもやあきれた顔で見ている。

「たぶん一平くんも、幸奈の病気のことを聞いて、引いたりしないと思う。つまり幸奈のことを理解してくれる男は、他にもちゃんといるってこと!」

その瞬間、心がほどけていくのを感じた。同時に、いつも遅刻する私を何時間も待ってくれていた、一平の姿を思い出す。

「連絡してみなよ、一平くんに」

彼女はそう言うと、優しい目で私を見つめてくる。佐知の言葉に、ずっと心の奥にあったしこりが取れたような気持ちになった。

一平に連絡して、自分がどうしたいのか。そして何を話すのかさえ、まだ決まっていない。

それでも私はスマホを手に取り、彼の連絡先を1年ぶりに開いたのだった。

▶前回:3年前にフラれた彼氏から、突然の連絡。いきなりメッセージを送ってきたのは、最低な理由からだった…

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