「彼以外を、好きになってはいけない」

そう思えば思うほど、彼以外に目を向けてしまう。

人は危険とわかっていながら、なぜ“甘い果実”に手を伸ばしてしまうのか。

これは結婚を控えた女が、甘い罠に落ちていく悲劇である。

◆これまでのあらすじ

大介と守の2人とこっそり二股交際をしていた美津。しかし、予想していなかったタイミングで大介からプロポーズを受け、美津の心は安易に揺らぐ…。

▶前回:二股状態で幸福をむさぼる女。ある夜、1人から「話がある」と切り出され…




「結婚してくれますか?」

口元をかすかに震わせながら言う大介。その手に自分の手を重ね、美津は自然と答えていた。

「はい、お願いします」

その言葉を聞き届けた大介は、厳粛な面持ちでティファニーの指輪を箱から取り出すと、美津の細い薬指にはめた。

「あーよかったー!」

大介の腕が、美津を抱き寄せる。そのままの体勢で大介は、美津に語りかけるのだった。

「本当によかった。実はすごく不安だったんだよ。…ああ、美津みたいな子が僕のお嫁さんになるもんだなあ。奇跡だなあ」

涙声。大介は、泣き顔を見せまいとして美津を抱きしめているのだ。

「本当にありがとう。美津がいてくれて、人生が変わったよ」

「うん…」

この「人生が変わった」というワードは、記念日のたびに大介から聞かされてきた。

自分は、積極的に女性に近づける性格ではないし、見た目もパッとしない。だから、美津に出会うまでは、まともに女性と日常を共にしたことがなかったと。

友人の紹介などで食事をすることは何度かあったものの、次のデートにはいつも結びつかなかったそうだ。

だから美津が現れて、しかも美津の方から言い寄られたとき、大介は「一生分の運を使った」と思ったのだと話していた。

感極まった表情で大介はゆっくりと身体を離し、笑った。

「これからも一生、美津を最優先にする。世界一大事にする」

美津も、気づけば笑っていた。

涙こそ出なかったけれど、確かな嬉しさと、大きなベッドに身を委ねているかのような絶対的な安心感を覚えていた。


満たされた気分になった美津。しかし幸せは、一瞬で崩れる


正直、大介からのプロポーズは何度か想像したことがあった。しかし想像するたびに美津は、約束される「平凡な未来」に退屈さを感じていた。

― だから意外だわ。こんな気持ちになるなんて。

自分を一生愛しぬいてくれる存在がいる。そのことは、意外にも簡単に気分を高揚させた。これまでの恋愛とは比較にならないくらい、ひとつ深いフェーズに到達したような気がした。

― 守くんに、ちゃんと言わなくちゃ。

大介からのプロポーズを受け止めた美津は、今やすっかり心変わりしていた。

守と別れて大介にきちんと向き合おうと、決意したのだった。



守との関係を早く終わりにしよう。そう思いながら、3日が経った。

守と連絡がつかないのだ。

大介からプロポーズされた日、美津はさっそく守にこう送った。

『週末、会える?別れたいの』

シンプルな文に、守は焦った様子ですぐに返信してきた。

『え?なんで?電話していい?』

『会ったら話すわ。いつ会える?』

そこから、守からの返事は来なくなったのだ。

― ごめんね、守くん。

正直まだ、守への思いが消えたわけではなかった。守といる時の特別な感情のたかぶりは、今もリアルに思い出せる。




火曜日。守からは、相変わらず連絡がない。

「ただいまー。…あれ?」

仕事が終わって神泉の自宅へ帰ると、20時過ぎなのに珍しく大介の姿がない。部屋は真っ暗だった。

― 珍しく遅いのね。

電気をつけて、リビングに行く。…仕事から帰ってきたのに、キッチンから料理の匂いがしないというのは、寂しいものだった。

「何か作るか…」

小さくつぶやき、冷蔵庫からレタスを取り出す。そして、レタスを包んでいた新聞紙を捨てようとしてキッチンのダストボックスを開けた、そのときだった。

― …は?

今朝捨てたバターの空箱と一緒に、ハリー・ウィンストンの紙袋が、捨てられている。

― え、どうして?

美津は数秒静止したあと、思うように動かない指先でゴミ箱の中からそれを引っ張り出した。紙袋の中身は空だ。

こんなものがこの部屋にあるのは、おかしい。しかしどんな事実がそこにあるのか、美津には見えなかった。

わかるのは、大介から何か重大な隠し事をされているということだけだ。

― 可能性があるとしたら…。

美津は頭を回転させる。

― 大介には、他の女がいた?

いやいやいや、と美津は頭を振る。

どんな可能性を考えてもしっくりこない。大介に限って、そんな裏切りをするとは思えない。

実際、交際期間の4年間のうちで、大介のことを疑ったことは一度だってなかった。

― 早く帰ってこないかしら!

イライラしながら、10分おきに何度も何度も壁にかかった時計を睨んだ。

しかし、玄関ドアが開くことはない。しまいには連絡すらつかないまま、日付が変わった。


膨らむ大介への疑惑。美津は、問い詰める


「帰ってこないつもり?」

深夜1時。

美津は、知らない女と一緒にいる大介を想像してみる。しかし想像は、あまりうまくはいかない。大介は、女っ気がないから大介なのだ。

キングサイズのベッドに大の字になり、ひとりで虚無感に浸る。

― 寂しい…。

空間を持て余した美津は、いつも寝ているベッドの左側に身を落ち着け、暗闇の中で目を開いた。

― ああ、裏切られるってこんなに辛いんだな。

美津はこの時初めて、本当の意味で大介への罪悪感を抱いたのだった。




翌朝になっても大介は戻らない。

ソワソワした気持ちのまま出勤し、業務に身が入らない1日を過ごして定時で退社した。

帰宅し玄関のドアを開けると、部屋には灯りが灯っている。

― あら、帰ってきてる。

意外な気持ちで靴を脱ぐが、普段のような夕食の香りはしなかった。

廊下を進み、リビングへと続くグレーのドアを開ける。

BGM代わりにいつもつけていたテレビは、真っ黒な画面をこちらに向けている。大介はソファに腰掛け、無言でカーテンを見つめていた。

プロポーズされた時と同じ構図だ。

「大ちゃん?」

声には思わず、怒りが滲む。付き合って以来、こんなふうに家を無断で空けられたことはなかった。

大介は、顔だけ動かし、真顔で美津を見る。

「ああ、おかえり」

憔悴した雰囲気で言った大介は、自分からは何も説明をしようとはしなかった。

「ねえ、おかえりじゃないのよ。どういうことなの?急に音信不通になって、帰ってこないなんて」

美津は立ち尽くしたまま、言った。記者然とした厳しい声が、シンとしたリビングに鋭く響く。

「それからこれ、何よ」

美津は、例のハリー・ウィンストンの紙袋を手に取り、大介に渡した。

「…何って?」

「え?私が聞いているのよ。なにか隠していることがあるの?」

美津の質問を最後に、リビングは再び沈黙に包まれた。

…その沈黙を破ったのは、大介の狂ったような笑い声だった。

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浮かれていた美津に、鉄槌が下される