あふれた水は、戻らない。割れたガラスは、戻らない。

それならば、壊れた心は?

最愛の夫が犯した、一夜限りの過ち。そして、幸せを取り戻すと決めた妻。

夫婦は信頼を回復し、関係を再構築することができるのだろうか。

◆これまでのあらすじ

夫の孝之が、秘書の木村と犯した一夜の過ち。幸福な専業主婦だった美郷はショックを受けたものの、孝之の反省を信じて、娘の絵麻のために再構築することを決意する。

しかし、元通りに過ごすことに苦痛を感じていた美郷に、義母がさらに「主婦なら黙って夫に感謝しろ」と追い討ちをかける。そんなとき、昔の男友達・最上が電話をしてきて…。

▶前回:「夫婦関係がうまくいかないのは、妻の我慢が足りないから」姑の言葉に怒りがこみ上げた女は…




「そんな、私なんかダメだよ…」

拒む私に、最上くんがにじり寄る。

「そんなことない。ミサトがいいんだ」

いつも冷静な最上くんの口から出たとは思えない熱烈な言葉に、思わず顔が熱くなった。

本当に私でいいのだろうか。けれど、これ以上断る言葉を思いつかない。

「ミサトの都合がつく時間だけでもいい。どうしてもダメ…?」

最上くんの真剣な眼差しを真正面から受けた私はついに、観念してゆっくりと頷いた。

「こんなことするの初めてだから、うまくできなかったらごめんね。でも、こんなに必要としてもらえるなんて、嬉しい…。私でよかったら、一生懸命やらせてください」

そう言っているそばから、心臓がドキドキと高鳴り始めるのが自分でもわかった。

私の答えを聞いた最上くんは、眼鏡の奥の瞳をきらりと輝かせる。

「やった!主婦業の合間でも、ミサトが請けてくれるなら本当に助かるよ!文章が書けて英語がわかるライター兼翻訳者、ずっと探してもいい人が見つからなかったんだ」

依頼されていた寄稿文を昨日の深夜に送ってから、まだ数時間しか経っていない。

けれどその寄稿文を読むなり最上くんは、私をオフィスに呼び出し、熱烈に仕事に誘ってくれたのだ。

― 私、結婚で諦めてたけど…初めて“仕事”するんだ…!

照れくさいような、ワクワクするような気持ちで、胸がいっぱいになる。

けれど正直なところ、私が最上くんのお願いをこうして受け入れた決め手は…ワクワクとは対局の、ドス黒い復讐心からなのだった。


最上と仕事をすることに決めた美郷。その理由は


「いい暮らしさせてもらってるんだから、旦那様の浮気くらい許して、黙って感謝しなさい」

昨日、お義母様から受けた屈辱的な忠告。

それに、再構築を始めてから私の頭の中には「もし自分に経済力があったら、再構築ではなく離婚を選んでいたのかもしれない」という疑問が浮かんでいた。

怒りと混乱に押し流されそうな日々を送る私にとって、最上くんからのお誘いは、渡りに船を得たようなものだった。

仕事の内容は、最上くんの会社が手掛けるインディーズ映画を紹介するコンテンツの、ライティングと翻訳のお手伝い。

もちろん、こんなアルバイトにも満たないような仕事を始めたところで、経済的に独立できるなんて本気で思っているわけじゃない。

けれど、自分の夢を諦めてからこれまでずっと、私の人生の中心には孝之がいた。

依存ともいえる状態が、この息苦しい再構築の障害となっているのなら…、ほんの少しだけでもいい。抗ってみたかったのだ。




復讐するような気持ちで始めた仕事だった。

けれど、少しでも「夫」や「家族」以外の軸を持てば、再構築の苦しさが軽減するかもしれないという予感は、仕事を始めてひと月が経つ頃には確信に変わっていた。

相変わらず、家事が疎かになってしまう日もある。

でもそれは新しいことへのチャレンジにのめり込んでいるからであって、深い悲しみと猜疑心で無気力になっていたときとはまったく違っていたのだ。

それに、深夜まで原稿を書いて朝ご飯が手抜きになっても、不思議と絵麻は文句を言わない。

「ごめんね、ママ今朝もパン焼けなかった…」

買ってきたベーグルを並べてそう謝っても、ニコニコとしながら「いいよ」と言ってくれるのだった。

「だってママ、前よりずっと楽しそうなんだもん。絵麻、ベーグルも好きになってきたよ!」

そう言いながら玄関を飛び出していく絵麻は、ここのところ、私と孝之のキスを確認しようともしない。

私はそんな娘の様子に心を和ませながら、絵麻に遅れて靴を履いている孝之にも笑顔を向けて言った。

「今夜のことは覚えてるよね?」

「うん、わかってる。なるべく早く帰ってくるよ」

そういって孝之が出ていくと、私は部屋着のポケットからスマホを取り出してLINEを返す。

送り先は、私の実母だ。

『じゃあお母さん。絵麻が学校から帰ったらそっちに行かせるから、一晩よろしくね』

母からはすぐに返事があった。

『まかせて!ジージは楽しみにしすぎて、朝から絵麻ちゃんの大好きなチーズケーキを焼いてます』

一緒に送られてきた画像には、父がオーブンの前でピースサインをしている様子が写っている。

商社を定年退職して以来ニセコに移住してしまった両親だが、いつも決まってこの時期になると、セカンドハウスにしている大崎のマンションに少しの間だけ滞在するのだ。

その、決まった時期というのは…私と孝之の結婚記念日。

「結婚記念日なんだから、たまには夫婦水入らずでデートしてらっしゃい」

夫婦仲のいい両親は毎年そう言って、絵麻を預かって私たち夫婦に一晩の自由時間をプレゼントしてくれるのだった。

私は『よろしく』と言っているウサギのスタンプを手早く母に送ると、スマホの画面から顔を上げて深呼吸をする。

「再構築を決意してから、はじめてのデート…」

自らの気持ちを確かめるようにそう口に出してみると、胸の奥からわきおこってきたのは、自分でも意外な感情だった。


再構築を始めてから初の、夫と2人きりで過ごす夜。美郷の心境は


不安の中から、ほんの少しだけ顔を覗かせる感情。それは、小さな希望だった。

― 今の私だったら、孝之と楽しい時間を過ごせるかも。再構築を始める前の、何もなかった頃みたいに…。

家庭以外の世界を持った私は、本気でそう思えるほどに精神的な健康を取り戻しつつあったのだ。




その夜、私と孝之がデートの場所として選んだのは、大手町にあるラグジュアリーホテルだった。

ホテル内に入っているお鮨屋さんのカウンターで美しいお料理を楽しみながら、ポツリポツリと絵麻のことや、始めたばかりの私の仕事について話す。

「それでね、私今まで大作映画くらいしか観なかったんだけど、最近はオンラインだけで公開される短編映画とかでもすごくいいものがあるの。例えばね…」

「へぇ、そうなんだ。そういうのって、有名な俳優も出てたりするの?」

私たちの間に流れる時間は、本当に久しぶりに穏やかで平和なものだった。

洗練された空間に、極上の美食。そんな一流ホテルのドレスコードに相応しくあるよう、身だしなみもそれなりの高級感が出るように気をつけたつもりだ。

首元に光るのは、結婚10周年の記念に孝之に買ってもらったヴァン クリーフ&アーペルのネックレス。以前訪れたディオールで、似合うからとプレゼントしてくれた黒いワンピースによく映えていると思う。

左手の薬指には、グラフで一緒に選んだダイヤモンドの婚約指輪が久しぶりに輝いている。

上質なアイテムで身だしなみを整える行為はまるで、孝之と積み重ねた時間を一つひとつ手にとって「ほら、私は幸せ」と確認するみたいだ。

穏やかな夫婦の時間を楽しむ私たち。孝之の職場の話さえ話題に出さなければ、本当に再構築前にタイムスリップしたみたいだった。

― お義母様が言っていたのはこういうことなのかもしれない。起きたことは、目をつぶって見ないようにすれば…、すべてうまくいく。

そう思い至ると、夫のたった一度の過ちを心の中で何度も反芻するのは、不必要に自分を傷つける愚かな行為のようにも思えた。

― 奪われたものより、もらったものの方がずっと多い。もう、問題は見ないようにしよう。目をつぶって、孝之には感謝だけを向ければいい。これから先、一生。

食後の熱い緑茶を飲みながらそう考えていたとき、孝之の手がふいに伸びてきて、私の手に重なった。

もう寒気は走らない。

私はその手を、覚悟を込めてしっかりと握り返した。



食事を終えた私たちは客室へと向かい、それぞれに入浴を済ませ、夜景のよく見えるベッドに少し距離をとって腰をかけた。

孝之の手が、私の腰に伸びてくる。目をつぶっていよう。感謝の気持ちを胸に、孝之をそのまま受け入れればいい。

― だってそうでもしなければ、私はすべてを失ってしまう。孝之を受け入れなければ、…また、木村さんのところに行かせる隙を作ることになる。

…そんな考えが浮かんだ瞬間、私は、覆い被さっていた孝之の下をくぐり抜けて、ベッドの端にみじめなダンゴムシみたいに丸まっていた。

― 今の生活を失わないために、我慢して孝之を受け入れるの?そんなの、夫をATMだとしか思っていないのと同じじゃない!

木村さんに触れた手で、孝之が私に触れた。必死に張り合わせた私の心に、またヒビが入る。

一度砕け散ってしまえば、もう戻らないバカラグラスと違って、心は元に戻ったように見えても、何度でも繰り返し粉々に砕け散ることを初めて知った。

けれど、私が感じていた悲しみは、まだどん底ではなかった。

さらなる奈落の底へと落ちる余地がまだあったのだ。

背中越しに、孝之が深いため息をついて低い声でつぶやく。

その内容に、私は耳を疑った。

「ハァ……。これ以上、どうしたらいいんだよ…」

責めるような色のにじんだ孝之の声に、私は思わず反論する。

「私が悪いっていうの?」

冷たい言い方をし過ぎてしまったかと、一瞬反省した。

けれど、孝之の反応はそれを上回る残酷さだった。

「心から謝ってる。誠実に対応してる。それでもいつまでも許してもらえない」

夜景の明かりに照らされた孝之の顔に、醜く歪んだ笑みが浮かぶ。

「ねえ、美郷。 “仕事”を始めてから、ずいぶん楽しそうだよね?

正直に言ってよ。本当は俺に黙って…、最上ってやつと何してるの?」

孝之の言葉に、私は茫然とするしかなかった。

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まさか、私が疑われるなんて。ショックを受けた美郷が向かった先は…