お金は人生の目的ではなく、手段である。そう父親に教わった投資家のジョージ・ソロスは巨富を築いた晩年に「14歳のときが人生で最も幸福だった」と語っている。彼は人生に何を求めていたのだろうか。作家の橘玲氏が解説する――。

※本稿は、橘玲『裏道を行け ディストピア世界をHACKする』(講談社現代新書)の一部を再編集したものです。

写真=AFP/時事通信フォト
2017年4月27日、投資家のジョージ・ソロス - 写真=AFP/時事通信フォト

■危険な1944年が「人生で最も幸福だった」

「ヘッジファンドの帝王」と呼ばれるジョージ・ソロスは、1930年にハンガリー、ブダペストのユダヤ人家庭に生まれた。後年のインタビューでソロスは、14歳だった1944年を「人生で最も幸福」な時期だったと語っている(※)。

※以下の記述と引用はマイケル・T・カウフマン『ソロス』(金子宣子訳、ダイヤモンド社)より

だがこれは、東ヨーロッパの歴史を知る者にとってはなんとも奇妙な話だ。1944年3月19日、ナチス・ドイツがハンガリーを占領し、この地に住むユダヤ人への苛烈な弾圧が始まったのだから。

橘玲『裏道を行け ディストピア世界をHACKする』(講談社現代新書)

ソロスの父ティヴァダールは1893年にハンガリーの農村に生まれ、第一次世界大戦に従軍してロシア軍の捕虜となりシベリアの収容所に送られた。休戦協定が結ばれたにもかかわらず、帝政ロシアもオーストリア・ハンガリー帝国も崩壊したことで釈放のあてがなくなり、20人の仲間とともに収容所を脱出、汽車、筏、ラバ、徒歩で西を目指し、6年目にしてようやく故国に戻ることができた。

ブダペストで法律家となったティヴァダールは、32歳のときに10歳年下のエルジェーベトと結婚し、ポール、ジョージの2人の子どもが生まれた。ジョージは父親が聞かせてくれた虜囚時代の冒険譚に心酔し、7〜8歳の頃につくった詩でティヴァダールを「ゼウス」に喩えた。

■一家が生き残るために発揮した天性の才能

ナチスがブダペストに侵攻したとき、成功した法律家だったティヴァダールは、妻と子どもたちをスイスのジュネーヴに疎開させる準備をし、それが駄目だったときのためにアメリカのビザも取得していた。

ところがティヴァダールにはブダペストに愛人がおり、妻のエルジェーベトが夫を一人で残すことに反対したため、一家はナチスが占領する街に取り残されてしまった。

ナチスがブダペストに送ったのはアドルフ・アイヒマンで、その任務はハンガリーに住む75万人のユダヤ人を「処理」することだった。

この危機に至ってティヴァダールは、一家が生き残るために天性の才能を発揮した。「最初の最初から、父が指揮をとっていた」とソロスは語る。

「ドイツ軍が侵攻してくると、ほぼその直後に父は家族全員を呼び集めて、こんなようなことを宣言した──通常の法はすべて一時停止とする。いまは非常事態だ。もし法を守り続け、このままの状態を続けるとすれば、自分たちはただ消え去るだけのことだ。だから、私たちは別の取り決めを結ばなければならない」

ティヴァダールは家族に別の身分を持たせようとしたが、友人や知人たちは同情の念は口にするものの、結局は断ってきた。だが、義母が所有するビルの管理人は、ポールと同い年の息子の誕生証明書、成績簿、予防接種証明書など、ありとあらゆる書類を提供してくれた。

さらに、軍役についている息子に命じて部下の証明書を送らせ、これをジョージが使うことになった。管理人は以前、居住者とのトラブルで裁判所に呼び出されたとき、ティヴァダールが弁護してくれたことに恩義を感じていたのだ。

■「冒険」に魅了された少年

管理人の助力を得て義母が所有するビルに隠れ部屋をつくったティヴァダールは、次に家族以外の者に身分証明書を提供しはじめた。

書類を偽造する職人の元締めと渡りをつけ、白紙の記入用紙やゴムのスタンプを提供する者、新しい書類を古びたものに見せる職人も確保した。

ティヴァダールは、依頼人を3つのグループに分けた。

第一は、非常に親しいか、絶望的な窮地に陥っている者たちで、書類は完全に無料で提供された。第二は、道義的に恩義を感じていて、相手から利益を得ようとは思わない者たちで、書類は実費で提供された。第三は裕福な顧客で、“市場価値”が許すかぎりの金額を請求した。

そのなかにはユダヤ人の祖父母をもつクリスチャンの貴族や財界人、「ハンガリーでは、全世界にとってのロスチャイルドに匹敵する」大富豪もいた。

状況がさらに逼迫すると、ティヴァダールはリスク分散のため家族をばらばらに住まわせることを決め、農務省で働いている男に金を払い、ソロスを息子として同居させてもらうことにした。

ところが通りの向かい側に住む級友と顔を合わせたことで、ソロスは母親が疎開した保養地まで一人で旅するよう指示される。

ソ連軍がハンガリーに侵入した数カ月後には、ふたたび父親と暮らすため、14歳のソロスはさまざまな迂回ルートを使ってブダペストに戻るという「冒険旅行」を敢行した。

■隠れ家に転落してきた17歳のドイツ兵

戦争末期の1944年11月、ブダペストは低空飛行するソ連機があたりかまわず機銃掃射し、路上に人間や馬の死体が転がっていた。

近くの街灯柱に2体の死体が吊るされ、一方には「これが隠れ住んだユダヤ人のなれの果て」、もう一方には「これがユダヤ人をかくまったクリスチャンのなれの果て」と書かれていた。

そんななか、ソロスの主な仕事は、近くの市場の地下から水を汲み上げ、バケツで運んでくることだった。

そんなある日、隠れ家の浴室にドイツ兵が転落するという事件が起きた。軍服に身を固めた金髪碧眼の「まるで赤ん坊のようなすべすべの顎をした少年だった」。

このときの出来事は、ティヴァダール自らが記している。

「いくつなのかい?」これが私の最初の質問だった。
「17です」
「煙草は吸う?」
「はい」

少年は私が差し出した煙草を手に取り、火をつけ、飢えたように吸い込んだ。少年の説明によれば、このビルのすぐ前にソ連軍の戦車が迫っているのだという。あわてて通風口に飛び込んだところ、この浴室に転がり落ちたというわけだ。

私たちは15分ばかり話を交わした。いよいよ、この少年をどうすべきかという問題になった。

どうやら14歳の私の息子は、目に一杯涙を溜めているらしい。私はまず、このアーリア人兵士に煙草を一握りつかんで渡すと、こう命じた。

「ここに飛び込んできたときと同じ道筋で出てゆきたまえ」

息子たちが少年を押し上げて何とか窓枠によじ登らせると、このドイツ軍の一員たる武装兵士は、無事、ユダヤ人占領地域から脱出した。

14歳のジョージ・ソロスにとって、ナチス占領下のブダペストでの父親はまさに英雄そのものだった。その父の指揮の下、次々と襲い掛かる危機を間一髪でかわす「冒険」はこの少年を生涯魅了することになる。

■「金儲けは好きではありません。ただ、うまいだけです」

その後、ソロスはロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)を卒業して26歳でアメリカに渡り、ジム・ロジャーズと2人で始めたクォンタム・ファンドで大きな成功を収めたが、自らの富に戸惑っていた。

父のティヴァダールは、「金は何らかの目的を達成するための手段にすぎない」と息子に教えてきた。大金を手にしたものの、「人生の目的」とは何なのか?

ある晩餐会の席で、隣に座った女性小説家から「ご自分がお金儲けが好きだと初めてはっきり気づかれたのはいつなのですか」と問われて、ソロスはこう答えた。

「金儲けは好きではありません。ただ、うまいだけです」

ソロスには、若い頃からの夢があった。それは自らの哲学を世に出すことだ。

学生時代にLSEのスター教授だった科学哲学者カール・ポパーの『開かれた社会とその敵』に大きな感銘を受けたソロスは、1982年に創設した国際慈善団体を「オープン・ソサエティ(開かれた社会)協会」と名づけ、ポパーの名をとった奨学金制度を始めた。

もっともポパーの方は、何度か論文を送られ、自宅に招いて批評を伝えたこの教え子のことをほとんど覚えていなかったようだが。

写真=iStock.com/utah778
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/utah778

■平穏な時期が続いたあと暴落や暴騰が起こる

ウォール街で成功したあと、ソロスは1961年から66年の5年をかけて学位論文を完成させようと苦闘し、草稿をポパーに送った。

「第一印象はとてもよかった」という返信をポパーから受け取ったものの、その後、ポパーの関心は薄れていったようだ(「あまりお手を煩わせないというお約束をいたしましたので、しばらくお便りはご遠慮申し上げました」というソロスの手紙だけが残っている)。

ソロスは自身の著書で「再帰性(リフレクシヴィティ)」について論じている。この概念は難解だが、いまなら数学者ベノワ・マンデルブロと並んで、もっとも早く「複雑系」について指摘したものと再評価されるかもしれない。

アインシュタインやフォン・ノイマンと並ぶ20世紀が生んだ天才であるマンデルブロは、世界には正規分布(ベルカーブ)とは異なる分布が遍在していることを発見し、これをフラクタルと名づけた。フラクタルでは、要素同士の相互作用によって分布の尾が長く伸びていく。これがロングテールだ。

マンデルブロは、金融市場の価格の分布もフラクタルの典型だという。そこではベルカーブにちかい平穏な時期が続いたあと、突如、暴落や暴騰のような「とてつもないこと(ブラックスワン)」がロングテールの端で起きる。投資家同士がお互いを参照しあって、そのフィードバック効果で「テールリスク」が顕在化するのだ。

ソロスはクルト・ゲーデルの「自己言及のパラドクス(不完全性定理)」を市場に適用したものを「再帰性」と呼んでいるが、金融市場を観察するなかで、マンデルブロとはまったく独立にこの奇妙な事象に気づいたのではないだろうか。

■「中年の危機」を乗り越えて

「哲学の夢」をあきらめ、クォンタム・ファンドで大成功した1978年、50歳の手前で家庭生活に行き詰まったソロスは3人の子どもを置いて離婚し、一人暮らしを始めた。

「セントラルパーク・サウスから数ブロックのところに小さな家具つきアパートを借り、家からはタクシーに乗って、服を詰めた数個のスーツケースと何冊かの本を運んだ。車はもっていなかった」というのが、人生をやり直そうと決めた“大富豪”の新しい暮らしだった。

その直後、ソロスは近くのテニスコートで23歳の女性と出会い、親しくなる。ソロスから、自分がウォール街で大成功した男で、株式市場で大金を儲けたという話を聞いたときのことを、彼女は「絶対ペテン師だと思ったわ、小銭も持っていない男だってね」と述べた。数年後、彼女はこの年の離れた“ペテン師”と結婚することになる。

「中年の危機」を乗り越え、世界最大のヘッジファンドを育て、莫大な富を得たソロスは、慈善事業に本腰を入れるため、クォンタム・ファンドを23歳年下のファンドマネージャー、スタンリー・ドッケンミラーに任せることにした。

1992年、ドッケンミラーはイングランド銀行がポンドの為替相場を支え切れなくなると予想した。この賭けについてソロスと話しあったときのことを、ドッケンミラーはこう回想する。

「彼(ソロス)には自分がなぜポンドが崩壊すると考えるのか、その理由をいろいろ話し、自分が投入するつもりの額も話した。叱責はされなかったが、それに近いことは言われたよ。つまりだな、君がそう確信しているなら、なぜたった20億〜30億ドル程度でおさめるんだ、というわけだよ」

クォンタム・ファンドはイギリスポンド100億ドル分を空売りし、わずか24時間で10億ドル以上の利益をあげた。こうしてソロスは、「イングランド銀行を打ち負かした男」の異名を得ることになる。

14歳の少年は、ずっと1944年のブダペストで体験した“わくわく感”を追い求めていたのだ。

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橘 玲(たちばな・あきら)
作家
2002年、小説『マネーロンダリング』でデビュー。2005年発表の『永遠の旅行者』が山本周五郎賞の候補に。他に『お金持ちになる黄金の羽根の拾い方』『言ってはいけない』『上級国民/下級国民』などベストセラー多数。
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(作家 橘 玲)