ペナントレースが佳境を迎えているプロ野球では、早くも"ストーブリーグ"の話題が出始めている。とくに気になるのはFA権を取得した大物選手たちの動向で、大瀬良大地(広島)や梅野隆太郎(阪神)、宮粼敏郎(DeNA)の決断が注目される。

 コロナ禍の昨季、FA権を行使して国内移籍したのは梶谷隆幸と井納翔一の2人だけだった。ともにDeNAから巨人に移籍したが、梶谷は打率.282を残しながらも右手甲の骨折などで61試合の出場にとどまっている(今季の成績は10月21日時点、以下同)。井納は5試合に登板、防御率14.40でファーム暮らしが続く。

 過去に巨人へ移籍し、成績を落とした例は決して少なくない。今季は丸佳浩(元広島)や陽岱鋼(元日本ハム)が苦しみ、シーズン途中に日本ハムからトレード加入した中田翔も打率1割台に沈んでいる。


巨人移籍後も本来の調子を取り戻せずにいる中田翔

 実力者たちが力を発揮できない理由には、どんな背景があるのか。1989年に中日から巨人へ移籍した中尾孝義氏は、自身の経験を踏まえてこう語る。

「僕がもともといた中日は地方球団だから移動時の格好もそこまで意識していなかったけど、ジャイアンツに行ってからは、だらしない格好はできなくなりました。周囲の見る目が違う感じがしましたね。それに移籍してくると、どうしても"外様"という部分もありました。成績を残さないと目立ってしまうし、やっぱりジャイアンツはプレッシャーがすごいですよ」

 1982年にセ・リーグで初めて捕手として年間MVPを獲得した中尾氏は、星野仙一監督の下で1988年オフに西本聖、加茂川重治とのトレードで巨人へ移籍すると、正捕手の座をつかんでカムバック賞を受賞した。前年にコンバートされた外野手から捕手に復帰し、斎藤雅樹や桑田真澄など投手陣をうまくリードしたことが選出理由だった。

 当時はFA制度が導入される前だった一方、巨人でプレーすることへの注目度は今よりはるかに高かった。地上波で全試合が放映されていた時代だ。

 なぜ、中尾氏は巨人に加入してすぐに活躍できたのだろうか。

「僕はもともとプレッシャーが好きで、楽しんでいた部分はありました。だから、それなりに活躍できたと思う(笑)。外様という部分では、タツがいたことでチームにスッと入っていけました。すごく感謝しています」

 中尾氏が「タツ」と呼ぶのは、現在巨人を率いる原辰徳監督である。中尾氏の2歳下で、大学時代から親交があった。そこで1988年オフに巨人へのトレードが決まると、「中尾さん、一緒に自主トレをやろう」と誘いを受けたことが大きかったと振り返る。

「当時のジャイアンツには簑田浩二さん、有田修三さん、中畑清さんという年上がいたけど、選手のまとめ役は原でした。本当に若大将という感じで、チームワークがすごくよかった。年上の3人は別格という感じで、タツと篠塚(和典)を中心にチームは回っていました」

 新天地で馴染みやすい環境があったことに加え、当時の中尾氏には特別なモチベーションがあった。外野手から捕手に復帰できたことだ。

 もともとキャッチャーとして中日に入団した中尾氏が外野に回ることになった理由は、決して前向きなものではない。きっかけは1987年、右腕投手の鈴木孝政が先発した試合での出来事だった。

 その日の鈴木は立ち上がりからストレートが走り、3回まで無安打、与四球1と抜群の立ち上がりを見せた。中尾氏が手応えを感じながらベンチに帰って腰を下ろすと、耳元から予期せぬ指示が飛んできた。

「今日は真っすぐがいいけど、3回までは真っすぐが多すぎた。4回から変化球主体でいこう」

 ピッチングコーチの言うとおりにすると、4回、荒井幸雄にライトへホームランを打たれた。チェンジアップが内角寄りに甘く入り、見事に仕留められた。それでも後続を抑えてベンチに戻った刹那、そのコーチからまさかの言葉を浴びせられる。

「おまえ、真っすぐが走っているのに、なんで変化球をいっているんだよ!」

 はらわたが煮えくり返った中尾氏だが、その場はグッと堪えた。しかし感情を抑え切れず、試合後、星野監督の前で不満を吐露した。

「コーチの指示どおりにリードをして、打たれたら文句を言われました。このコーチの下で、僕はもうキャッチャーをできません」

 中尾氏は入団7年目から中日の正捕手を務めてきた一方、11歳下の中村武志がちょうど台頭してきた頃だった。チームにとって世代交代のタイミングでもあり、中尾氏は翌年からレフトを守ることになった。

「暇で仕方なかったです。(自分にとって)レフトは面白くもなんともなかった。体力的にも精神的にもラクだけど、オレの性に合わねえやって(笑)」

 そして1988年オフ、トレードで巨人へ行くことが決まる。星野監督が諸々の事情を察し、新天地へ送り出してくれた。

 対して巨人には、正捕手を務めてきた山倉和博が故障もあって出場試合を減らし、藤田元司監督はライバルを加えて刺激を与えたいという狙いがあった。そうした状況で加入した中尾氏は1989年の開幕マスクを任されると、伸び悩んでいた斎藤に内角攻めの必要性を説いて一本立ちさせるなど、日本シリーズ優勝に貢献。7年ぶりにベストナインとゴールデングラブ賞に選出された。

 以降は故障もあって出番を減らし、1992年途中、大久保博元とのトレードで西武へ。1993年限りで現役生活に終止符を打った。

 その後、指導者やスカウトとして西武、台湾球界、阪神などを渡り歩いた中尾氏は、「名門」と言われる球団と"それ以外"との違いをたしかに感じたという。

「西武では、レギュラー以外のメンバーがすごく練習していました。だから若い選手たちが頑張ろうとする土壌があったと思います。逆にジャイアンツや阪神は、若い選手が甘やかされるような環境でした。たとえファームの選手でも周りからちやほやされるし、野球道具も全部提供してもらえる。もちろん本人たちは努力しているけど、どうしても周りにもてはやされるので。他球団とは"外"の目が違うことも、若手が伸びにくい要因にあるのかもしれません」

 時代が移り変わるなかで球界のあり方も変わってきたが、巨人は昔も今も「名門」で、プロ野球では特別な球団だ。地上波の放送はほとんどなくなったものの、番記者の数は群を抜くなど周囲の注目度は依然最高峰にある。

 そうしたなかで、どうすればせっかく獲得した選手により多くの力を発揮させられるのか。若手が伸びる環境を整えることができるか。

 2012年を最後に日本一から遠ざかっている巨人にとって、覇権を取り戻すためにも解決策を見つけるべきテーマのひとつである。