走ることで希望を増やしたい!スポーツ義足に込められた想いとは
日本選手の活躍もあり、盛況のうちに幕を閉じた東京2020パラリンピック。スピードあふれる競技や開・閉会式でのダンスなど、アスリートのダイナミックな動きをサポートする義肢や車いすに目を奪われた方も多かったのではないでしょうか?
2012年のロンドンパラリンピック大会で臼井さんと谷真海選手(写真提供:臼井二美男さん)
そこで今回は日本のスポーツ義肢づくりのパイオニアとして、30年以上にわたり活躍する義肢装具士の臼井二美男さんに、スポーツ義肢やパラ選手との絆などについて伺いました。
日本代表の活躍が目立った東京2020パラリンピック。陸上競技で活躍した多くの選手が、臼井さんが30年にわたり続ける義足ユーザーを中心とした陸上チーム『スタートラインTOKYO』の出身です(東京大会の出場は鈴木徹選手、谷真海選手、中西麻耶選手、高桑早生選手)。
臼井さんは、これまで義手や義足と呼ばれる人工の手足である“義肢”を数多くつくってきました。今でこそ、ずば抜けて高い身体能力を見せる選手たちも、義手や義足をしてすぐに運動が自由にできるというわけではないそう。
「パラリンピックに出てる選手も皆、はじめは歩くことから徐々に始まるんです。まずは普通の義足で歩けるようになって、走りたい人はスポーツ義足をつけてやってみて、一歩一歩段階を踏んでいきます。鈴木徹選手なんかも、10代で怪我をしてわりとすぐにクラブに来て、1年くらいで2000年のシドニーパラリンピックに出場できたけど、それでもスポーツ義足を履くまでに3か月くらいはかかったと思う。僕も本格的につくったはじめての競技用義肢でいろいろと思い出深いですが、それからもう20年以上も前からのつき合いになりますね」
臼井さん主催の「スタートラインTOKYO」(写真提供:臼井二美男さん)
「結果的にいろいろな選手が巣立っているクラブなんだけど、谷真海選手なんかも、最初の目的はパラリンピックなんて高いものじゃなくて、歩いたり、走ったりできるようになることでした。僕も、クラブで選手を育てようなんて思ったわけではなくて、走ったり、運動したり、少しずつできることが増えていくと、みんなの顔が少しずつ変わって行くことがうれしくて、結局30年。週末はほとんどクラブに出ずっぱりですね(笑)」
パラリンピックで活躍したアスリートたちも、大変な努力を積み重ね、前を向きながら一歩ずつ進んでいったそう。そんなパラアスリートたちは、この東京パラリンピックでたくさんの感動と可能性をもらいました。
今でこそ、少しずつ競技が盛んになってきましたが、30年前の日本の常識で言えば、義足で走ることなんて考えられなかったそう。そんななか、臼井さんは、専門誌を読んだことをきっかけにスポーツ義肢に興味を持ち、新婚旅行先のハワイで製作所を探し、海外から部品を取り寄せるなど、手探りで技術を磨いていきました。
「スポーツ義肢をつくり始めたのは義肢装具士をはじめて5、6年ほどたってからですね。一般の義肢づくりの余った時間で製作していました。当時は国内になかったカーボンなど、高い部品を海外から買ってもらい、会社にも色々無理を聞いてもらいました。そして、イチから、あーでもない、こーでもないという感じで手探りしながらつくりました」
臼井さんたちがいままで手掛けたスポーツ義足
「ある日、つくったスポーツ義足を、女の子に履いてもらい走ってもらったんです。そしたらその女の子が『走れたよ』と涙を流して喜んでくれて。ほかの人に使ってもらっても、僕が思っていた以上に大喜び。その体験から、走れないと考えていた人が走れるようになることって、その人の人生を変えるのかもしれないと思い始めました。それで義肢づくりと平行して、義肢の人が仲間と一緒に練習できるランニングクラブもつくったんですね」
(写真提供:臼井二美男さん)
“走ることで希望を増やしたい”そんな臼井さんの思いからつくられたランニングクラブは、選手を目指す人から老若男女に至るまで門戸を広げ、今では全国から通うメンバーも。臼井さんの次なる目標は“自分でできる”子どもを増やすことだそうです
「義肢をつかうような障害を持った子どもたちって、どうしても様々なことを“できない”と思ってしまうことも多いと思うんです。親も気をつかったりしてしまったり、色々とできることまでやらせなかったり…それで子どもの可能性が狭まってしまうのは本当にもったいないですよね」
「スポーツ義肢を使って“走れる”“動けるぞ”という体験があると、本当に子どもたちの顔が変わります。自立できた経験があれば、そのあとの彼らの人生も、自分でなんでもできるんだという、自信に満ちたものになると思うんですね。だから、もっと多くの子どもたちにスポーツ義肢を使う機会を提供するために、頑張りたいし、保険など社会制度ももっと充実するように呼びかけなければと思っています」
<撮影/鈴木大喜 取材・文/ESSEonline編集部>
1955年生まれ。28歳で鉄道弘済会 義肢装具サポートセンターに就職。義肢装具士として通常の義肢製作に携わるほか、89年よりスポーツ義肢を製作し、陸上クラブ「スタートライン東京」を創設するなど、プロアマ問わず多くの選手の支援に携わる。2020年、現代の名工に選出。
2012年のロンドンパラリンピック大会で臼井さんと谷真海選手(写真提供:臼井二美男さん)
そこで今回は日本のスポーツ義肢づくりのパイオニアとして、30年以上にわたり活躍する義肢装具士の臼井二美男さんに、スポーツ義肢やパラ選手との絆などについて伺いました。
選手たちを支える「スポーツ義肢」の存在
日本代表の活躍が目立った東京2020パラリンピック。陸上競技で活躍した多くの選手が、臼井さんが30年にわたり続ける義足ユーザーを中心とした陸上チーム『スタートラインTOKYO』の出身です(東京大会の出場は鈴木徹選手、谷真海選手、中西麻耶選手、高桑早生選手)。
●どの選手もはじめての義足は「そろりそろり」だった
臼井さんは、これまで義手や義足と呼ばれる人工の手足である“義肢”を数多くつくってきました。今でこそ、ずば抜けて高い身体能力を見せる選手たちも、義手や義足をしてすぐに運動が自由にできるというわけではないそう。
「パラリンピックに出てる選手も皆、はじめは歩くことから徐々に始まるんです。まずは普通の義足で歩けるようになって、走りたい人はスポーツ義足をつけてやってみて、一歩一歩段階を踏んでいきます。鈴木徹選手なんかも、10代で怪我をしてわりとすぐにクラブに来て、1年くらいで2000年のシドニーパラリンピックに出場できたけど、それでもスポーツ義足を履くまでに3か月くらいはかかったと思う。僕も本格的につくったはじめての競技用義肢でいろいろと思い出深いですが、それからもう20年以上も前からのつき合いになりますね」
臼井さん主催の「スタートラインTOKYO」(写真提供:臼井二美男さん)
「結果的にいろいろな選手が巣立っているクラブなんだけど、谷真海選手なんかも、最初の目的はパラリンピックなんて高いものじゃなくて、歩いたり、走ったりできるようになることでした。僕も、クラブで選手を育てようなんて思ったわけではなくて、走ったり、運動したり、少しずつできることが増えていくと、みんなの顔が少しずつ変わって行くことがうれしくて、結局30年。週末はほとんどクラブに出ずっぱりですね(笑)」
パラリンピックで活躍したアスリートたちも、大変な努力を積み重ね、前を向きながら一歩ずつ進んでいったそう。そんなパラアスリートたちは、この東京パラリンピックでたくさんの感動と可能性をもらいました。
●ある女の子の人生を変えたポーツ義足
今でこそ、少しずつ競技が盛んになってきましたが、30年前の日本の常識で言えば、義足で走ることなんて考えられなかったそう。そんななか、臼井さんは、専門誌を読んだことをきっかけにスポーツ義肢に興味を持ち、新婚旅行先のハワイで製作所を探し、海外から部品を取り寄せるなど、手探りで技術を磨いていきました。
「スポーツ義肢をつくり始めたのは義肢装具士をはじめて5、6年ほどたってからですね。一般の義肢づくりの余った時間で製作していました。当時は国内になかったカーボンなど、高い部品を海外から買ってもらい、会社にも色々無理を聞いてもらいました。そして、イチから、あーでもない、こーでもないという感じで手探りしながらつくりました」
臼井さんたちがいままで手掛けたスポーツ義足
「ある日、つくったスポーツ義足を、女の子に履いてもらい走ってもらったんです。そしたらその女の子が『走れたよ』と涙を流して喜んでくれて。ほかの人に使ってもらっても、僕が思っていた以上に大喜び。その体験から、走れないと考えていた人が走れるようになることって、その人の人生を変えるのかもしれないと思い始めました。それで義肢づくりと平行して、義肢の人が仲間と一緒に練習できるランニングクラブもつくったんですね」
●「自分でできる」子どもを増やしたい
(写真提供:臼井二美男さん)
“走ることで希望を増やしたい”そんな臼井さんの思いからつくられたランニングクラブは、選手を目指す人から老若男女に至るまで門戸を広げ、今では全国から通うメンバーも。臼井さんの次なる目標は“自分でできる”子どもを増やすことだそうです
「義肢をつかうような障害を持った子どもたちって、どうしても様々なことを“できない”と思ってしまうことも多いと思うんです。親も気をつかったりしてしまったり、色々とできることまでやらせなかったり…それで子どもの可能性が狭まってしまうのは本当にもったいないですよね」
「スポーツ義肢を使って“走れる”“動けるぞ”という体験があると、本当に子どもたちの顔が変わります。自立できた経験があれば、そのあとの彼らの人生も、自分でなんでもできるんだという、自信に満ちたものになると思うんですね。だから、もっと多くの子どもたちにスポーツ義肢を使う機会を提供するために、頑張りたいし、保険など社会制度ももっと充実するように呼びかけなければと思っています」
<撮影/鈴木大喜 取材・文/ESSEonline編集部>
●【臼井 二美男(うすい ふみお)さん】
1955年生まれ。28歳で鉄道弘済会 義肢装具サポートセンターに就職。義肢装具士として通常の義肢製作に携わるほか、89年よりスポーツ義肢を製作し、陸上クラブ「スタートライン東京」を創設するなど、プロアマ問わず多くの選手の支援に携わる。2020年、現代の名工に選出。