日本屈指の歓楽街、新宿・歌舞伎町。朝まで眠らないその町に、世間とはほぼ正反対の時間帯に営業する「深夜薬局」がある。「歌舞伎町の保健室」とも呼ばれるその店は、いったいどんなところなのか――。(前編/全2回)

※本稿は、福田智弘『深夜薬局』(小学館集英社プロダクション)の一部を再編集したものです。

写真=iStock.com/Evgeniy Anikeev
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Evgeniy Anikeev

■眠らない街の、眠らない薬局

JR新宿駅東口。駅の階段を上がり、北の方角へと歩く。「歌舞伎町一番街」と書かれた巨大な赤ネオンをくぐると、急に、ぱあっと明るい街並みが広がる。

通りの左右には、居酒屋やキャバクラ、カラオケ店などが立ち並ぶ。観光客らしき外国人ファミリー。これから飲む店を探すカップル。仕事帰りのサラリーマン……。2019年、師走の街並は、ひとであふれていた。とてつもなくさわがしい。

そのまま歩を進め、新宿コマ劇場跡地にそびえ立つ新宿東宝ビルを越える。歌舞伎町1丁目と2丁目を南北に分ける花道通りを渡ると、雰囲気はスッと変わる。ラブホテルのネオンが光り、ホストやキャッチに声をかけられ、3メートルと静かに歩けない。にぎやかな観光地から、よりディープな「夜の街」が近づいてくる。

本書の舞台はこちら側--花道通りの北側、「夜の街」にある。そして、主人公は、いつものようにそこに立っている。

ガラス張りの店先。上階に入っている風俗店のこうこうと輝く看板が目に入る。2階はホストクラブで、3階はキャバクラだ。視線をおろし、となりの建物を見ると「ニューハーフクラブ」と看板が出ている。まわりを「夜の仕事」に囲まれている。

夜8時ちょうど。ガラス張りの店内の電気がパッとついた。引き締まった身体の短髪の男性の姿。視線を右に動かすと、いくつかの小さな箱が置かれた棚、そして小ぶりなドリンクが並ぶ冷蔵ケースが見える。

5人も入ったらいっぱいになりそうな、こぢんまりとした店内。殺風景にも思える内装だが、商品につけられたPOPや壁に貼られた新聞の切り抜きなどから、なんとなく店主の気さくさを感じる。

パリっとした白衣が見えた。「ニュクス薬局」とやさしいフォントで書かれた看板。

そう、ここは「薬局」なのだ。

■混みはじめるのは深夜2時から

「ニュクス」とは、ギリシャ神話に出てくる「夜の女神」の名前だ。その名のとおり、ニュクス薬局最大の特徴は、営業時間にある。

夜8時から翌朝9時まで。ふつうの薬局が店じまいをはじめるころ開店準備に入り、朝日がのぼりきり、多くのひとが活動をはじめるころに閉店作業をおこなう。世間とはほぼ正反対の時間帯に営業している。混みはじめるのは26時ごろから。風営法の関係でお店の多くが24時に閉まる。その後、片付けやミーティングをして、ホストやキャバ嬢などが店を出る時間帯だという。

「深夜食堂」ならぬ「深夜薬局」だ。

この深夜薬局を切り盛りするのが、中沢宏昭さん。ここの薬剤師であり、店主であり、経営者であり、ただひとりのはたらき手である。明らかに「ふつうの薬局」とは違う。いったいどんなところなのだろうか。

歌舞伎町の保健室、なんて呼ばれてますね」

■だれもが知っているようで知らない街・歌舞伎町

歌舞伎町」は、東京都新宿区に位置する日本屈指の繁華街だ。また、歌舞伎町は、象徴的な赤ネオンの映像とともに、なにかと物騒なニュースが取り上げられがちな街でもある。メディアには「暴力団の抗争」といった見出しが躍るし、「麻薬」とか、「逮捕」といった言葉が飛び交う「ヤバイ街」という印象も強い。日本を代表する「夜の街」なのである。

写真=iStock.com/ablokhin
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ニュクス薬局は、この新宿歌舞伎町=「日本一の歓楽街」のど真ん中、夜の街らしいお店が周囲を囲むビルの、1階にある。斜め向かいに目を向けると「ラーメン二郎」が列をつくっている。あたりをぐるりと見回すと、そこここでラブホテルの看板が自分の存在を主張していた。「休憩6000円〜、宿泊8000円〜」と。

食欲から性欲、金銭欲、そしてストレス発散衝動まですべてがぎゅっと押し込められた街……その一角にニュクス薬局は、ある。けれども、シンプルで地味な白い外観は、どこからみても薬局のそれで、周囲とのギャップが大きい。店に灯る照明の温度が、ここだけ少し違っているように思えた。

きらびやかな都会の夜を照らす、灯台のようにも見える。

■六本木や渋谷からの「遠征組」も

その灯台のあかりに導かれるように、夜間にもかかわらず、たくさんのお客さんがひっきりなしに訪れる。

さまざまなひとが、いろいろな目的でやってくる。病院の近くや商店街に並ぶふつうの調剤薬局とは客層がかなり違うし、化粧品や洗剤といった日用品を求め、幅ひろい年代の女性が集まるドラッグストアとも、明らかに違う。

やはり多いのは「夜の仕事」に携わるひとだ。ホスト、バーテンダー、キャバクラ嬢、ガールズバーの店員、性風俗店従事者……お客さんの7〜8割、常連客のほとんどが、こうした仕事に就いているひとたちだ。滋養強壮剤、キヨーレオピンを出勤前に飲みに立ち寄る常連客までいる。

ただ、ちょっと意外なことを店主の中沢さんが告げた。

「彼らが歌舞伎町ではたらいているかどうかは、わかりません」

六本木や渋谷といったほかの街からも、「夜の仕事に携わるひと」が集まってくるらしい。ほかの街で夜の仕事をしているひとは、勤務が終わったあと歌舞伎町にやってきて遊ぶ。けれど歌舞伎町ではたらいているひとは、「外」に出ない。仕事後もそのままこの街に留まって遊ぶことが多いようだ。

つまり、歌舞伎町には、歌舞伎町だけでなく、他の「夜の街」ではたらいているひとびとまで集まってくる、というわけだ。そして、それらのひとびとの多くが灯台の明かりに導かれるように訪れる場所。それが「夜の女神(ニュクス)」という名の薬局、である。

■多忙なビジネスパーソンも頼りにする「街の薬屋」

……とはいえ、ニュクス薬局は、「夜の仕事に携わるひと」専門の店というわけではもちろんない。立派な調剤薬局であり、街の薬屋だ。

医者から渡された処方箋を持って残業帰りに立ち寄る多忙なビジネスパーソンもいれば、他の薬局が寝静まった深夜に

「突然、具合が悪くなったんです。なにかいい薬はありませんか」

と顔をゆがませて駆け込んでくるひともいる。

「明日手術を控えているのに、飲むべき薬をもらい損ねてしまった!」

と滑り込んできたひともいた。

水商売の従業員など、ふつうの薬局が開いている時間には活動していないひとはもちろん、昼間は仕事が忙しく病院や薬局などに行く時間がとれないひとや急な体調不良に陥ったひとたちが、助けを求めてドアをくぐる。「それこそ、いろんな街から来られますよ。起きている時間帯に開いている薬局やドラッグストアがなかったり、開いていても、薬剤師や登録販売者がいなかったりしますから」

■「第一類医薬品」が深夜でも買える

「登録販売者」とは「医薬品登録販売者」のことで、2009年に誕生した新しい資格だ。ニュクス薬局の開局は2014年で、当時はまだこの資格保持者が少なかった。だから、夜間にドラッグストアが開いていても薬は買えないことも多く、ちょっとした市販薬がほしいときでも遠方の街からわざわざニュクス薬局まで買いに来るケースも多々あったのだそう。

ただし、たとえば解熱鎮痛剤の「ロキソニン」や発毛剤の「リアップ」などの第1類医薬品は、登録販売者には扱えない。中沢さんのように薬剤師の資格を持つ人間がいなければ、売れないことになっている。

ちなみに、ニュクス薬局では膣カンジダの薬「エンペシド」も扱っていて、これも第1類にあたる。歌舞伎町近辺ではここでしか手に入らない。

「とてもよく売れますね」

■家族にも言えない話を「ただ話に来る」女性たち

しかし、それだけではない。

「お客さんというか、ただ話をしにくるだけの女性も、とても多いんですよ」

と中沢さんは強調する。

「久しぶり〜」
「彼氏と別れたんだけど」
「仕事に行くの、だるいわ」

といった個人的な話をして帰っていく。薬を買いに来たついでに話し込むということもあるけれど、処方箋も持たず、市販薬もドリンクも買わず、ただ雑談をして帰っていくなんてこともしばしばある。

「彼氏に捨てられた」
「親とうまくいっていない」
「借金つくっちゃった」
「お客さんの子どもを妊娠しちゃった」

あるときには泣きながら、家族にも言えないような話をそっと漏らしていくこともある。そして、中沢さんはどんなときでも、それをひたすら「聴く」。

言うまでもないことだが、「薬剤師に話を聴いてもらう」と書かれた処方箋はない。どんなに一生懸命に話を聴いたとしても、利益が上がるわけではない。そういう意味からすれば、「聴くこと」は薬剤師の仕事ではない。収入にはならないし、むしろお客さんの回転率は下がる。経営という視点からすれば好ましいことではないだろう。

けれど、中沢さんは言う。

「お客さんの話を聴くことも、薬剤師としてあたりまえのことですから」

体調が悪くて苦しんでいるひとに薬を出すのと同じで、それによって元気になるひとがいるなら、いくらでも話を聴く。恋人への愚痴も、壮絶なカミングアウトも、なんだって「聴く」。

そして、来たときよりも明るい顔になったのを見届けて、再び「夜の街」へと送り出すのだ。

■「ただ、話を聴くだけです」

ニュクス薬局には、今日もなにかしら、「困りごとを抱えたひと」がやってくる。

まず、薬局だから当然、身体の調子がすぐれないひとが駆け込んでくる。

「処方箋の薬、お願いします」
「こういう症状があるんだけど、病院に行ったほうがいいですか?」
「風邪っぽいんですけど、市販薬ください」
「二日酔いしんどいよ、いいドリンクないかな〜」

そして、こころの調子がすぐれないひとも、駆け込んでくる。

「なんかちょっとしんどくて」
「困ったことになっちゃった」
「じつはこんなことがあってさあ〜」

けれど中沢さんは、そのふたつを分けて考えることはない。なぜなら、心身のどちらかだけ元気で健康、などはありえないから。

福田智弘『深夜薬局』(小学館集英社プロダクション)

「たとえば風邪をひいて高熱が出たら、きついとか苦しいだけじゃなく、不安になりますよね。それで人恋しくなったりするでしょう? こころと身体はセットなんです」

歌舞伎町。この不夜城ではたらくひとたちの中には、職業柄メンタルバランスを崩しやすく、不眠やうつ症状を訴えるひとがかなりいる。それは開局前から、中沢さんはある程度予測していた。

「だって性風俗って、若い女の子が好きでもないおじさんの相手をしたりするわけですよね? たとえ望んではじめたとしても、病んじゃってもおかしくない。キャバクラだってめんどくさい客はいるし、ストレスはかかりますよ。私だって酔っ払い、イヤですもん」

では曇った表情をしてドアをくぐってきたひとに、中沢さんはどう応対するのだろうか。薬剤師ではあるけれど、精神科医でもなければカウンセラーでもない。こころの専門家ではないのだ。

「特別になにをするってわけじゃなくて」と中沢さんは言う。

「ただ、話を聴くだけです」

(後編に続く)

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福田 智弘(ふくだ・ともひろ)
歴史・文学研究家 作家
1965年埼玉県生まれ。東京都立大学卒。歴史、文学関連を中心に執筆活動を行っている。おもな著書に『ビジネスに使える「文学の言葉」』(ダイヤモンド社)、『世界が驚いたニッポンの芸術 浮世絵の謎』(実業之日本社)、『よくわかる! 江戸時代の暮らし』(辰巳出版)などがある。
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(歴史・文学研究家 作家 福田 智弘)