連載『なんで私がプロ野球選手に⁉』
第4回 嘉弥真新也・前編(第1回から読む>>)

 プロ野球は弱肉強食の世界。幼少期から神童ともてはやされたエリートがひしめく厳しい競争社会だが、なかには「なぜ、この選手がプロの世界に入れたのか?」と不思議に思える、異色の経歴を辿った人物がいる。そんな野球人にスポットを当てるシリーズ「なんで、私がプロ野球選手に!?」。第4回に登場するのは、嘉弥真新也(ソフトバンク)。体重56キロの平凡な沖縄の高校球児が、球界を代表する"左キラー"に。関係者の誰もが「信じられない」と口を揃える逸話を紹介したい。


球界を代表する「左キラー」となったソフトバンクの嘉弥真新也

── 18歳の自分が今の自分の姿を見たら、どんな感想を漏らすと思いますか?

 そう尋ねると、嘉弥真新也は31歳とは思えない童顔をクシャっと歪ませて「『ありえない』......ですね」とつぶやいた。

「まさかプロなんてなれると思ってなかったし、想像がつかない世界でしたから」

 謙遜ではなく、紛れもない本心だろう。

 今や常勝軍団・ソフトバンクにとって欠かせない"左キラー"になった。6月1日時点でNPB通算354試合に登板し、推定年俸は1億4000万円と言われる。

 しかし、18歳の頃の嘉弥真は、球速は常時120キロ台前半。沖縄大会で初戦敗退する離島の高校の控え投手だった。高校時代の体重が56キロしかなかったプロ野球選手など、嘉弥真以外にいるだろうか。

 その野球人生は、まさに「石垣ドリーム」と呼ぶにふさわしい。本人や関係者の証言をもとに、その足跡をたどってみよう。

 嘉弥真が18歳まで生まれ育ったのは、沖縄県の石垣島である。野球が盛んな土地柄で、2006年には大嶺祐太(現・ロッテ)を擁する八重山商工が甲子園に春夏連続出場。離島旋風を巻き起こしている。

 大嶺の1学年下だった嘉弥真は、そのフィーバーを他人事のように見つめていた。嘉弥真が在籍したのは八重山商工ではなく、八重山農林だった。

 石垣島には高校が3校しかない。なぜ八重山商工に進まなかったのかと聞くと、嘉弥真は少し口ごもり、こう答えた。

「(入試に)落ちたくなかったんです。農高(八重山農林)なら入れるから、いいかなと思って」

 高校入試に失敗したら恥ずかしい。そんな思いが先立ったという。当然、八重山商工に硬式クラブ・八重山ポニーから好選手が集まっている事情も知っており、「すごいメンバーだとわかっていたので」と尻込みしたのも一因だった。

 そもそも、嘉弥真は幼少期から特別に目立つ存在ではなかった。小学校と中学校のチームメイトには、嘉弥真が「ずば抜けていた」と語る好選手・長間翔悟がいた。幼馴染みの長間が八重山農林への進学を決め、嘉弥真も同じ道に進むことにしたのだ。

 高校3年夏は長間がエースで、嘉弥真は控え投手兼外野手。長間に張り合う気はさらさらなく、投手へのこだわりもなかった。嘉弥真は言う。

「ピッチャーよりバッティングのほうが好きだったので。ただ左投げだからという理由で投げさせられていた感じです」

 高校3年夏の沖縄大会では初戦敗退。嘉弥真は4安打を放ったものの、投手としてはリリーフでリードを守り切れず、敗戦投手になっている。

 プロになりたい思いなど、微塵もなかった。

「就職先を探さないといけないな」

 そう考えていた嘉弥真は、恩師の砂川玄隆から沖縄本島の那覇にある不動産企業・ビッグ開発への入社を勧められた。

 翌年からビッグ開発が硬式野球部を創部し、クラブチームとして日本野球連盟に登録することになっていた。チームのコンセプトは「沖縄県内の選手の受け皿になる」。その一期生となる部員を探していたのだ。

 ビッグ開発の創業者であり、クラブチームの監督を務める下地剛は、高校3年の10月に面接を受けにきた嘉弥真のことを今でも記憶している。

「絶対に野球をやってプロになりたいとか、企業チームにスカウトされたいとか、そんな野心めいたものは感じなかったですね。あくまで就職活動の一環として受けにきた感じでした」

 下地の評価は「打者としてミート力、センスがある」という程度。メンバーが少なかったため、「投手兼外野手」として採用が決まった。午前中にチームの練習、午後からビッグ開発が管理する物件の清掃に回る生活がスタートした。

 同期入社の捕手・宮里伊吹木(いぶき)は、入社当時の嘉弥真についてこんな印象を抱いたという。

「ボールは速くないし、パッとしないな」

 宮里の嘉弥真に対する評価は「3人いる投手陣の3番目」。ただし、当時の嘉弥真は不規則に変化する「嘉弥真ボール」というチェンジアップ系の変化球を投げていた。人差し指と中指の第一関節をボールに立てる嘉弥真ボールの複雑な握りを見て、宮里は「器用なのだろうな」と判断した。裏を返せば、投手としてはそれくらいしか特徴がなかった。

 入社して1年が経ち、2年目には2人の投手が加入した。2人ともすぐに戦力になり、嘉弥真の立場は4〜5番手格まで落ちた。宮里は「本当に、どこにでもいるようなピッチャーでした」と振り返る。

 そのまま何事もなく時間が流れていれば、嘉弥真はクラブチームの平凡な一選手で終わったに違いない。監督の下地は感慨深そうに言った。

「宮里伊吹木がいなかったら、嘉弥真はプロ野球選手になれていなかったと思いますよ」

 転機は宮里がチームの主将になったことだった。

 ビッグ開発は3年で力をつけ、県内最強の企業チーム・沖縄電力に勝つことを目標にしていた。宮里は目標を叶えるために、まずは投手陣の底上げを図った。

「午前中だけの練習では足りないので、仕事が終わった後の20時くらいから自主練習を始めたんです。僕がメニューを考えて、夜中の22時くらいまで走り込んだり、ブルペンを借りて投げ込んだりしていました」

 当時の嘉弥真は、主体性のかけらもない人間だったと宮里は証言する。

「自分から進んで練習するタイプじゃありません。人から『やろう』と言われてやっと、『やるんだったらやるよ』と答えるような性格でした」

 社員寮の近くの外周1キロほどの公園をよく走った。宮里は自分の練習を犠牲にしてまで、投手陣の走り込みに付き合った。

 チームを強くしたい一心で突っ走る宮里とは対照的に、厳しい練習を課せられる投手たちは不満たらたらだった。ぶつぶつと漏れ聞こえてくる文句を無視して、宮里はさらなる厳しいメニューを課していった。

 嘉弥真は苦笑交じりに当時の心境を明かした。

「伊吹木にたくさんお酒を飲ませて酔い潰せば、明日の練習は楽になるぞ......とみんなで酒を飲ませるんです。でも、次の日の朝には伊吹木が一番に起きている。これはかなわないと思いましたよ」

 野球部手当を入れても月14万円程度の給料。それでも、嘉弥真は「給料は少ないなりに、みんなで楽しくやっていました」と振り返る。

 自主練習を始めて数カ月もすると、嘉弥真に変化が起きた。球速が目に見えて速くなったのだ。

 もともと、嘉弥真は「高校時代から変化球は得意だった」と語るほど、変化球に自信があった。ストレートの球速がコンスタントに130キロを超えるようになると、嘉弥真は自然とチームのエース格へとのし上がっていった。

 嘉弥真の器用さを物語る、こんなエピソードがある。当時、嘉弥真は同僚の投手たちと名護高の監督を務める奥濱正を訪ねている。奥濱が開発し、甲子園で一世を風靡した変化球「宜野座カーブ」を習得するためだ。2001年春、タテに鋭く曲がり落ちるカーブを奥濱に指導された宜野座高は、センバツベスト4に進出している。

 奥濱からの指導を受けて数十球も投げると、嘉弥真は宜野座カーブをマスターしてしまった。「奥濱さんが『こんなに早く投げられるなんて!』と驚いていました」と下地は振り返る。

 だが、嘉弥真はせっかくマスターした宜野座カーブをさほど信用していなかった。嘉弥真はこともなげにこう語る。

「投げ方はだいたい『こういうことか』とわかるんですけど、あとは自分のなかで必要か必要じゃないかなんで」

 嘉弥真にとって「必要」だったのは、今でも生命線になっているスライダーだった。宜野座カーブや嘉弥真ボールは、打者の目先を変えるための球種にすぎなかった。

 宮里はマウンドに立つ嘉弥真の様子が、徐々に変わってきたように感じたという。

「最初の頃と表情が全然違うんです。体は小さいのに、マウンドでは大きく見える。何も考えずに惰性で野球をやっていたような人間が、頼もしく感じられるようになっていったんです」

 入社3年目の5月。社会人野球の一大イベントである都市対抗野球大会の一次予選で、ビッグ開発は目標にしていた「打倒・沖縄電力」を果たす。先発した嘉弥真は9回を完投し、2失点に抑えた。

 嘉弥真は気合十分で大一番に臨んでいた。

「レベルアップしたのはわかっていたので、自分がどこまで通用するかなと思いながら投げていました」

 そして、嘉弥真はしみじみとこう続けるのだった。

「この試合がなければ、僕が目をつけられることはなかったんでしょうね」

 同年8月、嘉弥真は企業チームの練習に参加するよう要請される。それは社会人球界を代表する名門・JX−ENEOS(現・ENEOS)だった。

(後編につづく/文中敬称略)