鮫島彩インタビュー(前編)

 どこに向かっていくのか想像もつかなかった未曾有の苦難----。

 東日本大震災が起きた2011年に日本人の心を明るく照らしたのが、なでしこジャパンのFIFA女子ワールドカップドイツ大会での優勝だった。その勝ち進み方は、苦しさのどん底から這い上がっていく日本の未来を示しているようでもあった。地元開催で、優勝に向けて万全の準備をしていたドイツを準々決勝で延長戦の末に撃破。その勢いのままヨーロッパの強国であるスウェーデンに快勝し、決勝では絶対女王アメリカとの死闘をPK戦で制するという、劇的なストーリーで世界一まで駆け上がっていった。


当時のなでしこジャパンを振り返った鮫島彩

 あれから今年で10年----左サイドバックとして戦った鮫島彩に、あの激動の大会を振り返ってもらった。

「もう本当にすごいスピードで、何が何だかわからないうちに過ぎていった大会でした」

 鮫島のあの大会へかける想いは他の選手たちとはまた違う一面を持っていた。当時鮫島が所属していた東京電力女子サッカー部マリーゼは拠点が福島県だったため、被災の影響を受け活動休止になった。福島原子力発電所事故の影響で物理的にもサッカーができない状況に追い込まれたが、周りのスタッフの懸命の働きで、アメリカのボストン・ブレイカーズ(WPS)というプレーする場所が用意された。

「鮫島がサッカーができる環境を整える」。という周囲の想いを一身に受けて鮫島はアメリカへ。そしてほどなく迎えたのがワールドカップだった。

 こういった経緯を経てドイツへ乗り込んだ鮫島を待っていたのは、何にも代えがたいメンバーと見た世界一の景色だった。当時に想いを馳せる言葉と表情からは、ともに戦った選手たちへのリスペクトや感謝の思いがあふれ出す。

「みんなのことが本当に大好きなんです! 自分が犠牲になってもチームが勝てればいいという意識をみんなが持っていて、個人的にはもう(熊谷)紗希におんぶにだっこで、澤(穂希)さんや(阪口)夢穂に助けてもらって......。こんな私じゃチームに貢献できない、なんの役にもたっていない。もっとうまくなりたいっていうより、うまくならなきゃって、ずっと思っていました」

 なかでも鮫島が任された左サイドバックと重要な関係にある左サイドハーフにいた宮間あやには、別格の信頼度が伺えた。決勝ではアメリカを抑え込めずに鮫島らの目の前でシュートを放たれた時、『ギャー!!やめて〜!!』と2人が叫んでいたことを思い出す。

「そうそう! そういうのもすごく楽しかったんですよね(笑)」

 鮫島と宮間の連係はとにかく緻密で、それはサイドを突破されれば失点に直結する危機感の表れだった。ここまで寄せたら、このパスコースを切る。1歩2歩レベルまで突き詰め、最後は阿吽の呼吸の域にまで達していた。

「あやさんのうまさは言うまでもないけれど、タテ関係を組ませてもらって毎度、特等席でそのプレーを見られたのは幸せでした(笑)。ただ、絶対に私に要求したいことはあったと思うんです。でも、あやさんはいつも『自分がこうしてみるね』って歩み寄ってくれていた。だから、少しでもあやさんの負担を減らせるように、私もできることを増やしていきたいと思っていました。今思えば、そう思いながらプレーできるのも楽しかったんですよね。団体競技の醍醐味でしょ?」

 鮫島はそう笑ったが、それは相手が宮間だったからというのもあるだろう。

 思えばピッチ上にはこうした関係性があちこちで見られた。それがチーム全体に広がって上昇気流となり、快進撃につながっていった。

「今でもうまく表現できないんですけど、本当に不思議な力が働いていました。決勝トーナメントに入ってからは、『勝てるかもしれない』という自信とは違って、ビビっていたけど、ポジティブなビビり方というか......」

 ビビっていることに変わりはないが、みんなの心を一つにしたエピソードがある。

「私はDFなので、守備陣だけでミーティングをかなりやっていたんですけど、そこで資料として見るのが相手のストロングポイントだけを集めた"恐怖映像"なんですよ。しかも(自分たちよりも強いであろう)外国人チームがやられているモノ。『これウチらのスピードだったらどうなるんだ』って......。


縦のラインで組んでいた宮間あやとは、たくさん話し合った

 映像終了後は固まって絶句してました。そこからの、『え〜っと、これが起きたら......』と近賀(ゆかり)さんの言葉で打開策を練り始める。そりゃもう必死に。一つひとつみんなで意見を出しながら一応全部に答えを出すんです。じゃないと震えて眠れないので(笑)」

 なでしこジャパンがW杯を勝ち上がっていくストーリーの裏には、こういった"恐怖の共有"があったのだ。

「ワールドカップの直前にアメリカとの親善試合があって、ヘザー・オライリーに自分のところで2回抜かれて、そこから2失点したんですよね。そのとき『これは無理! この人に対応できない』って思ったんです」

 それがきっかけで鮫島は、より選手間ミーティングに重きを置いていく。必ずW杯本番でも同じ場面は訪れる。そこをどう攻略するかをみんなで考えたときに、全員で対応していくしかないという答えに至った。

「自分はサイドをえぐられることだけは絶対に防ぐ! それでもクロスを上げられたときのゴール前のポジションを"ここには誰"って細かく決めていったんです。(W杯)直前にやられた2シーンがあってよかったと心底思いました」

 ここまで話し合ったことで構築された連動性について、当時「対戦相手は日本守備陣をゾンビだと思っているに違いない」と選手たち自身が語っていた。何度抜かれても次々と味方がカバーしてプレスに加わるなでしこの守備は、ここから生まれた。

 そんな守備を築いていた鮫島を起用した当時の佐々木則夫監督について聞いてみた。

「実は、チームメイトに認めてもらうことに必死で『則さんはこういう監督だ』みたいなところまで、当時は気持ちが追いついていなかったんですよね。ただ、その後いろんな監督とサッカーをしてきて思うのは、則さんの人の活かし方、人心掌握術はすごいということ。私をサイドバックにコンバートしたのも則さんなので。ただ、ひとつ言えるのは、結局則さんは"持っている"ってことでしょうか(笑)。

 みっちょん(川澄奈穂美)があの大会で大活躍したり、(丸山)桂里奈さんがドイツ戦で決勝ゴールを挙げたり、そこに起用するんですから閃きがすごいです。あと(劇的な試合を生んだ)トーナメントの組み合わせもそう。とにかく持っているんですよ。それじゃないと何度も盛り上がるタイミングが訪れたことに説明がつかないですよね」

◆猶本光を突き動かすドイツで生まれた感情。来年の五輪までの目標は>>

 選手、監督、スタッフすべてのバランスがベストに保たれていたからこそ頂点まで登りきることができたのだろう。10年という月日を経ても今なお彼女の中で記憶は色あせていない。

 鮫島にとって2011年ワールドカップ優勝とは----。

「自分がサッカーをする上ですごく大切なのが"人"。スタッフも含めてあのメンバーだったから優勝できた。全力で、必死で。あのサッカーを思い返すと、いつサッカーを辞めてもいいかなって思うくらい満たされちゃうんです。それくらいの経験だった。結果というよりはその"縁"というのが自分の人生にとってすごく大きくて、その後のすべてのスタートだったと思います」

 2011年に始まり、その潮流を感じながら佐々木監督や、ともにムーブメントを起こしたメンバーと戦ったその後の5年間は、今の鮫島を形作る上で至要たる年月だった。

 現在、高倉麻子監督率いるなでしこジャパンで鮫島が後輩選手たちに示している姿には、当時鮫島自身が感じ取っていた先輩像が見え隠れする。"仲間"を想うことで生まれたあの大会のサッカーを鮫島が引き継いだように、下の世代にも引き継がれることを切に願う。

(後編につづく)