わたしたちはなぜ税金を払っているのか。筆者は、納税することで人を助けることができるから、と説いている(写真:stpure/PIXTA)

新型コロナウイルスの襲来という未曾有の災禍に見舞われている今、危機で困窮する人々に手を差し伸べるにはどうすればよいのか。

近著『人はなぜ税を払うのか:超借金政府の命運』を上梓した浜矩子氏が、私たちが税を払う意味について説く。

税金は断じて会費ではない

私の近著『人はなぜ税を払うのか』は、常々、自分に問いかけていたテーマだ。それを、そのまま本のタイトルにした次第である。


税金については、それが「国という会員制クラブに入るための会費」だとか「国の施設やサービスを利用するための料金」だというような捉え方が根強い。

この種の理解に立つと、「会費を払わないものは国というクラブの会員ではありえない」とか「自分は国の施設もサービスも利用していないのだから、税金など払わない」というような奇妙な考え方が正当化されてしまう。

驚くべきことに、徴税責任の担い手である財務省のウェブサイトをみると、そこには「まさに税は『社会の会費』であると言えます」と書かれている。これを発見したとき、私は正直なところあぜんとした。

これは大きな間違いである。会員制のクラブでは、会費を払うことが会員であるための必須条件になる。たとえ昨年分の会費までは払っていたとしても、今年の会費が未納だったらもう会員ではない。

「会費未納につき、当クラブをご利用になることはできません」と門前払いを食らうことになってしまう。会費を払わなければ会員ではなく、会員でなければクラブの建物に入ることさえできないのだ。

では、税金を払えない人はどうか。もし日本国が会費制クラブであり、税金がそれに所属するための会費なのであれば、税金を払えない人々は会員ではないということになる。会員でなければ、日本国が提供するサービスを享受することはできない。そもそも物理的な入場自体が認められないわけであるから、日本国という場所から立ち去らなければいけないことになってしまう理屈だ。

税金を払わない日本人は、日本国民でなくなるのか。日本国というクラブから追い出され、立入禁止になるのか。もしそう聞かれたら財務省はどう答えるのだろうか。ぜひ聞いてみたい。

税金と会費は違う。会費は基本的に自分のために払うものである。むろん、自分の家族や友達のために払うケースもある。だが、それも「自分が選んだ人」のための支払いなのであるから、要は疑似「自分のため」だ。

だが税金はそうではない。病気になったり失業したり、何らかの理由で税金を払えなくなったとしても、それで日本国民が日本国民でなくなるわけではない。日本国から追い出されるわけではない。政府および自治体が提供するサービスを受ける資格がなくなるわけでもない。

もちろん行政サービスにはコストがかかっている。税金を払わなくてもそのサービスを受けられるのは、誰か別の人がそのコストを負担してくれているからである。ではそのコストを負担する人、すなわち税金を払う人は、何のため、誰のために税金を払っているのか。

その人は、世のため人のために税金を払っている。税金を払えない人でも、公的サービスを享受できる状態。それを維持するために、納税者は税金を払う。つまり、自分ではなく「他者のため」に支払うのが税金なのである。ここにこそ、税金というものの本質がある。

税金は、自分のために払うのではない。世のため人のために払うものなのだ。もし国民の誰かが税金を払えなかったとしても、その分はほかの人が代わって払う。その「ほかの人」には自分が誰のために税金を払っているのかはわからない。相手を特定したり選んだりできない。それをやりたがってはいけない。ここも、税金と会費の大きな違いだ。自分の家族や友人のために会費を立て替えるのとはわけが違う。

税金を会費だと考えてしまうと、「払った分だけ見返りがあるのが当然だ」という論理も出てくる。租税会費説に立てば、人より多くの税金を納めている高額納税者はいわば特別会員ということになり、何かしらほかの人にはない特典、恩恵がもらえて当然だということになる。

これは本質的な思い違いである。そんな特典は税金には決してない。多く払おうと少なく払おうと、国の扱いも自治体の扱いも同じ。当然である。政策で金持ちを優遇するなどということがあってはならない。

政策で救うべきなのは貧しい人たちである。たくさん税金を払えるような人は、政策のお世話になる必要はない。税金は、あくまでも、払える人が払えない人のために払うものなのである。われわれ納税者はそういう納税意識、納税倫理を理解したうえで税金を納めなければならない。

ところがこの点について、わが国では国民どころか、徴税当局が決定的に認識不足で、税金は会費だなどといっているのである。徴税責任を担っている国や自治体の担当者たちが、自分たちは何のために国民に納税をお願いしているかをきちんと理解していない。今回、この本を書くにあたっていろいろ勉強した中で、私にとってこの点が最大の驚きであった。

「ふるさと納税」は歪んだ納税意識を生む

徴税当事者たちの意識の低さ、それは「ふるさと納税」なるあさましい制度の存在を見ても明らかだ。ふるさと納税では、納税側が納税対象自治体を選択する。選択基準は返礼品だ。人々は気に入った返礼品欲しさに自治体を選んで納税する。

つまりふるさと納税とは、まさに「自分の利益のために」払われている。その趣旨は本来の税金のあり方とは正反対だ。返礼品に吸い寄せられてしまう納税者も納税者だが、そもそもそんな制度を徴税する側が発想すること自体、ありうべからざることである。

ふるさと納税の論理は「税金には払った分だけ見返りが伴う」とか「高額納税者は特別会員だ」という租税会費説の論理そのものだ。お気に入りの「ふるさと」に寄付をすれば、税金をまけてもらえるうえにお礼までいただける。それも、自分が欲しいお礼を選ぶことができる。こんな仕組みを徴税側が思いついてしまう。これは何事かと思う。納税は「お買い物」ではない。徴税責任者たちは、お店の呼び込み係ではないのである。

このようなとんでもない制度が堂々と施行されているというのは、何とも情けないことだ。徴税当事者たちの意識の低さ、徴税哲学の欠如に号泣するほかはない。

だがこのような勘違いは、わが国だけのことではない。ご承知のとおり、今、世界中で法人税をめぐる国々の激しい税率引き下げ競争が繰り広げられている。「低税率」という「返礼品」を餌に外資を自国に引き寄せようとしているわけだ。

「御社のような大企業には、ぜひ、わが国にお出でいただきたい。ですから、特別扱いをさせていただきます。税金について出血大サービスいたします」。こんな構えでの外資の分捕り合戦は、すべての国々における法人税収の低下とそれに伴う公的サービスの量的質的劣化をもたらす。これでは、元も子もない。

自分たちが何のために税金を取っているのかを忘れて、企業の自己都合的減税要求に迎合する。国々のこのような姿勢の中にも、徴税倫理の欠如がにじみ出ている。毅然として、「世のため人のためにきちんと税金を払っていただけないなら、わが国に来ていただかなくて結構です」。そう言い放ってもらいたいものだ。

むろん、税金の安い国を探して本社を移そうとする企業側にも、納税倫理の欠如問題がある。彼らに多少なりとも「会社は公器」の意識があれば、こういうことにはならないはずだ。近頃は「啓蒙的資本主義」などという言葉がはやって、企業も株主サービス一辺倒ではいけないのだと声高に主張する経営者が増えてきた。彼らが本気なら、税金をまけてくれる国を自社の「ふるさと」に選んだりはしないはずである。

中井貴一さんの納税者意識

かくも嘆かわしい世の中で、ときに例外とも言える佳話を耳にするケースもある。

その1つが、俳優の中井貴一氏の場合だ。彼は東日本大震災後、被災地の方たちのために何かお役に立ちたいと強く感じた。俳優である自分にできることは何だろうと懸命に考えた。悩んだ末、1つの結論に達した。「たくさん仕事をして、たくさん税金を納めること。それが回り回って被災地の皆さんを支えることになるのだ」と。これは実にすばらしい。何の見返りも求めず、自分が恩恵を及ぼす対象を特定しようともせず、ひたすら税金を払う。世のため人のために。これぞ「人はなぜ税金を払うのか」をとことんわかった人の行動だ。

私はたまたま流れていたテレビ番組でそれを聞き、大いに感服した。これこそ「人はなぜ税金を払うのか」が、本当によくわかっている人の姿である。まさしく、貴一さんがおっしゃるとおり、税金は自分のために払うのではない。人のために払うものなのだ。税金を払うことで、われわれは苦しんでいる隣人たちを助けているのだ。

思えば、担税力のある者は恵まれている。なぜなら、納税することで人を助けることができるからである。人を助けるためにボランティアをすることはすばらしい。だが、それを実行することはさほど容易ではない。大いにその気があっても、時間を捻出できないかもしれない。助けたい人々がいる場所が遠すぎるかもしれない。だが特別なことをしなくても、普通に働いて、きちんと納税すれば、それが人の役に立つ。そのために税金というものがあるのだ。

納税する側も徴税する側も、人々皆がそう思うようになれば、日本は人々が共に生き、共に支え合うとってもすてきな国になるはずだ。もちろん、日本だけではない。世界中がそうなっていくはずである。

納税とは、要するに無償の愛の表現だ。「人はなぜ税を払うのか」というテーマと向き合って執筆を進める中で、この認識が確信に昇華した。決して見返りを求めず、より好みやえこひいきを決してせず、それが誰であるのかを決して知ろうとせずに、他者のために差し出す。それが税金だ。

人々の無償の愛の表現をお預かりしている

新型コロナウイルスの襲来という全人類的災禍に見舞われている今、われわれはお互いにいまだかつてなく、力を込め、心を込めて無償の愛を提供し合わなければいけない。そのための行動の1つの形態が、しっかりした租税認識に基づく納税だ。

徴税側には、自分たちは人々の無償の愛の表現をお預かりしているのだという意識が深く強く根づいていかなければならない。徴税責任者たちの中にこの意識が浸透したとき、財務省のホームページから「租税会費説」が消えるはずである。その日が来ることを祈る。