【ラグビーW杯】ジョセフHCを電話一本で日本代表入りさせた男 “赤鬼”が8強入りを確信する理由
ラグビーW杯開幕まで9日、連載「楕円の軌跡―レジェンド・トーク2019」第14回はNZ出身で初の外国人キャプテンを務めた“赤鬼”アンドリュー・マコーミック氏
9月20日に開幕するワールドカップ日本大会まで、あと9日。サンケイスポーツで20年以上にわたり楕円球を追い続けてきたラグビー・ライター吉田宏氏が、日本ラグビーを牽引してきたレジェンドたちの、日本代表、ワールドカップ成功への熱い思い、提言を綴る毎週水曜日連載の「楕円の軌跡―レジェンドトーク2019」。
第14回は、1999年ワールドカップで日本代表主将としてチームを率いたアンドリュー・マコーミック氏に話を聞いた。ニュージーランド(NZ)出身で、現在日本代表を率いるリーチ・マイケル主将と同じ境遇で桜のジャージーに袖を通したパイオニアは、ホームゲームで戦える“追い風”と伝統のスピードで、日本代表の8強入りを確信する。
◇ ◇ ◇
史上初の外国人キャプテンとして、ワールドカップで桜の戦士たちを牽引したマコーミック氏は、いつもの柔和な表情で語り始めた。
「南アフリカ戦をみても、日本代表はいい感じだと思います。いい勉強になったんじゃないかな。ハイパントの処理、スクラムなどを考えると、南アフリカはいい相手でしたね。差はついたけど、ネガティブに考える必要はない。これから2週間でやらないといけないことがわかった試合です」
現役時代に“赤鬼”などと呼ばれたマコーミック氏だが、それはプレーの激しさを形容したもの。誰からも愛され、柔らかい物腰はいまも変わらない。
NZから来日する前には、名門カンタベリー州代表で主将も務めた。父親のファギーさんはオールブラックスでも活躍して、祖父から3代でのNZ代表入りが期待されていたが、当時のオールブラックスはマコーミック氏と同じCTBにウォルター・リトル、ジョー・スタンレー、フランク・バンスら名手と呼ばれた猛者揃い。代表セレクションで厚い壁に阻まれてきたマコーミック氏は、気持ちを切り替えるために短期の海外でのプレーを選択した。
梨で空腹を満たした“赤鬼”、2年でのNZ帰国を返上して日本代表闘将へ
「最初はイタリアか南アフリカでプレーするつもりだった。でも(移籍交渉で)決まったのは日本だった。1年目は、生活や練習の環境が違うんでキツかったね。早く帰りたかったし、選択を間違えたと思った」
当時は、まだ日本でプレーする外国人選手は多くなく、十分な情報を得られずに来日。食べ物が口に合わず、ニュージーランドで食べていた洋梨と味の似た梨で胃袋を満たす時期もあった。
来日時は、2年プレーした後に、再びNZに帰国してオールブラックス挑戦を考えていたマコーミック氏だが、日本のラグビーにも慣れた2シーズン目は東芝府中(当時)の中心選手として活躍。メンバーとの絆も強まり、同シーズンに全国大会で優勝を逃したことで、当初の予定を変更して日本での挑戦を続けることを決めた。
“赤鬼”という愛称の由縁ともなったハードタックルで、周囲では1995年ワールドカップでの日本代表入りを期待する声もあったが、マコーミック氏は「まだ日本協会の中でも、いろいろあった」と振り返る。
95年大会後に国際ラグビーボード(IRB)はプロ容認へと舵を切ったが、当時の日本ラグビー界は依然としてアマチュアリズムを厳守していた。外国人選手についても、第1回ワールドカップから活躍するシナリ・ラトゥのような留学生選手と、企業チームと契約した助っ人外国人を差別化するような風潮も一部にはあった。
その前近代的な“呪縛”を解き放ったのが、95年大会後に代表を指揮した山本巌氏であり、1年でバトンを受け継いだ平尾誠二氏だったという。
「いまリーチが代表主将になっているから、最近はよく初めての外国人主将ということも聞かれるけど、平尾さんとは1度もその話をしたことはなかった。外国人という意識は、スタッフにも僕にも全然なかったんです。東芝でもキャプテンをやっていたし、平尾さんからは、ただ『あなたが一番いいと思っている』と聞きました」
いまや確認することはできない平尾氏が考えた任命理由だが、おそらくマコーミック氏がプレーヤーとして、そして人間として、日本代表のスキッパーに相応しいと判断していたのだろう。
ジョセフ氏の日本代表入り決めたマコーミック氏の電話
日本ラグビー史に永遠に刻まれるであろう、初の外国人主将となったマコーミック氏。だが、その任命のタイミングはあまりにも予想外で、あっけなかった。
「直接話をする前に決まっていたんです。98年かな、ジャパンとブランビーズ(オ―ストラリアのスーパーラグビー強豪チーム)との試合があって合宿をしていた。ホテルのミーティングルームに入ると、ホワイトボードにメンバーが書かれていた。その頃のキャプテンは(元木)由記雄だったけど、僕のポジションの13のところに〇があった。僕は平尾さんが、12番の由記雄と間違えたと思ってたけど、ミーティング中に平尾さんは何も言わなかった。
ミーティングが終わってから、平尾さんから残るように言われて『いろいろ考えたが、今年はアンガス(マコーミック氏の愛称)』と言われたんです。僕は『ええ? ワオ』って感じだったね。まず1シーズンやってみましょうという話しだった。でも、その週はブランビーズに勝って、チームも悪くない状態だったから続いたんだと思います。日本代表のキャプテンを任されて感じたことは、責任がある、喜びもあった。誇りも感じましたね。ちょっとサプライズもね」
マコーミック主将で挑んだ99年大会には、現在日本代表を率いるジェイミー・ジョセフ・ヘッドコーチ(HC)もメンバー入りして共に桜のジャージーを着て世界と戦った。当時の日本代表での経験が代表指揮官就任の大きな要因となったわけだが、マコーミック氏が一本の電話の逸話を苦笑交じりに教えてくれた。
「ワールドカップイヤーの99年に、平尾さんがグレアム(・バショップ)とジェイミーを代表に呼んだでしょ。あの前に平尾さんが僕に電話してきて『どう思う?』と聞かれたんです。僕は『経験が高いからいいと思う』と話したら平尾さんに『じゃあアンガスが2人に電話して』って言われて、僕がジェイミーに電話したんです」
2000年の代表選手規約の変更までは、他国の代表経験者も比較的容易に代表になることができた。そのため、95年大会ではオールブラックスの一員として活躍した2人も日本代表でプレーができたのだ。
しかし、2人のオールブラックス経験者とマコーミック氏らを擁した布陣でも、本大会では1勝も挙げることはできなかった。
「プロとアマチュアの違いがあった。でも、平尾さんは、ユニークなビジョンを持っていたし、すごく先を見ている人だったから、おもしろかった。サインプレーも工夫があった。僕をキャプテンに選んでくれた平尾さんに、感謝の気持ちを返したかった。結果が残せなかったので心悲しかったですね」
当時と、いまやベスト8入りを視野の捉えている日本代表の最大の違いを、マコーミック氏は、こう指摘する。
「一番の違いは、あの当時は一緒に活動する時間がなかった。世界のラグビーは96年からプロだったけれど、私たちはアマチュアだった。平尾さんは、きっと大変だったと思うよ。たとえば99年のパシフィック・リム(当時の環太平洋諸国が参加した国際大会)で優勝したけど、その後の代表合宿にも、選手は全然集まらなかった。1度、3日間くらい合宿して、ワールドカップ2週間前に集まりました。
僕たちは、東芝の網走合宿から合流したんですけどチームの合宿で疲れていましたね。実感としては、パシフィック・リムからワールドカップまで、チームは伸びなかった。“フォー・ジャパン(日本代表のために)”という強化のピラミッドがなかった。世界から5年は遅れていたんじゃないかな。でも、いまはキャッチアップしてきています」
ホームアドバンテージは実力プラス20%「8強はいけると思う」
進化を認める日本代表がめざす8強入りにも、期待は大きい。
「僕は、いけると思います。ジェイミーとはよく話をするけど、選手は勝つことにハングリーだし自信も持っている。彼自身そう考えてます。去年、一昨年は難しかった。でも、最近、チームはすごく安定している。悪い試合がないですよね」
アイルランド、スコットランドという強豪から最低でも1勝を挙げなければ8強入りは難しい。勝てるという最大の理由には明快に“ホーム”の有利さを挙げる。
「勝負はプール戦最後のスコットランドだと思う。ホームでの試合は、実力にプラス20%できる。たぶんスコットランドはマイナス10%でしょう。この差は絶対にある。気を付けないといけないのは、サモアでしょうね。調子は良くないけど、いいメンバーを集めることができると強いチーム。最初にスコアをされると厄介な相手になりますからね」
グラウンド外のアドバンテージがホームの熱い応援なら、ピッチ内の武器は、やはりマコーミック主将時代から変わらないスピードだと指摘する。
「日本の強みは、やはりスピードです。でも、南アフリカ戦ではブレークダウンに入る早さが、まだちょっと遅いところもあった。オンザボール(ボールの争奪状態)では、どの相手も強い。だから、そこのエリアで、日本がボールをクリーンアウトして、早く動かせると相手にとってはヤバイでしょ。もちろんセットピースもベースの部分で重要。でも、スピードがないと、日本はたぶん厳しくなる」
東芝、NTTドコモなどでコーチを務め、いまはNZのスポーツ・エージェント、ヘイロー・スポーツの日本でのGMとして、選手のマネジメントや日本とNZのチームとの提携などにも力を注いでいる。6月に日本協会副会長に就任した清宮克幸氏がプロリーグ構想を打ち出すなど変革期を迎えようとしているラグビー界で、「もっと日本とNZ、オーストラリアの様々な交流に力を貸していきたい」と南北半球の橋渡し役に力を注ぐ。選手とチーム、チーム間、そして協会同士の契約、交流には、従来以上の新たな可能性が広がっているのだ。
その一方で、将来のビジョンを聞くと、迷わずに「コーチングはやりたいですね。それは、いつも頭の中にあります」と答えた。母国NZ代表として期待されながら、日本でのプレーを選び、主将としてワールドカップの舞台にも立った経験値を、グラウンドの上で生かしたい。日本人ながら、その卓越したビジョンや先進性を認めた平尾誠二監督のもとで、主将として勝利をプレゼントできなかった無念の思いを晴らしたい。
「コーチングは毎年のように進化している。僕もグラウンドから離れているので難しい部分がある。でも、(東芝府中時代に指導を受けた)向井(昭吾)さんが、コカ・コーラの監督に戻ったから大丈夫かな」
本人は「それはないんじゃない?」と笑ったが、史上初の外国人主将が、いつか古巣の指揮を執ることを願うのは不思議なことではない。
壮大な夢の前に、心待ちにするのは後輩たちの初の8強入り。日本を愛してやまない“赤鬼”は、その躍進を信じてキックオフを待つ。
アンドリュー・マコーミック(あんどりゅー・まこーみっく)
1967年2月5日、ニュージーランド・クライストチャーチ生まれ。クライストチャーチ・ボーイズ高出身。カンタベリー州代表で活躍して、93年から東芝府中(現東芝)でプレー。96年に日本代表入りして、98年から主将に就任。通算25キャップ。2000年に現役を引退して、東芝府中HCに就任。02年に退任し同年、釜石シーウェイブズで現役復帰。04年で再び引退。09年からNTTドコモHC、12年に関学大HC、16年に摂南大コーチを歴任。現職はスポーツマネジメント企業ヘイロー・スポーツの日本GM。(吉田宏/Hiroshi Yoshida)
吉田 宏
サンケイスポーツ紙で1995年からラグビー担当となり、担当記者1人の時代も含めて20年以上に渡り365日欠かさずラグビー情報を掲載し続けた。ワールドカップは1999、2003、07、11、15年と5大会連続で取材。1996年アトランタ五輪でのサッカー日本代表のブラジル撃破と2015年ラグビーワールドカップでの南アフリカ戦勝利という、歴史に残る番狂わせ2試合を現場記者として取材。2019年4月から、フリーランスのラグビーライターとして取材を続けている。長い担当記者として培った人脈や情報網を生かして、向井昭吾、ジョン・カーワン、エディー・ジョーンズら歴代の日本代表指導者人事などをスクープ。
