張禧嬪(チャン・ヒビン)が粛宗(スクチョン)の息子を産んで起こった騒動とは?

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1688年10月27日、一介の女官から粛宗(スクチョン)の側室になっていた張禧嬪(チャン・ヒビン)が王子を出産した。それが、後の20代王・景宗(キョンジョン)である。粛宗にとっては、27歳になって初めての息子だった。彼の喜びも尋常ではなかった。

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粛宗は生まれたばかりの息子を早く「元子(ウォンジャ)」にしたいと考えた。王の後継者のことは正式に世子(セジャ)と言うが、その世子になる第一の候補が元子なのである。

1689年1月10日、粛宗は重臣たちを招集した。息子を元子にすることを認めさせるためだった。

ドラマ『チャン・オクチョン』に登場する張禧嬪(女優:キム・テヒ)

ただし、王子が生まれてまだ2カ月半しか経っていなかった。しかも、側室が産んだ子供であることが重臣たちを悩ませた。この時点で正室の仁顕(イニョン)王后は21歳だった。病弱とはいえ、これから子供をもうける可能性も十分高かった。

「もう少し様子を見て、王妃が王子を産むのを待つべきです」

それが多くの重臣たちの率直な気持ちだった。それを受けて、粛宗は居並ぶ重臣たちを見回してからこう言った。

「後継者をまだ決められないので民心が落ちつかないようだ」

粛宗はさらに言った。

「今日こそ元子を決めたいと思っている。もし異議をとなえようとする者がいるなら、官職を返上してただちに立ち去れ!」

反対を認めないほど口調が強硬だった。

重臣たちは「イエスマン」ばかりではなかった。彼らは官職と命をかけて王に意見することもいとわなかった。それが朝鮮王朝の伝統でもあり、そうした見識をもっていたからこそ、高官たちは王に対しても強い影響力を保持できたのだ。

このときも異議が続出した。重臣たちの間では「王妃はまだ若いので、元子の決定を急ぐべきではありません」という主張が多かった。

王と臣下が対立した。粛宗は次第に憤慨してきた。

「古来より“不孝の中でも後継ぎがいないのが一番の不孝だ”と言うではないか」

粛宗は重臣たちをにらみつけた。

「余の年はもうすぐ30だ。後継ぎがいないので日夜心配していたのだが、ここでようやく王子が生まれた。それなのに、なぜ元子に決めるのが早すぎるというのか! 」

粛宗は興奮しながらさらに語り続けた。

「去年の5月に夢の中にある男が出てきたので、“息子はいつ生まれるだろうか”と尋ねたら、“すでに懐妊しています。男の子です”と男が答えた。このときは本当にうれしかったし、その夢が現実になったのだ。早く元子に決めたいのは当然のことである」

ここまで粛宗が言っても、「もっと広く議論して決めたらどうですか」と重臣たちは慎重だった。しかし、粛宗は押し切った。

「すでに余が決めたことである」

そう言い切って、粛宗は初めての息子を元子にすることを決定した。誰の目から見ても、「王があせりすぎている」と思えたが、粛宗は反対意見をすべて封じた。

そして、翌年に張禧嬪は王妃にまで昇格する。以後、彼女が死罪になる1701年まで王宮の中では騒動が絶えなかった。

(文=康 熙奉/カン・ヒボン)