向正面から世界が見える〜
大相撲・外国人力士物語
第1回:鳴戸親方(2)

 ブルガリア出身の初めての大相撲力士として、大関まで昇りつめた琴欧洲。202cmの長身、握力120kgのイケメンは、「角界のベッカム」と呼ばれて、絶大な人気を得た。

 彼は、とある日本人の誘いを受けて、「体験入門」のつもりで日本にやって来た。その帰り際、瞬間的に強い”縁”を感じて、大相撲界への入門を決断した――。

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「日本に行って力士になる」と決断した私は、一旦ブルガリアに帰国し、10日間くらいで身辺整理を済ませて、2002年9月、佐渡ヶ嶽部屋に正式に入門。そして、11月の九州場所で初土俵を踏むことになりました。

 四股名は、「琴欧州」(2006年に、琴欧洲に改名)。佐渡ヶ嶽部屋の力士の四股名には、全員「琴」の字がつくのですが、ヨーロッパ出身だから「欧州」。

 私を大相撲に誘った中本淑郎さんは、「『ヨーロピアンハープ』だ! いい四股名だろう」と言っていましたが、当時日本語がほとんどわからなかった私には、四股名の意味すらわかりませんでした。

 相撲部屋での生活で一番困ったことは、日本語が理解できないことでした。

 とりあえず、最初に「おはようございます」と「おつかれさんでございます」の2つの言葉だけは覚えましたが、この2つがどう違うのかさえわからない(笑)。部屋の力士たちが話していることも、さっぱりわからない。

 ようやく日本語がわかりかけてきたのは、3、4カ月くらい経ってからです。モンゴル人の力士は、小学生用の漢字ドリルで日本語を覚えたなんて人もいるけれど、入門したばかりの私にとって、部屋の全員が兄弟子。下の者が雑用などの仕事をしなければならないから、夜9時に仕事が終わると、横になった瞬間に寝てましたね。

 それと、ゴハン、白飯が苦手だったんです。あの味がちょっとね……。冷たいゴハンだったし……。日によっては、おかずがたくさんある日もあるし、ない日もある。ちゃんこ鍋の中身までない日もあったくらいです。必死で稽古して腹が減っているのに、おかずがない。それなのに、「どんぶり飯5杯食え!」なんて言われても、地獄ですよね。

 稽古場でも、手取り足取り教えてもらえる、というわけではなかったですね。先代親方は、「気合いだ!」「頭から行け!」と号令をかけてくれるのですが、理論的なものではないんです。

 スパルタ教育っていうんですかね? 自分たちのことは自分でやる。さらに他の人(兄弟子や親方)のことまでやる。

 これが、プロスポーツなのか?

 私には、疑問に感じることが多かったです。

 というのも、ブルガリア時代、レスリングの代表チームの合宿に行った時は、ドクター2人、トレーナー3人、栄養士といった人たちがチームに帯同して、滞在先はホテル。サプリメントなどもすべてそろえてもらって、練習内容はコーチが決めたものを実践。それで、選手は、試合で結果を出す。

 アマチュアのレスリングでもこうなのだから、プロの世界はベストな環境の中で、徹底した管理をしてくれるものだと思っていたんです。

 ところが、幕下以下の「若い衆」と呼ばれる力士でいる限りは、自分の時間が持てず、兄弟子にこき使われ、給料ももらえない生活が続く。

 そんな環境、いつまでもガマンできるわけがないじゃない? だから、1日でも早く関取になって、この環境から抜け出さなければいけない! と思ったんです。

 それには、常に目標を持って、その目標に向けて、一生懸命やること――。

 相撲部屋の生活は、昼のちゃんこが終わったら、昼寝の時間です。そして、夕方4時から5時まで掃除して、5時から6時の夕飯までの1時間、自由な時間があるんです。

 その自由時間、他の力士たちは鼻ほじったり、マンガ読んだりして、ボケーッとしているんですが(笑)、私は筋トレの時間に充てていました。私は他の力士(だいたい15歳で入門)よりも4年遅く入門しているから、早く追いついて追い越したいという気持ちが強かったんです。


角界入りした当時の鳴戸親方(元大関・琴欧洲)photo by Kyodo News

 そうして2003年の初場所(1月場所)、初めて番付についた序ノ口の土俵で7戦全勝で優勝。

 ところが、2月の稽古で右ヒザを亜脱臼してしまい、3月の春場所(3月場所)が始まる直前まで、ギプスをして松葉杖をついているという状況でした。

 当然、親方からは、「カロヤン(本名)、休場しろ!」と言われたんですが、休場してしまったら、序ノ口に落ちてしまうから、私は強硬出場することにしました。

 というのも、当時の部屋のルールで、携帯電話、自転車、パソコンを持つことができるのは、三段目以上となっていたから。インターネットがやりたかったし、とにかく早く三段目に上がりたい! これしかなかったんですよ。

 それで出場したら、6連勝。(最後の)七番相撲の相手は、同期生のモンゴル人力士・星風。前の場所も対戦して私が勝っているんですが、星風は私が足が悪いことを知っているから、わざと悪いほうの足に外掛けをかけてきた。まあ、向こうも必死なのはわかるけれど、優勝インタビューの時、「琴欧州には稽古場で負けたことがない」とか、嘘っぱちのことばかり話すんですよ。

 私が最初に負けたこの相撲は、今でもハッキリ覚えていますし、相撲人生の中で一番悔しかった一番です。

 無理して出て、6勝できたので、翌場所は念願の三段目に上がれました。自転車も買って、雑用もずいぶんはかどるようになりました。

 三段目は2場所で通過して、2003年秋場所(9月場所)では幕下に昇進。幕下という地位は、元十両の力士とか、実力者がたくさんいるところです。さすがに思うように勝たせてはもらえなかったのですが、2004年春場所、私は十両目前、幕下東2枚目まで番付を上げます。

 十両昇進=関取という立場になり、給料がもらえて、付け人が付くということです。

「1日も早く、この環境から抜け出したい」と、必死で稽古に取り組んできた私に、最大のチャンスが訪れたのです。

 一番相撲から、元十両の相手との対戦が組まれ、これに勝った私の二番相撲の相手は、萩原。

 萩原とは、今年1月に引退した稀勢の里の前名なんですが、彼は私より3場所早く2002年春場所、15歳で初土俵を踏んでいるんです。最初に幕下の土俵で当たった時、彼が16歳で私が20歳。体に恵まれていて、力が強くて、「本当にこの人、16歳で相撲未経験なのか?」というくらい強かった。

 萩原には、初顔(合わせ)から2連敗していたのですが、勝負を賭けた場所で負けるわけにはいきません。この相撲を制した私は、波に乗り、なんと全勝優勝。翌場所の十両昇進を決めたのです。萩原も同時に十両昇進となりました。

(つづく)

鳴戸勝紀(なると・かつのり)
元大関・琴欧洲。本名:安藤カロヤン。1983年2月19日生まれ。ブルガリア出身。2mを超える長身と懐の深さを生かした豪快な取り口と、憂いのある眼差しで相撲ファンの人気を集めた。幕の内優勝1回、三賞受賞5回。2014年3月場所限りで引退、年寄・琴欧洲を襲名。同年、日本国籍を取得し、ヨーロッパ出身力士として初めて日本に帰化。2017年、鳴戸部屋を創設し、後進の指導にあたっている。
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