純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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/1500年、歴史は大きく動いた。中世のローマ教会とヒエラルキア(神聖管理)、そして、前世紀のルネサンスとバブル国家が一掃され、宗教改革とともに、近代の国家と個人が登場してくる。このことこそ、その後の世界における欧米のヘゲモニー(覇権)の端緒となった。/


教皇の世俗化

十字軍の失敗と疫病の大流行の後の15世紀、ルネサンスとして、従来の人間観や自然観、世界観に縛られない数多くの天才や英雄が生まれた。しかし、疫病は繰り返しヨーロッパに襲いかかった。狭い地域に隔離されながら清潔を徹底するユダヤ人や、疫病を運ぶネズミを蹴散らすネコとともに町から離れて暮らす「魔女」などは、疫病の難を免れたが、かえって、彼らこそ疫病の原因と疑われ、虐殺されることも少なくなかった。

これに乗じ、教会は、教会の中世的世界観を越える天才や英雄を魔女狩りや異端審問で弾圧。だが、スペイン系ボルジア家アレクサンデル6世(1431〜教皇92〜1503、61歳)に至って、教皇みずからが実子チェーザレ(1475〜1507、18歳)を枢機卿に引き上げ、敵対者や周辺諸国を侵略と謀略で陥れ、私領を拡大。ただの世俗君主へと堕ちていく。とはいえ、この教皇、ルネサンス的な新風潮を弾圧するだけでなく、これを逆に利用して教会権威を取り戻そうと、ルネサンスの巨匠、ブラマンテ(c1444〜1514)にローマのヴァティカン大聖堂を改築させることにする。

アンジュー伯帝国やブルゴーニュ公国を支配下に収め、国内再統一を果たしたフランスのルイ12世(1462〜即位98〜1515、36歳)も、さらにミラノ公国やフィレンツェ共和国、ヴェネツィア共和国、ナポリ(旧アラゴン)王国などのルネサンス国家にも触手を伸ばし、イタリア戦争(1494〜1559)を引き起こす。また、当時の学者ときたら、役にも立たない時代錯誤の神学や理想を偉そうに語るくせに、人としてまったくの役立たず、それどころか、教会や王族に媚びへつらう連中ばかり。

これらの矛盾する姿に、1511年、エラスムス(1466〜1536、47歳)は、聖書学者ながら、教会や王族、学者を風刺する『痴愚神礼讃』を出版し、人間の根底にある愚かさを暴いて笑った。いや、専門的な見識に欠けて愚かとされている凡庸な常識の方こそが、むしろじつは皮肉にも教会や王族、学者の屁理屈よりまともであることを示した。


宗教改革

1513年、フランスに脅かされていたフィレンツェのメディチ家が、教皇レオ10世(1475〜教皇1513〜21、38歳)を出す。彼は、まさにルネサンス教皇らしく、ヴァティカン大聖堂の改築を本格化させた。その資金調達のため、メディチ家に連なるアウグスブルクの銀商フッガー家、ブランデンブルク辺境伯(元ニュルンベルク城代伯、旧チュートン騎士団)ツォレルン家に免罪符(贖宥状)の発行を認める。

これは、教皇の鍵権(天国の門への推薦権)によって、現世の罪が許される、というものであったが、いまさらだれもそんなものを信じていない。しかし、これは、魔女狩りとセットになっていた。ツォレルン家支配都市マインツ大司教区などでは、異端の密告が奨励されていた。魔女は空を飛ぶから軽いはずだ、として、容疑者を鉄カゴに入れ、川に沈める。もし浮かべば、魔女なので火焙り。沈んだら、疑いが晴れ、魂は救われた、とされた。いずれにせよ、その実験費用は、本人の財産で賄われ、教会と密告者で山分け。だから、次々と金持ちが狙われた。この密告や処刑を防ぐには、先に大量に免罪符を買って、魔女ではないことを証明しておく必要があったのだ。

しかし、異端追求は、本人はもちろん亡き先祖にまで及んだ。それで、免罪符もまた、地獄に落ちた先祖まで救える、とすることになった。だが、1517年、ヴィッテンベルク大学の田舎教授ルター(1483〜1546、34歳)が、純粋に神学的な見地から噛みついた。死んで地獄に堕とされた者は、神の最終判断の結果であって、推薦者にすぎない教皇が、神の最終判断を覆すとは、神に対する教皇の越権だ、と。

教皇レオ10世は、商売のジャマと激怒。ところが、ルターは、もとより教会のドイツ支配を不満に思っていたザクセン公らに匿われ、免罪符を売っていたブランデンブルク辺境伯さえも、手のひらを返してルターを支持。ルターは、聖書をドイツ語に翻訳し、「教皇」などという地位が聖書には無いことを人々に知らしめ、キリスト教をイスラムのように個人が持ち運べる信仰に変え、教皇や善行ではなく個人の信仰によってのみ神と正しい関係となるという信仰義認説を唱えて、ついにはローマ教会から独立。

おりしも1519年、オーストリア・ハプスブルク家のカール五世(1500〜皇帝19〜56、19歳)が神聖ローマ皇帝に即位。生まれたのはフランドル、育ったのはスペイン、話す言葉はフランス語。これが、カスティリア(スペイン)王国、ブルゴーニュ公国、ミラノ公国、アラゴン連合王国(地中海北岸・サルディニア島・シチリア島・イタリア南半)のような、かつてのルネサンス国家をひとまとめにし、突然に、フランスを東西に挟む強大なパプスブルク帝国を出現させ、教皇を牽制した。

外交官マキャヴェッリ(1469〜1527、47歳)は、新興強国のフランス王国とハプスブルク帝国の狭間で揺れるフィレンツェにあって、16年、『君主論』を記し、権謀術数に長けたイタリア絶対君主の必要性を説いた。実際、海外では愚行蛮行を恥じず、個人の欲望を剥き出しにしたスペインのコルテス(1485〜1547、36歳)が21年にメキシコのアステカ帝国を略奪、ピサロ(c1470〜1541、c63歳)が33年にペルーのインカ帝国を滅亡させる。

また、スイスのジュネーヴでは、ルターの影響を受け、若きカルヴァン(1509〜64)が、教会を街の長老たちの自治とし、やはり教皇や善行を否定して、神のみにすべての決定権があるという救済予定説を採り、個人個人が神からの使命としての職業に励むことを促した。これらとは別に、英国のヘンリー八世(1491〜1547、40歳)は、自分の離婚を教皇が認めないことに腹を立て、1531年、自分が英国の教会の首長となり、教会財産を没収して、絶対君主政を始める。

カトリック側でも、34年にイエズス会が結成され、教会改革に乗り出す。彼らは、ヨーロッパはもちろん世界各地に一般市民のための教養学校を設立し、聖書を各国語に翻訳するのではなく、教会のラテン語の方を人々に開放する。これとともに、それまで天才たちのみが享受してきたルネサンスの徳育を普及。ルターやカルヴァンの個人的信仰に対し、社会としての宗教の必要性を改めて訴える。

ただイエズス会も、「霊躁」(魂の体操)という特殊な個人修養の方法を採っていた。これは、ルターやカルヴァンに似て、イエスの教えのとおり、個人個人が瞑想によって神の意志を理解できる、というもの。この方法によって、これまでの修道会と違って、イエズス会士は、遠い異国の現場にあっても、教皇からの命令通信を待つことなしに、各自が即断即決で最適の行動をとることができた。(そのために、後で独断専行として揉めることも少なくなかったのだが。)


都市貴族と領邦君主の宗教戦争

16世紀後半になると、ヨーロッパでのカトリックとプロテスタントの宗教戦争は、政治状況が絡んで、複雑な様相を帯びてきた。1555年のアウフスブルクの和議において、領邦君主ごとに宗教選択権が与えられた。だが、領邦君主というのは、世襲や叙任によってどこぞの地名を肩書として持つのみで、その地方をまとめて実効支配していたわけではない。それどころか、その地名のところに城や宮殿が無いばかりか、あちこちばらばらの飛び地だらけで、肩書地名のところに生まれて一度も行ったこともないなどという公や侯も珍しくなかった。くわえて、主だった都市は、中世以来、自治権を持ち、事実上の独立共和国として都市貴族(富裕市民だが正規の貴族ではない)たちが、その周辺の村落まで広大に支配しており、地名肩書だけの領邦君主の介入に激しく抵抗していた。

このため、領邦君主は、宗教的な信条ではなく、都市がカトリックならプロテスタントを(ドイツ、イングランドなど)、都市がプロテスタントならカトリック(フランス、スイス、スペイン、イタリアなど)を恣意的に選択。つまり、宗教戦争は、各地で、中世的都市貴族vs近代的領邦君主の構図となった。領邦君主は、資金源となる鉱山や港湾を開発し、そこから新たな商業路を延伸、また、都市貴族の旧市街に対し新市街や新宮廷都市を建設した。これらの建設工事には、地元建設業者と対抗して、消滅してしまったルネサンス国家の旧十字軍商業路都市から外国人フリーメイソン(自由石工)が大量動員された。また、都市貴族がその都度のテンポラリーな傭兵で攻撃をやりすごそうとしただけだったのに対し、領邦君主は、自前で常備軍と官僚制を整え、重商主義で財政基盤を固めていった。

とはいえ、これらは、都市貴族と領邦君主の争いであり、都市庶民や地方農民からすれば、どちらが支配者か、というだけの話だった。芸術においては、下級聖職者のジャヌカン(c1480〜1558)らがコミカルで下世話な多声曲を作り、アントワープ市のブルーゲル親子(親c1525〜69、子64〜1636)が風刺寓意画や庶民生活画を描く。また、16世紀後半、宗教戦争のさなか、ボルドーの法官貴族モンテーニュが、新旧両教の君主から侍従として重用され、『エセー』を書いて寛容の精神を双方に勧める。そして、16世紀末には、ロンドン市の劇作家、シェイクスピアが、歴史に題材を採って、人間の欲望と政略、愚行と混乱の悲喜劇を舞台に乗せ、大いに人気を得た。

いずれにせよ、時代はもはや社会集団より個人個別に移っており、教会や都市を単位とする中世的、ルネサンス的な秩序は崩壊。王や公、侯を中心とする領邦単位の絶対君主制に移行する。ここにおいて、生まれ身分にかかわらず、個人の才覚で官僚制や常備軍において立身出世を求める人々が現れ、君主の方もまた、残存する都市貴族を抑え、また、競合する他の君主と戦うために、彼らを必要した。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学vol.1 などがある。)