パリで同時多発テロが起きた。今年1月に続き、これで同じ年に2回もパリはテロを許したことになる。1月のシャルリー・エブド紙を狙った事件と異なり、今回は不特定の市民を襲ったということで、パリ市民がより不安な気持ちを抱いていることを感じ取れる。

何人かの犯人は襲撃に際して、爆弾を起動して自爆した。その捨て身の攻撃を現地メディアは「Kamikaze(仏語発音でカミカズ:神風)」と呼んだ。日本語の「神風」とは元々どういうことか? 少しまとめてみよう。

第二次大戦で海外の人の記憶に残った「kamikaze」




神風は本来、神の威徳によって起こる風のこと。13世紀、当時中国大陸を支配していた王朝・元が、文永・弘安の2度にわたり日本本土に攻め入った(元寇)。その時、沖に停泊していた元の大船団は、訪れた台風に遭い大損害を被ってしまった。これをきっかけに元寇を防げた当時の人々は、この出来事を「神風が吹いた」と崇めた。

時を経て20世紀、第二次大戦で劣勢となった日本は、神風特別攻撃隊(特攻)と呼ばれる特別攻撃隊を編成する。何が「特別」なのかというと、本来の攻撃と違い、同作戦は爆弾を積んだ飛行機を敵艦隊に突撃させて損害を与えるという、生還の見込みがない必死の手段だったからだ。アメリカを始めとする敵国・連合国を、死も厭わない特攻で、「神風」が吹いた元寇の時のように叩くという意味をもって名付けられた。この必死の戦術は連合国側に大きな印象を与え、「Kamikaze」という単語は海外の人々の記憶に残った。

さて問題はここから。日本の特攻は軍隊と軍隊の衝突だ。しかし今回のテロの場合、一般市民に対する攻撃である。市民を標的にした自爆テロに対して同じように「Kamikaze」と呼ぶことは、日本人の心境的に「疑問を感じる」というのが、「Kamikaze」問題の論点である。

フランス語で「Kamikaze」は、どういう意味で捉えられているのか? またフランス人は実際、神風特攻隊と自爆テロリストを同一視しているのだろうか?

変化する言葉の意味




ロベール仏和大辞典によれば「Kamikaze」 とは(上述した歴史的意味の他に)「命知らずの人、向こう見ずの人」という意味で、1950年頃から使われているとも書かれている。様々なフランス人に、実際どういった文脈でこの「Kamikaze」を使っているか聞き込んでみても、同様の答えが返ってきた。「Kamikaze」を「向こう見ずの人、転じて自爆」という意味だけでなく、「テロリズム」の意味を含んだ「自爆テロ」の印象で捉えている人がほとんどだった。仏メディアにおいても、このような文脈で頻繁に使用されている。

また「Kamikaze」という単語は、日本語を学んでいるフランス人でなくでも、それが日本語由来であるということを認識している人はいる。ただし漠然とした理解の人も多く、すべての人がこれを日本語であると知っているわけではない。「Kamikaze」を日本の神風特攻隊を連想して使っているかどうかも人による。日本の文化や歴史に少し明るく、特攻隊の断片的なイメージから「Kamikaze」という単語を自爆テロ犯に用いるケースもあるし、日本の特攻隊のイメージと別に、すでに日本語と異なる意味になったフランス語の「Kamikaze」という単語を、その用法通りに使っている人もいる。

いわば「Kamikaze」は、日本語とフランス語の2言語間において、本来使われていた意味から派生した空似言葉(faux ami フォザミ:語形は同じだが意味が異なる言葉)だ。「Kamikaze」以外の空似言葉だと、例えば「Zen(禅)」などが挙げられる。日本語で「禅」は「禅宗、または精神を集中して無我の境地に入ること」だが、フランス語の「Zen」は「静かな、ゆったりした気分になること、冷静でいる」と意味が少し変化する。

言葉が広がっていく時、このような意味の変化が生まれることはよくあることだ。それがたまたま今回は、日本人にとって少々敏感な背景を含む単語であった。こういった言葉の広がりを、客観的立場から「面白い」と思うか、「日本語が誤って外国に伝わることは良くない」と感じるかは人それぞれだろう。しかし、これら言葉の変遷を通して、新しい言語文化が生まれていくことも、また事実である。
(加藤亨延)