純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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 選び直しだ。もともと応募作に規定違反があり、当然、評価から外すべきものを追認してしまったところからおかしくなった。フェアプレーこそが最高の理念であるべき競技場のデザインコンペがフェアプレーの精神に反していたなど、言語道断。こんな不正を犯した審査員たちは、審査員としての資格が無い。くわえて、こんな不正を犯すような審査員たちを審査員に選出した人々も、二度とこの件に関わるべきではない。違約金、という意味でなら、たとえその後にいくら審査員が追認したとしても、もともと規定違反の作品を応募してきて選定をここまで混乱させた、プロとしての良識に欠けるデザイナーの方に請求したいくらいだ。


 なんにしても、競技場は、遠からず死んでいくババアやジジイが名を残すための墓石や古墳じゃない。まして行政とゼネコンが利権を貪り合うお宝山でもない。そこは、日本の、そして世界の若者たちが集い、持てる力の限りを発揮して、人間の尊厳を歌い上げる聖地だ。そこでは、努力のうちに見出される喜び、よい手本となる教育的価値、社会的責任、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重に基づいた生き方が創造されなければならない。年寄りたちが好き勝手に作ってしまって、その借金まで彼らに負わせる、などということがあっていいわけがない。


 あれだけ戦後の発展を重ねてきていながら、残念ながら、いまの日本は、いまの若者たちに、ポンと現ナマで、彼らの活躍と活動の場を作ってやることができない。実質的には、すべて借金で賄うことになる。つまり、回り回って、若者たちが自分たちで、その建設費を税金として払っていくことになる。正直なところ、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。せめて、彼らが払って作って使うものである以上、彼らに選ばしてやりたい。


 ポストモダンだ、挑戦的構造だ、建築学における国際的評価が、などという能書きは、もう結構。評価というのは、次の次の時代がするものだ。終わっていく世代の意見などというものは、屁のつっかえにもならない。同時代に高く評価されるものなど、後世には、凡庸な亜流、ないし、奇抜なだけのやり過ぎの悪趣味、と見なされるのが一般的だ。逆に、本当に時代を先取りしたものは、むしろ同時代では評価しきれない。


 審査員たちは、例のデザイン案を斬新だと思ったらしいが、私の世代ですら、あれは、レトロフューチャー、過ぎ去った未来、昭和人たちの妄想の21世紀、という印象だった。あんな古くさいものを、いまさら本気で作るのか、と、驚いた。そもそも、日本に作るのに、まったく日本的じゃない。もちろんデザインをするのが外国人でもかまわないが、あれだけの巨大建造物に日本的な美しさがかけらも無いのであれば、そんなもの、日本のまん中に作ってほしくない。どこか外国でやってくれ。


 いや、私も、もはや若者たちより先にこの世を去って行く側。それも、彼らにこの国の積もり積もった莫大な借金を負わせて。自分の意見を言うのは止めておこう。競技場は、若者たちが使い、それも若者たちがその建設費を払う。使いもしない、カネも出さない年寄りたちは、その選定から手を引くべきだ。彼らに、自分たちの未来、自分たちの聖地のデザインを選ばせるべきだ。たとえそれがどんなデザインのものであろうと、それが予算内で収まり、機能性で足りるものであるのなら、我々は一切、よけいな口出しをせず、彼らの夢がそのまま実現できるように、サポートしてやる、というのが、筋ではないのか。



(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)