村山 昇 / キャリア・ポートレート コンサルティング

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◆観点〈1〉 FoMO〜見逃すことの喜び
最近の米国で話題となっているバズワードを2つ─── 「JoMO」 (ジョーモと発音:日本では石油会社と取り違えそうですが)と 「FoMO」 (フォーモと発音)です。

私自身、携帯電話はいまだガラケーを使っています。ノートパソコンも仕事で持ち歩いていますが、モバイル通信機能はつけていません。基本的には仕事場のパソコンに向かっているとき以外はネットやメールを見ない生活です。

もちろん仕事上、知識や情報は積極的に得なくてはなりませんが、(印刷物としての)本や新聞を読み、必要に応じてネットで検索・閲読すればおおよそ困ることはありません。SNSはときどきながめるだけですが、かといって人付き合いが悪くなるわけでもありません。このような情報を取り込まない生活は意図的にやっているというか、そうすることが単純に気持ちいいのでそうしています

そんなおり、今年初めにアメリカで出版されたのが、Christina Crook著『The Joy of Missing Out: Finding Balance in a Wired World』。───「見逃すことの喜び〜接続世界のなかでバランスを見出す」といった感じでしょうか。

この本に先立つ2011年ごろ、米国で話題に上りはじめたバズワードが「FoMO」(Fear of Missing Out)でした。そう、「情報を見逃すことの恐怖」。ネットに四六時中自分を接続していないと取り残される、チャンスを逃す、他人はその間に成功に近づいていくかもしれな いという焦りでした。で、その「FoMO」に対して、数年越しで出てきたのが、この「JoMO(Joy of Missing Out)」というわけです。いや、見逃すことは喜びに通じている、という提案は私もおおいに共感。東洋的には「断捨離」の潔さというところでしょうか。



◆観点〈2〉 Study to be quiet|静かなることを学べ

“Study to be quiet”

───もともとは聖書のなかの言葉らしいのですが、アイザック・ウォルトンが『釣魚大全』(1653年)で用いたことで、より一般に知られる言葉となりました。

中学生でもわかる簡単な4つの英単語の羅列ですが、とても深い空間を持つ言葉です。「努めて静かであれ」「穏やかであることを学べ」「泰然自若と生きよ」など意訳もさまざまあります。

人生の最終目的地は、どんな国で暮らし、どんな職業に就き、どんな家を持ち、どれほどの財力を手に入れようとも、この“quietなる境地”にたどり着くことではないかと、この言葉は問うているように思えます。この場合の“quiet”とは、なにも苦労がない、なにも悩みがないという意味での「静か・穏やか」ではない。むしろ、いまだ苦労も絶えない、悩みもさまざまあるが、それでもおおらかに構え、それらのことに動じずに生きていける心の強さをもったときの「静か・穏やか」です。だからわたしたちは死ぬまで、“Study to be quiet”の継続なのでしょう。

ただ、わたしたちは凡夫だから、なかなかふだんの生活のうえで“quiet”になれない。むしろ“quiet”が怖いために、いろいろな刺激や興奮で時間を埋めようとする。そこでウォルトンは「釣魚」を勧める。それによって“quietなる境地”を一時(いっとき)でも学びなさいというわけです。私は釣りと並んで「登山」も強く推したい。

釣りも登山も、肉体的な負荷にさらされ、外界の状況を刻々と察知していくという意味では動的です。しかし心には忍耐と沈思が求められ、きわめて静的である。釣果や登頂といった結果は、長い長い「静かな時間」の末に、ごほうびとしてやって来る(ときに、やって来ない)。

釣りや登山が与える最高のものは、「釣れた!」「登った!」という感動よりもむしろ、おおいなる自然に抱かれながら、一個の小さな我が大きな我と溶け合っていく、そのときのすがすがしくも力強い「静かさ」を学ぶ機会ではないでしょうか。

ちなみに、『釣魚大全』の原題は、“The Compleat Angler, or the Contemplative Man's Recreation”(完全なる釣り師:もしくは沈思する人間の娯楽)となっています。


◆観点〈3〉 孤の時間を持て

 「我々が一人でいる時というのは、
 我々の一生のうちで極めて重要な役割を果たすものなのである。
 或る種の力は、我々が一人でいる時だけにしか湧いて来ないものであって、
 芸術は創造するために、
 文筆家は考えを練るために、
 音楽家は作曲するために、
 そして聖職者は祈るために一人にならなければならない」。
     ―――アン・モロウ・リンドバーク『海からの贈物』

わたしたちはますます、「孤の時間」をなくしています。ここでいう「孤の時間」とは、自分一人になって何かを思索したり、創造したりする時間です。

少なからずの人が、一人で物事を考える、一人で何かをやることを、どこか陰にこもったカッコ悪いこととしてとらえがちです。しかし、孤の時間を持ち、自分の内面を耕したり、夢想にふけったり、何か表現物をこしらえたりすることは、豊かな人生のためにはなくてはならないものです。ゲーテは言っています───「内面のものを熱望する者は、すでに偉大で富んでいる」と。

歴史上のあらゆる偉業や名作は、たとえそれが複数の人間の手で成されたものであっても、根本は、一人の人間の「孤の時間」のなかで芽生え、醸成され、決断されたものです。

そこで提案。1日か1週間のうちで、きちんと「孤の時間」をつくってみること。私自身は寝る前の30分間とか、仕事開始前の30分間をそうした時間にあてています。そのときはもちろん情報は遮断します。夜であれば、大きな生き方をした偉人の本を読んだり、書きものをしたり。朝であれば散歩をします。そうした時間から生まれたアイデアや決断が、いまの自分の方向性の大部分を決めていると言ってもいいでしょう。


◆観点〈4〉 孤独は孤立ではない〜Only is not lonely.

「Only is not lonely.」 ───とは、糸井重里さんが主宰するウェブサイト『ほぼ日刊イトイ新聞』の表紙ページに掲げられているコピーです。

「オンリー(独自・唯一)であることは、必ずしもロンリー(孤独)ではない」。このメッセージには、噛みしめるほどに味わい深いものがあります。糸井さんはこう書いている───

  「孤独」は、前提なのだ。
  「ひとりぼっち」は、当たり前の人間の姿である。
  赤ん坊じゃないんだから、誰もあんたのために生きてない。
  それでも、「ひとりぼっち」と「ひとりぼっち」が、
  リンクすることはできるし、
  時には共振し、時には矛盾し、時には協力しあうことは
  これもまた当たり前のことのようにできる。 (中略)

  「ひとりぼっち」なんだけれど、
  それは否定的な「ひとりぼっち」じゃない。
  孤独なんだけれど、孤独じゃない。

      ―――糸井重里「ダーリンコラム」(2000-11-06)より


個性のない人びとが群れ合って、尖がった個性や出るクイを批評し、つぶすということが組織や社会では往々にして起こる。しかし同時に、「オンリーな人」たちが、深いところでつながって互いを理解し合い、協力し合うということもまた起こっている。

逆説的ですが、オンリーな存在として一人光を放てば放つほど、真の友人や同志ネットワークを得ることができます。独自性を追求する人の孤独は、決して孤立を意味しないのです。

「孤独を知る」ことは、職業人としての成熟とともに深くなる。自分がどれほどの孤独を知り得ているかは、「Only is not lonely.」という言葉を、どれだけ味わい深く咀嚼できるかで判定できるでしょう。

能力的な伸長・習熟のみが職業人の成長ではない。一個のプロフェッショナルとして屹立できるか―――これも見逃してはいけない観点だと思います。