主観的な経営は売上目的(我利)で、客観的な経営は顧客目的(利他) /小笠原 昭治
【5-1】人は、生きるために、主観的に考える
人間、誰しも、
「お腹が空いたから、何か食べよう」
「眠くなったから、ひと眠りしよう」
という生理的な欲求が働きます。
生きるための欲求ですから、生存欲求ともいいいます。
この欲求に応えるのが、飲食業や住宅業、宿泊業です。
次に、生きるため、危険を回避しようと、防衛本能が働きます。
この欲求に応えるのが、警察や消防などの行政機関だったり、医療や土木だったりします。
飢えることなく、身の危険を感じることなく、安全に生きていける環境を得られたとき、人は、愛情を求めます。
この欲求に応えるのが、サービス業です。
facebookやmixiに代表されるSNSや、結婚式等のブライダルが典型的。
ブライダル業界の他にも、たとえば、レストランはサービス業です(喰えるだけでいい一杯メシ屋は飲食業です)
それが発展すると、他人から認められたいと思うようになります。
特に、男性は、社会的な地位を求め、女性は、美を求めます。ダイエットや、肩書きや、家や、車や、宝石や、ファッションです。
それも満たされると、次に、自分の可能性を最大限に実現しようとします。自己実現です。
以上、マズローの五段階欲求説の通り、人は、生きるために、
自分の欲求に忠実に、自己を中人に、主観的に
考えます。生理的な欲求と、安全の欲求は、人間のみならず、鳥にも魚にもある生物的な根源欲求ですから、生物としての本能が、それを求めます。
その次の、
- 所属の欲求と、
- 承認の欲求と、
- 自己実現の欲求
は、人間ならではの欲求で、たとえば、
- 家庭を持ちたくて結婚する
- 誰かに認められようと仕事する
- 自己実現のためにスキルアップする
ということです。余談ですが、五段階目の自己実現(セルフ・リアリゼーション)は、アブラハム・マズローの説ではなく、心理学者であるクルト・ゴールドシュタインの説を、マズローが自論に組み入れたものといわれています。
【5-2】企業は、自社や、業界を優先して考える
いきなり、マズローの五段階欲求説から始まりましたが(マズローでなくても、マレーでも、エリクソンでも、メラビアンでも、ワトソンでも、誰でも構いませんでしたが)、人は、
主観に従って考え、行動する
生き物であることを心理学者たちは検証してきました。
- 良くいえば「自分を大切にする」生き物であり、
- 悪く言えば「テメー勝手」な生き物
です。一言に凝縮しますと、人は、
主観
的に、自分を中心に考える生き物です。
参考までに、主観の意味を、幾つかの辞書サイトで調べてみたところ、主観とは、
- 自分だけの見方にとらわれているさま
- 対象について認識・行為・評価などを行う意識のはたらき
- 自分ひとりだけの考え
- 主観に基づくさま(←この説明には、笑ってしまいました。辞書の名誉のために、辞書名は伏せますが)
主観的に考えるなんて、あまりにも当たり前すぎて、バカらしいように思えますが、それが人間の本質であり、 これが、個人の集合体である法人になりますと、
自社の考えで、自社の都合の良いように、自社を中心に
考えます。範囲を広げれば、
業界の考えで、業界の都合の良いように、業界を中心に
考えます。他社や他業界の立場では考えませんし、他人である
お客さんの立場
では考えません。それが、自然な成りゆきです。
【5-3】主観営為の例
どういうことか、よくありがちな光景に、あてはめてみましょう。
あなたが、一杯メシ屋で注文したとき、
「大盛りにして下さい」
と、リクエストしたとしましょう。
あなたの考えでは「大盛りにしてほしい」。ところが、お店の反応は、
「すいませんね、お客さん。ウチは、大盛り、やってないんですよ」
「え?差額を払うから、大盛りにしてよ」
「規則なんです。できません」
と、あなたと、お店の人、2人の
自分の考え同士がぶつかり
ます。そこで、
「ナニ言ってんだい!大盛りにするなんて、カンタンじゃんか」
と抗議しても無駄。ルールは、提供する側が作ります。ときには
- 大盛り用の什器がない
- オペレーションに支障をきたす
といった(自社にとっての正当な)理由を掲げて、現状を保守します。これが、顧客の観点ではなく、
売る側の観点で、営利追求活動が行われる、主観営為
です。その結果、お客さんは、
「じゃあ、普通盛りで、イーよ」
と言いつつも、心の中では(でも、大盛り食べたかったなあ)
こうして、不満足が発生します。
それなのに、お店の看板には「お客様の満足が第一」と掲げてあったりします(笑)
もちろん、どちらが正しいということではありません。
人は、自分の考えで、自分に都合のいいように、自分を中心に考えます
から、相反する考え方が
衝突し、解決策が見つからなかった時、どちらかが不満に思う
ようになっています。これが、CS(顧客満足)活動の難しいところです。
決して大げさな話ではありません。果ては、総力を挙げてでも、自分の考えを通そうとします。その最終形態が、戦争です。
【5-4】主観の限界と、客観の必要性
決して、人間の欲求に基づく主観営為が、悪いということではなく、主観営為は、自然な流れであり、モノが無い時代は、それで通用しました。
モノ不足ですから、大盛りどころか、食べられれば、それで充分でした。お腹が一杯になれば、満足しました。食事や、食品のみならず、市場に無いものを作れば、売れました。
「ある」か?「無い」か?の開きは大きく、正数1と、2の間隔は、等間隔ですが、0と1の間隔は、無限大。「無い」というだけで市場が成り立ちます。戦後の成長社会には、市場に無いものが沢山ありました。
ところが、成熟社会になると、「無い」ものが無くなりました。なにもかも「ある」のです。
こうなると、
主観営為は限界
に達します。ただ単に「あります!売ってます!」では、何の魅力もなくなりました。
買う側は、「ある」だけに飽き足らず、さらに
付加価値も「ある」商品を求める
ようになりました。プラスαの付加価値が必要な背景です。
付加価値を探すには、買う側が、何を考えているか、知り、
買う側の観点で、客観的に考える必要
が出てきました。客観的とは、
主観の対称
で、商売で言えば、売る側ではなく、買うお客さんのことです。
面白いことに、
客が観ると書いて客観
と読むわけですから、
客観とは、顧客の観点
と解釈できます。
【5-5】客観営為とは?客が観ると書いて客観と読む
顧客がどう観ているか、知るには、訊くしかありません。聴いて、慮るしかありません。
- 顧客の意見に耳を傾け
- 顧客の観点で考え、
- 顧客の求める商品やサービスを作り
提供する。これが、
客観営為
です。これ即ち、マーケティング。日本語訳すると、
顧客の為(利他)
が、己が為になります。
客観営為が、マーケティングであるからこそ、マーケティングは、リサーチに始まり、リサーチに終わります。
決して、主観を捨てるということではありません。主観を捨てては、自己分析できなくなります(たとえば、ターゲット - 欲しい顧客 - が不鮮明になります)し、
お客さんさえ、欲しいことが気づいていない新製品を作り出すメーカーにとっては、致命的。
主観の対称に位置する客観で営みを為すには、主観を捨てるどころか、確立しなければなりません。
主観営為は、誤りではなく、人として、法人として、業界として、当然の考え方です。が、
主観は我利
に発しますから、主観営為が、誤った方向へ向かうと、恐ろしいことになります。
自社さえ儲かれば、「客なんざ、死のうが苦しもうが、どうなってもいい」という我利我利亡者になります。
我利我利亡者も、食品テロリストにまで落ちぶれたら、お終い。
「食品テロなんて、大げさな」
と思ったら、大〜間違い。
戦意の無い一般市民を巻き込む無差別大量殺人行為は、地下鉄サリン事件以降、政治的な目的がなくても、テロ行為と呼ばれるようになりましたね?
では、神経生理機能に障害を及ぼし、最悪、死に至るメタミドホスに汚染された中国産のもち米を売る行為は『食品テロ』ではありませんか?
もしも、テロリズムなら、コメの偽装で揺れた三笠フーズの社長や、サン商事の顧問は、立派なテロリストということになります。
他にも、ミートホープ、船場吉兆など、沢山の会社が、主観営為による、誤った方向へ、経営の舵を取りました。相次いで発覚した食品偽装事件です。
主観営為は、自然な流れですから、きっと、ドコかで、今も、静かに、進行中でしょう。
そのような経営者は、主観営為の魔の手に、会社の将来を、社員の生活を、委ねる危険性があります。
毒入り商品を販売して、利益を得るなど、経営者として、最低・最悪の我利我利亡者です。 もはや、廃業や倒産では済まされません。人として、生きる価値なし。畜舎で余生を過ごすべし。
現在のような成熟社会では、主観営為に加えて、客観営為の考え方を、自社の基軸にしなければならないと筆者は考え、社是に掲げました。
あなたは、どう考えますか?