「代議士初当選以来、本というものは自分で1冊も読んだことがなく、すべて耳学問と経験則で動いた」と伝説的エピソードがあったのが、この金丸信である。甲州は山梨県の生まれ、東京農業大学出身、党人、40代半ばでようやく政界入りという、言うなら叩き上げの非エリートながら、田中(角栄)派-竹下(登)派と流れる中で縦横に存在感を示し、副総理、自民党幹事長と副総裁、防衛庁長官などの要職を務め上げた。持ち味は政治の節目節目での調整能力で、「岸信介(安倍晋三首相の祖父)が『昭和の妖怪』なら、オレは『平成の妖怪』になってやる」と豪語、表題にあるように「人間のやることで、何ともならねぇものなんかあるものか」を口グセとし,“戦績”をあげてきた。身上は怖いものなしの「捨て身」で相手にぶつかること、数々の難門を突破してみせたのであった。

 金丸の「捨て身の言葉」が生きた例を、二つ挙げてみる。
 一つは、昭和47年7月の田中角栄と福田赳夫が天下を争った世に言う「角福総裁選」である。田中は総裁選を前に政策協定で大平(正芳)派、三木(武夫)派との連合に成功したが、仮に第1回投票で田中が過半数を取れず福田との決戦投票となった場合、したたかさで鳴る三木武夫はここでの「田中支持」までは明言しなかった。そのうえで田中と三木は最後の話し合いを、東京・九段のホテル・グランドパレスで行った。田中に同行したのは金丸、三木は時に「日中国交回復」の必要性をよく口にしていた。金丸は三木に、こう口を切った。
 「三木先生。田中が日中問題をやらなかったら、私は田中派を出る。三木先生のところにお世話になってもいい。その覚悟です。国家、国民のため、どうか田中と手を握って頂きたい」
 金丸の迫力に押されたか、田中が日中国交回復に手をつけるとする「国家、国民のため」という“大義”の前に、三木は田中に握手を求めたのであった。
 金丸のそれはいささか芝居がかった手ではあったが、例えば企業でも「会社のため」がどんな異論をも押しやってしまう大義名分として、極めて“有効”であることを示したとも言えたのである。

 もう一つ。昭和57年秋の「ポスト鈴木(善幸)」で、田中派が中曽根康弘を担ぐことを決めた時だった。金丸は中曽根と徹底的に肌が合わず、「オレくらい中曽根嫌いはいない」と公言してはばからなかったくらいだった。田中派の中にも「中曽根擁立」に異論が少なくなかったが、田中派の幹事会で金丸は「捨て身」の演説をこうブチ上げ、異論を押し込んだのだった。
 「日本一の中曽根嫌いのオレが言うんだ。このシャバは、君らの思うようなシャバじゃない。親分が右と言えば右、左と言えば左なんだ。親分が右いうのがイヤなら、この派閥を出ていくほかはない」
 結局、田中派は一致して中曽根を推すことを決めたが、金丸は田中派の意向を無視するようなことがあればと、中曽根にこうクギを刺すのを忘れなかった。
 「いざという時があれば、オレはあんたと刺し違える覚悟だということを知っておいてもらいたい」
 “怖いものなし”のこの金丸の言葉に、さしもの中曽根も金丸に握手を求めたのだった。中曽根政権はその後、金丸との約束を守った形で「角影政権」のかげ口の中、約5年の長期政権をまっとうした。ロッキード事件の残滓を引きずる田中は、このことによりなお政界に影響力を残すことに成功したのであった。

 こうした一見、乱暴な「金丸手法」による調整能力は、しかし一方で計算と巧みな戦略に基づいていたと、当時の金丸に近い政治部記者のこんな証言があった。
 「動物的カンで、中国の古典の兵法書『孫子』を踏襲しているところがあった。勝算なきは戦わない、敵を知り己れを知る、まず主導権を握る、味方は集中し敵を分散させる、実を避けて虚を撃つすなわち相手の弱点を攻めるなどです。一方で、田中はロッキード事件で弱っている中でなお権力にしがみつくのを見、『田中派も世代交代が必要』と堂々ブチ上げるなどもあって、金丸の奥の深さもみていた」

 あらゆる交渉術は、“脅し”の材料をいかに質量ともに多く持つか。知っておいて損はないということである。=敬称略=

■金丸信
衆議院議員(12期)、防衛庁長官(第35代)、国土庁長官(第3代)、建設大臣(第34代)、副総理、自由民主党国会対策委員長、自由民主党総務会長、自由民主党幹事長、自由民主党副総裁(第9代)などを歴任。

小林吉弥(こばやしきちや)
 永田町取材歴46年のベテラン政治評論家。この間、佐藤栄作内閣以降の大物議員に多数接触する一方、抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書多数。