痛ましい事件から汲み取るべき本質は少年犯罪の凶悪化ではない。子供たちを守るための仕組みを崩壊させ放置してきた私たち大人と政府の責任である。

川崎市の中学生殺害事件で未成年が逮捕されたことを受けて、自民党の稲田朋美政調会長が「少年事件が非常に凶悪化しており、犯罪を予防する観点から、少年法が今の在り方でいいのか課題になる」と述べたとの報道が少し前にありました。少年法対象年齢の引き下げや加害少年の実名報道などを念頭に置いた発言だったようです。この論点提示は2つの側面で議論を呼びました。

一つは、「少年事件が非常に凶悪化している」という事実はないという指摘と批判でした。もっともな指摘で、客観的事実はむしろ反対です。日本全体で犯罪は長期傾向として減少しており、なかでも少年犯罪は(少年の数が減少していることもあり)全体的に減少、凶悪犯罪の割合も長い間低いままです。

(参考)http://kogoroy.tripod.com/hanzai.html

http://kangaeru.s59.xrea.com/

むしろ絶対数の増加に加えて元気な老人が増えた社会傾向を反映して、高齢者犯罪の急増・悪質化のほうが目立つというのが事実です。でも不思議なことに、「高齢者犯罪に対する対策」を主張する政治家はいません。

もう一つは、結論としての「少年犯罪の厳罰化」に対する賛否両論です。昨今のニッポンの世論を反映してか、少年法はこの10数年の間に何度か「厳罰化」の方向で改定されています。2000年には刑事罰対象を「16歳以上」から「14歳以上」に引き下げ、2007年には少年院送致の年齢下限を撤廃しました。昨2014年には有期刑の上限を20年にまで引き上げ、不定期刑の限度を長期は10年から15年へ、短期は5年から10年にそれぞれ引き上げました。

「厳罰化」反対論者はこうした厳罰化をしても少年犯罪は減らないと言い、賛成論者はお蔭で減っていると言い、水掛け論のままです(元々少年の凶悪犯罪数は少ないため、2000年以降の数字が減少しているのか、維持されているのか、主観次第で何とでも読めてしまうのでしょう)。

稲田政調会長が掲げた論点に対し、筋が悪いという指摘はごもっともなのですが、そんなことにこの論客が気づかないはずはありません。むしろ、わざと論点ずらしをしているのではないかと小生は疑っています。

大体、大物政治家が特定のグループ(この場合、罪を犯す可能性の高い不良少年・少女たち)をやり玉に挙げて糾弾するとき、そこには往々にして「目くらましのためのスケープゴート」という要素がかなりあります(我々は商売柄、そうした「政治的意図」を読むことが時折あります)。

それは川崎事件の本質は、貧困という事情により家庭と学校側に備わっているはずの「子どもを防御する」役割が機能しなかったことであり、それは本来政府が果たすべき役割を果たしていなかったことが原因だと非難されたくなかったということです。ここで本来政府が果たすべきと小生が考えるのは、国の宝である子供たちを守るためにシングルマザー/ファーザーの貧困対策に着手することです。

「川崎事件」の背景と経緯を簡単に確認します。母親が離婚し川崎に移住、母親と上村遼太君(13)を含む兄妹の合計6人でアパート住まいでした。中学校に上がった当初は学校にきちんと通っていた上村君ですが、やがて学校をサボり始めます。そして地域の不良少年グループに誘われて仲間に入り、学校からは足が遠のき、その分だけ不良少年グループと過ごす時間が長くなっていったそうです。

最初のうち上村君はグループのリーダー格である18歳の少年Aを慕っていたそうですが、やがて万引きなどを強要されるようになり、それが嫌でグループから距離を取ろうとしたそうです。しかし自宅アパート前から大声で呼び出されたり、少年Aから暴力を受けたりして、嫌々ながら従っていたようです。その心情を学校の友人にこぼしたところ、友人たちが少年Aを詰問し、それに怒った少年Aが上村君を呼び出し、その際に悲劇が起きたというのが事の経緯のようです。

もちろん、これは憶測や伝聞が入り混じっているマスコミ記事のストーリーですので、事実と違っている部分もあろうかとは思います。本当のところはまだ分かっていません。

ただ、関係者の証言で分かっていることは、次の数点です。上村君はグループから抜けたがっていたこと。しかし諸処の事情でそれを果たせないままに終わったこと。不登校の理由を探ろうと学校の担任の先生は母親宛に連日電話をしたが、ほとんど空振りに終わったこと。そのため、家庭の事情を学校では把握することができないままだったこと。そして上村君の母親は、介護パートとスナック勤めを掛け持ちして朝早くから夜遅くまで働いていたことです。忙しい合間を縫って祖父(父親?)の介護もしていたとの情報すらあります。

一時は学校側を責めようとした人たちは、担任ができることを懸命にやっていた事情を知ると、今度は矛先を変えて、「母親が無責任だ」と無理解で無責任かつ無慈悲な批判を書きなぐった某作家に同意していました。しかし生活費を稼ぐことに手一杯で、朝早くから夜遅くまで働いていた母親に何ができたでしょう。そんな母親の苦労振りを知っていた息子は、母親に心配をかけまいと、個人的トラブルを母親にも学校にもほとんど相談しなかった模様です。

クラスメートに人気があったという上村君が学校に行かなくなった理由の一つには、(たとえストレートないじめがなかったとしても)そうした家庭の経済事情から来る居心地の悪さがあったのかも知れません。例えば文房具などの持ち物を十分揃えられない、クラスメートが話す「○○へ遊びに行った」などという自慢話が嫌だ、給食費などを払うことが母親にとって大変だと子供心に感じた等々、色々と考えられます。

そうした事情を考えると、上村君がグループから抜けたがっていながら果たせなかったのも、肩を寄せての一家の暮らしを脅かされかねない事情があったのかも知れません。アパートに押し掛けて大声で呼び出すというのは、弱みに付け込む卑劣な手口といえます。そして「自分さえ我慢すれば」と考えるのは、いじめや暴力に遭っているこの年頃の子供にはよくある思考パターンです。

当然ながら、一番悪いのは上村君を殺害した犯人です。まだ断定すべきではありませんが、その可能性が一番高いのは少年Aおよび当夜一緒にいた少年たちです。他の2人の少年の証言が正しいのなら、少年Aは上村君を自分の支配下に置くために暴力を使い、最後にはリンチがエスカレートして殺してしまったことになります。もしそうなら彼は厳しい裁きを受けるべきです。

しかし、では彼ら不良少年たちだけが悪いのでしょうか。そんな単純な話ではないと思えるのです。上村君が殺害されてから3ケ月近く経ちますが、事件現場には今も献花が絶えません。そこで上村君の冥福を祈る人達が何人もいます。彼らは上村君の親戚でも学校関係者でもなく、生前の上村君を直接知っていたわけでもありません。単に付近の住民だということです。

でも彼らが共通して言っていたのは「不憫で仕方ない。何かしてあげられなかったのかと悔しい」という言葉です。つまり、上村君を救ってあげるようにコミュニティが機能しなかったことに、やり場のない思いを抱いているのです。住民たちのこの優しい気持ちが持続すれば、きっとこの一帯には将来、素晴らしいコミュニティが成立していることでしょう。

でも冷静になって考えてみると、コミュニティにだけ期待するのもおかしいと思えます。そもそも母親が朝から晩まで働いていながら貧困から逃れられない先進国・ニッポンって一体何でしょう。

それこそ、人間らしい暮らしを営む最低限の人権が保証されていないということですから、政府が責任を果たしていないということではないでしょうか。本来すべきは、シングルマザーなど、不当な条件で働く人たちの労働環境を改善するように持っていくことのはずです。それによって経済的に厳しい状況にある親でも子どもを守ることが可能になるのです。今の政府はそうした政策に着手しないどころか、生活保護を削減する方向に社会保障政策の舵を切ったくらい、弱者に厳しいのです。そしてそれを許しているのは私たちなのです。

改めて指摘したいと思います。稲田氏ら与党のセンセイ方がぶち上げた「若者犯罪の厳罰化」は事の本質ではありません。もしスケープゴートを血祭りにあげることで政治の無責任から市民の目をくらまそうという意図であるなら、無駄です。多くの市民はその欺瞞にすぐ気づくことでしょう。

市民の側も、政治家が「悪いのは奴らだ」と糾弾のトーンを上げるときは気をつけたほうがいいのです。矛先を変えたがっているということは、本来の責任を果たしていないことを自覚しながらも、正しい方向に進むつもりもないことを意味するのですから。