スタメン定着を果たした97年。後に世界一の監督となるルイス・フェリペ・スコラーリに見出され、ドゥンガ、サルバトーレ・スキラッチ、中山雅史といった国内外の偉大な先輩の背中を見て急成長を遂げていった。 (C) SOCCER DIGEST

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  いつのことだったかは、思い出せない。
 
 正月を西宮の実家で過ごしていた時、尼崎に帰省していた彼から誘われて、彼の地元へ遊びに出かけたことがある。待ち合わせの場所に現われた彼と、彼の友だちが運転する車で向かったのは、サッカー場だった。
 
 当時、プロであり、日本代表でもあった彼、奥大介が地元の古い仲間たちの試合に飛び入り参加するというのだ。
 
「大丈夫や、絶対にバレへん」「いや、さすがにバレるやろ」「こっちのシャツのほうが目立たへんのちゃうか」
 
 試合前から、チームメイトは盛り上がった。そして当然、奥がボールを持てば、途端にバレてしまうのだが、それでも試合は90分間行なわれた。
 
「アカン、靴下が汗でビチョビチョや。俺、代えの靴下持ってないわ」
 
 スパイクの入ったコンビニのビニール袋。奥の荷物はそれだけだった。だから、試合後は裸足で靴を履いたけれど、日中とはいえ1月のこと。「寒い、寒い」と言いながら、奥は仲間たちと商店街を練り歩く。そして、たどりついたのはカラオケボックスの大部屋。気づけば、20人以上の友だちがそこに集まっていた。
 
 大好きな仲間と、大好きなサッカーに興じる。終わればビールで乾杯。勝敗に一喜一憂する必要もない。仕事ではなく、娯楽としてサッカーを楽しむ――。
 
 尼崎で、奥大介の原点に触れたような気がした。
 
――◇――◇――
 
「萎れて枯れかけていた僕に、フェリペがピュピュっと水を与えてくれたんですわ」
 
 1997年開幕スタメンを飾った彼が、そう何度も繰り返して笑った。クラブハウスと若手選手の寮を兼ねた磐田の誠和寮の応接スペースには、終始リラックスした空気が流れていた。
 
 94年にジュビロ磐田と契約し、晴れてプロ選手となったものの、1年目、2年目は出場機会がなく、3年目になってやっとプロデビューを飾れた。
 
 95年にはU-20代表としてワールドユース(現U-20ワールドカップ)にも出場していたが、当時磐田の指揮を執るハンス・オフトから、評価されることはなかった。チームの規律、組織サッカーを重んじる監督からは、いつも怒られた。相手を翻弄する得意なドリブルも封印を命じられた。自分のプロ人生はこのまま終わるんじゃないかと考えることもあった。
 
 そんな奥の元に現われたのが、フェリペ新監督だった。勝負に強くこだわるブラジル人がチームで指揮を執ったのは半年余りだったが、その間にレギュラーポジションを獲得。チャンピオンシップに勝利した97年以降、磐田の黄金期を支える存在へと奥は成長し、98年にはフィリップ・トルシエ率いるA代表にも選出された。

【写真で振り返る】奥大介氏の勇姿
 
 しかし、アジア王者をはじめ、磐田で数々のタイトルを獲得しても、中心選手と呼ばれることはなかった。日本代表の常連選手ではあったが、レギュラーの座を手にできたわけではない。結果を手にしてもある種の閉塞感を抱いていた奥へ、移籍というチャンスが訪れた。2002年、横浜F・マリノスへの移籍を果たす。
 
 日韓W杯のメンバーには選ばれなかったが、横浜FMではキャプテンマークを腕に巻き、03、04年シーズンと連覇を達成。中心選手としてのプレッシャーを背負いながら、さらなる進化を遂げた。
 
 しかし06年シーズン終了後、戦力外通告を受ける。成績が振るわない現状を思えば、年俸のダウン提示は想定内だったが、まさかのゼロ円提示。落胆は大きかった。そんな奥の元へ、J1へ昇格したばかりの横浜FCから獲得のオファーが届いた。
 
 07年8月11日、J1リーグ第19節。日産スタジアムのピッチに奥は立った。相手は横浜FMだ。18節終了時点で横浜FCは3勝1分14敗と最下位。これほど、勝てないシーズンを過ごしたことはなかった。敗戦で沈む空気を変えるべく、悪戦苦闘が続いていた。自信を失うこともあった。それでも、解雇された相手に無様な姿は見せたくはない。奥には意地があった。しかし、1-8と大敗する。
 
 ロッカールームからバスまでの長い廊下を、肩を落として歩く奥はとても小さかった。サッカーに対する情熱の全てが抜けてしまったように見えた。その後、2試合に出場しているが、彼の現役生活はこの横浜FM戦で終わったのだと思う。拾ってくれたクラブへ全く恩返しができなかった……。そんな失意を抱えたまま、クラブの慰留を固辞し、07年シーズン、奥は現役を引退した。
 
――◇――◇――
 
「頑張っているヤツに目が行くねん。自分が高校の頃は頑張ってなかったから、『こいつ、ようやるなぁ』って応援したくなるし、チャンスをあげたくなるねん」
 
 07年秋に東京都の多摩大目黒高で指導者としてのキャリアをスタートさせた頃、そんな風に話していた。奥が監督に就任するまでは実績のないチームだったが、11年の選手権予選では、帝京高と肩を並べるまでになった。
 
 その帝京戦では、2-1でリードしたまま終了の笛が鳴ったにもかかわらず、直前の間接FKでのファウルが認められて試合が続行され、同点、そして延長戦の末に敗れた。誤審騒動として取り沙汰されるも、奥は「最後まで粘り強く戦えなかったことは事実だから」は語っている。それが勝負の厳しさ、サッカーなんだ、と。
 
 11年秋からは、横浜FCの強化部長に就任。現役時代に遂げられなかった恩返しを果たしたいと慣れないフロントワークに奔走したが、12年末に退任。その後は、刑事事件もあり、サッカーから遠ざかる生活を送っていた。

 
 先輩からは「大介」と呼ばれ、同世代には「大ちゃん」と呼ばれた。いつも奥の周りに集う若い選手たちは「大さん」と慕った。
 
 奥自身、不遇な時代を過ごしたからなのだろう。環境に恵まれなくても、立ち向かおうとする弱い立場の人間への気遣いを忘れない男だった。彼と若手との食事会に何度が参加した時のことを思い出す。
 
 ストイックさとは無縁に見える奥だったが、サッカーに対する甘えを若手に許すことはなかった。だから、出場機会に恵まれない不遇を嘆くよりも、「頑張ろう」と思わせてくれる。奥大介はそんな存在だったに違いない。そして、そういう厳しさを理解している人間だったからこそ、先輩たちにもかわいがられた。
 
「萎れて枯れかけていた僕に、フェリペがピュピュっと水を与えてくれたんですわ」
 
 心が折れそうになった時、誰かがそっと栄養を与えてくれた。奥には縁を引き寄せる不思議な力があった。それは彼自身が、縁を大切にしてきた人間だからだろう。自由気ままだけど、傍若無人さはない。実は細かい性格で、気配りの人でもあった。すぐに友だちを作る気さくな男だったが、初対面の人や記者や目上の人にはいつも敬語で話していたことを思い出す。
 
 そして、縁あってたどりついた宮古島で、奥大介の短い人生はあっけなく終わった。
 
 マラソン大会に出場する予定だったという。長距離走が得意だという話は一度も聞いたことがないし、どちらかと言えば、マラソンは奥とは縁遠い競技だと思っていた。いつも仲間と鼓舞し合い、支え支えられてきた奥が、黙々と走るなんて、と思わないでもない。
 
 けれど、宮古島の自然のなかで、一歩一歩と歩を進めながら、「めっちゃしんどいわ」と言いながらも、ランニングすることで新しい明日へと踏み出そうとする彼を想像すると、心が少し暖かくなる。きっとキラキラと輝く光を背に、走っていたに違いないと。
 
 しかしもう、彼の新しい姿を見ることは叶わない。
 
 高い技術を持った天才肌の選手だった。束縛を嫌い、自由奔放なプレーを好んだ。しかし、それだけでは結果を手にはできない。
 
 ステージ優勝7回、年間優勝4回。ナビスコカップ1回、ゼロックススーパーカップ1回。アジアクラブ選手権1回、アジアスーパーカップ1回。彼が現役時代に獲得した数々のタイトルが、彼の勝利へのこだわりを示している。プロとしてのプレッシャーと戦いながらの現役生活は、決して長くはなかった。自らが下した決断だとはいえ、選手という立場を離れたことを悔やんだ日もあっただろう。
 
 でもこれからは、ただただサッカーを楽しむことができるに違いない。その姿を目にすることはできないが、新しいピッチでボールと戯れ続けてほしい。
 
 訃報に触れたたくさんの方が、様々な言葉で奥大介を讃えている。そして、彼の遺志を継ごうという選手やサッカー関係者も多い。ゴシップ記事や憶測情報も飛び交っているけれど、彼のプレーを見、彼とともに戦った仲間、笑い合った人たちが分かってくれていれば、それでいい。
 
 奥大介が遺してくれたものを、明確に言葉にするのは難しい。でも、それが彼らしさなのかもしれないとも思う。彼を思い出せば、自然と笑みがこぼれてしまう。そんな選手だったから。
 
 大ちゃん、本当におつかれさまでした。よく頑張ったよ。そして、ありがとう。
 

文:寺野 典子(フリーライター)