鉄腕Crazy
埼玉西武ライオンズでは今日、球団史を振り返るイベント「ライオンズ・クラシック 2012」が行われる。今年のテーマは、生誕75周年を迎える西鉄ライオンズのエース、稲尾和久。稲尾の背番号24を永久欠番しにし、選手は全員24番の背番号をつける。
日米のプロ野球史上、最高の投手は誰か。
この問いに、ボクは一も二も無く、稲尾を挙げる。ルーキーイヤーから61試合に登板し、21勝。1961年には404イニングスを投げ、今でも日本プロ野球記録の42勝を挙げた。
ライオンズが史上初の3連敗からの4連勝で読売ジャイアンツを下した1958年の日本シリーズでは、稲尾は7試合中6試合に登板。うち4試合で完投したが、ライオンズが勝利した4試合全てで稲尾は勝利投手になった。
当時は投手の分業制などなく、先発投手の完投、中継登板など珍しくなかったが、稲尾のような投手はそうはいない。
いや、そもそも神様、仏様を人間と比べること自体がナンセンス。ダルビッシュ有も、ノーラン・ライアンも、かなわないだろう。
その稲尾が1975年、解説者としてジャイアンツのキャンプを視察しに、米フロリダのベロビーチを訪れた際のエピソードだ。
稲尾は米国側の歓迎パーティに招待されたのだが、「シーズン42勝の投手」との紹介に参加者は騒然。「クレージー」と、ただただ驚くばかりだった。
だが、米国から見てクレージーだったのは、稲尾だけではない。わが国全体がそうだった。
稲尾が活躍した1956〜1969年は、わが国は高度経済成長期の真っただ中。明日の豊かな生活を夢見て、日本中が遮二無二に働いていた。
その様子はアメリカ人には理解しがたいものがあったろうが、当時の日本人には夢があった。夢があったからこそ、今日のような経済成長を遂げることができた。
獅子奮迅の活躍を見せた稲尾は、当時のわが国の象徴。日経ビジネス人文庫「私の履歴書 プロ野球伝説の名将」で稲尾は、当時の様子をこう振り返っている。
高度経済成長期の恩恵を真っ先に受けたのは九州だといわれ「黒いダイヤ」と呼ばれた炭坑景気でにぎわった。福岡という何かと「濃い」土地のエネルギーが観客席に蓄えられ、私の右腕に注入されたのである。
(404イニングスを投げ、シーズン42勝を挙げた61年には)川崎さん(川崎徳次当時ライオンズ監督)は「すまんのう、おまえしかおらんのじゃ」と申し訳なさそうだった。しかしこちらは「何だ、また稼がせてくれるんじゃ」。何より「鉄腕稲尾」をみんなが待っている。人は酷使といったが、私には山笠やどんたくのごとき熱気に浮かれた祭りの日々だった。
そんな稲尾も1969年で現役を引退。70年からは5年間、監督としてライオンズの指揮をとったが、球界を巻き込んだ八百長事件の「黒い霧事件」、西日本鉄道による球団売却に翻弄されるなど、不遇の日々を送った。
一方わが国経済では、1973年10月の第4次中東戦争を機に原油価格が上昇。オイルショックに陥ったことで、戦後初めて実質マイナス成長を経験し、高度経済成長時代が終わった。
まさに、稲尾の活躍と、わが国の飛躍は重なる。
稲尾は前出の著書で、現役時代をこうも振り返っている。
私の投手生命はプロ8年目で終わったといってよく(生涯276勝中この年までに234勝)、もっと大事していたらと残念がる人もいる、しかし、(執筆当時の)64歳になっても忘れられることもなく、解説、公演のお呼びの声がかかるのはあの「濃さ」ゆえ。15勝を20年続けても「神様、仏様・・・」にはならなかった。みんなが何かにクレージーになれた時代に投げたことを、後悔していない。
九州、いや日本中からのエネルギーを右腕に蓄え、時代を駆け抜けた鉄腕稲尾和久。やはり、球界史上最高の投手だ。
日米のプロ野球史上、最高の投手は誰か。
この問いに、ボクは一も二も無く、稲尾を挙げる。ルーキーイヤーから61試合に登板し、21勝。1961年には404イニングスを投げ、今でも日本プロ野球記録の42勝を挙げた。
ライオンズが史上初の3連敗からの4連勝で読売ジャイアンツを下した1958年の日本シリーズでは、稲尾は7試合中6試合に登板。うち4試合で完投したが、ライオンズが勝利した4試合全てで稲尾は勝利投手になった。
いや、そもそも神様、仏様を人間と比べること自体がナンセンス。ダルビッシュ有も、ノーラン・ライアンも、かなわないだろう。
その稲尾が1975年、解説者としてジャイアンツのキャンプを視察しに、米フロリダのベロビーチを訪れた際のエピソードだ。
稲尾は米国側の歓迎パーティに招待されたのだが、「シーズン42勝の投手」との紹介に参加者は騒然。「クレージー」と、ただただ驚くばかりだった。
だが、米国から見てクレージーだったのは、稲尾だけではない。わが国全体がそうだった。
稲尾が活躍した1956〜1969年は、わが国は高度経済成長期の真っただ中。明日の豊かな生活を夢見て、日本中が遮二無二に働いていた。
その様子はアメリカ人には理解しがたいものがあったろうが、当時の日本人には夢があった。夢があったからこそ、今日のような経済成長を遂げることができた。
獅子奮迅の活躍を見せた稲尾は、当時のわが国の象徴。日経ビジネス人文庫「私の履歴書 プロ野球伝説の名将」で稲尾は、当時の様子をこう振り返っている。
高度経済成長期の恩恵を真っ先に受けたのは九州だといわれ「黒いダイヤ」と呼ばれた炭坑景気でにぎわった。福岡という何かと「濃い」土地のエネルギーが観客席に蓄えられ、私の右腕に注入されたのである。
(404イニングスを投げ、シーズン42勝を挙げた61年には)川崎さん(川崎徳次当時ライオンズ監督)は「すまんのう、おまえしかおらんのじゃ」と申し訳なさそうだった。しかしこちらは「何だ、また稼がせてくれるんじゃ」。何より「鉄腕稲尾」をみんなが待っている。人は酷使といったが、私には山笠やどんたくのごとき熱気に浮かれた祭りの日々だった。
そんな稲尾も1969年で現役を引退。70年からは5年間、監督としてライオンズの指揮をとったが、球界を巻き込んだ八百長事件の「黒い霧事件」、西日本鉄道による球団売却に翻弄されるなど、不遇の日々を送った。
一方わが国経済では、1973年10月の第4次中東戦争を機に原油価格が上昇。オイルショックに陥ったことで、戦後初めて実質マイナス成長を経験し、高度経済成長時代が終わった。
まさに、稲尾の活躍と、わが国の飛躍は重なる。
稲尾は前出の著書で、現役時代をこうも振り返っている。
私の投手生命はプロ8年目で終わったといってよく(生涯276勝中この年までに234勝)、もっと大事していたらと残念がる人もいる、しかし、(執筆当時の)64歳になっても忘れられることもなく、解説、公演のお呼びの声がかかるのはあの「濃さ」ゆえ。15勝を20年続けても「神様、仏様・・・」にはならなかった。みんなが何かにクレージーになれた時代に投げたことを、後悔していない。
九州、いや日本中からのエネルギーを右腕に蓄え、時代を駆け抜けた鉄腕稲尾和久。やはり、球界史上最高の投手だ。
バックスクリーンの下で 〜For All of Baseball Supporters〜
野球は目の前のグラウンドの上だけの戦いではない。今も昔も、グラウンド内外で繰り広げられてきた。そんな野球を、ひもとく