オレも博報堂を辞めました。

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2010年に博報堂に入社した高木新平さんによる「博報堂を辞めました。」という文章http://shimpe1.com/?p=84が今週、ネット上で大変話題になり、多数の称賛を受けました。

高木さんは非常にやる気にあふれていたようですね。文章を読み進めていくと、その様がよくわかります。しかし、東日本大震災の被災者のためにできることを考えた結果立ち上げた“3.11 memorial”というサイトに対し、同社広報から「リスクがある」と言われ、サイト停止を命ぜられたことが退社を決意させる引き金の一つとなったようです。高木さんにとっては「会社としての目的と僕のモチベーションが乖離」する結果となったそうです。

高木さんは広報が言うところの「リスク」について理解できなかったとし、「それに僕は博報堂としてではなく、高木新平という個人としてその制作に取り組んだのです」と説明します。さらにこう続けます。

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確かにFacebookの職業の欄には博報堂と書いていました。でも、高木新平=博報堂の人間ではありません。僕の人生の中に、たまたま博報堂という会社で働く機会があっただけです。そこで収まりきらない部分もたくさんあります。個がメディアとして情報をつなぎ合う時代に、大企業の「個を押さえつけるマネジメント」は不自由以外何者でもないと思ってしまったのです。

きっと、この時点で、僕は「サラリーマン」失格だったんだと思います。

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この部分の小見出しは「高木新平として、生きるということ。」となっていました。高木さんは「博報堂の人間」以前に「自分は高木新平である」ことを明言しており、こうした「個」のあり方を明示したことも、ネット上で称賛された要素のひとつです。

ITジャーナリストの佐々木俊尚さんもツイッターで高木さんに「個人と個人がつながる新しい時代。伝統的な企業社会との齟齬。時代はこの方向へと進んでると思う。頑張ってほしい」とエールを送りました。

私も2001年に博報堂を辞め、「個」になりましたので、随分前ですが、その時のことを書いてみます。


【ひたすらコンパニオンにお茶を出していた4年目の無能男】

会社を辞めた理由は「このままだと出世しない!」ということが分かったからでした。2001年、4年目だというのに何も実績はなく、仕事が遅いがゆえに無駄に深夜まで会社にいては残業代を稼ぐ給料泥棒だった私は、同期が「オレは90億円の予算を扱っている」「あの○○ビールの××のプロモーショングッズ、作ったのはオレ」「あのウェブサイト、作ったのはオレ」などと言っているのを聞いては、敗北感に打ちひしがれていました。

自分がやっている仕事といえば、ひたすら雑誌や新聞の編集部に大量の飲料を持ち込んで編集者や記者に「これ、紹介してください!」とお願いしたり、「おい、○○社に関する新聞記事とライバル3社の過去の新聞記事3年分全部読んでおけ」と先輩から命令されたり、イベント現場でコンパニオンのお姉さんにお茶を出したりといったものばかりでした。

高木さんが文章の冒頭に「1年目からインタラクティブプランナーという最もホットでエキサイティングな職種、しかも上司に恵まれ、大きな裁量の下でいろいろと企画・実行させていただき、貴重な時間を経験することができました」と書いているのと比べれば、時代は違えど同じ会社だというのになんと私はダメで無能な4年目サラリーマンだったのでしょうか……。

さて、上に「このままだと出世しない!」と書きましたが、別に出世をしたかったわけでもありません。あくまでも、出世をしていないオッサンたちが社内でヒマそうにしているのを見ていて、20年後、多分自分は耐えられないだろうな、と思ったのですね。こうして私はもはやサラリーマンとして通じない、と判断し、「別の生き方をするのであれば早いところ辞めてしまえ」と博報堂を退社したのです。

優秀な同期、優秀な先輩、優秀な外注先と己を比較し、惨めな気持ちになった、というのもけっこう大きな理由なんですけどね。そこには「中川淳一郎として、生きること。」などとはまるで考えられず、「あ〜あ、やっちまったなぁ〜、大学まではそれなりに通用してきたと思ってきたけど、社会人としては全然通用しなかったなぁ…。“として”なんて言えねぇよ、“所詮”中川淳一郎だもんなぁ…」という気持ちの方が相当大きかったです。

【1日最大のイベントは16時からのフジテレビ連ドラ再放送を観ること】

冒頭の写真は2001年5月、つまり退社から2カ月後の手帳です。飲みの予定が9件、お茶の予定が2件、裁判傍聴が1件というのがすべての予定。あと当時やっていたのは2枚目の写真と関係するのですが、当時、A BATHING APEのNIGOさんのTシャツがバカ売れ! という時期でしたので、「よーし、オレもTシャツ長者になるゾ!」とTシャツを大量に作っていました。

あとはヒマなので、筋トレをし、毎日16時になると『恋ノチカラ』などフジテレビのドラマの再放送を見るのが日課でした。フジテレビのドラマを見ることは自分にとって唯一時間が決まっていた「やること」なので、観終わった後は達成感に溢れていました。

当時、収入もないので住んでいたのは6畳一間、共同便所、家賃3万円の部屋。夜になると酔っぱらったおじさんが「ウゥゥゥゥゥ」と呻きながら廊下をペタペタ歩き、隣の空手家の男が「ハァハァハァ」と腕立て伏せをやりながら叫ぶアパートでした。

そんなグータラな生活を続けている中、高木さんと同様に、人間は結局何が幸せなのかな、と考えたところ、出た結論は

「カネがあって風呂のついた家に住むことだ。あとは、昔からの友達と飲む時は『中川は無職だから会計はいいよ。オレらで払うからさ』と言われないこと」

というものになりました。こうして仕事をすることを決断し、日経エンタテインメント! のライターや博報堂時代の先輩・嶋浩一郎さんが作っていた新聞のライターをさせてもらい、2001年はなんとか60万円の収入を稼いだのでした。

結局人は仕事を通じてでないとお金を稼げないし、好きな時間に風呂にも入れない――そこには「中川淳一郎として。」みたいな大仰なことは一切なく、「人間が生きるためには仕事をしろ」ということだけをなんとなく感じ取ると同時に、仲間もいて、お金もたくさんくれた博報堂に感謝した2002年の春でした。

ちなみに、Tシャツですが、200枚作りましたが36枚しか売れませんでした。

Tシャツ

文/中川淳一郎(ネットニュース編集者)