未だにマスプロ教育批判が甚だしい。レクチャー形式では、人は考えるようにならない!との主張をする方々が非常に多い。しかし、本当にそうだろうか?レクチャーの語源はアリストテレスが始めたリュケイオンという教育機関を語源とし、約2000年もの間、続いている。それが本当に効果が薄いものなのだろうか?

 人が本当に成長するためには、レクチャー的に教えてはいけないんだ!自分で考えるようになるには、敢えて言わないことが大事なんだ!学校で行われていたような詰め込み教育は間違っているんだ!と声高に主張する人々が未だに多いように思います。

 でも、そういう声を受けて、ゆとり教育が生まれたと思うのは私だけでしょうか?ゆとり教育の結果は、見るも無残なものだったと思います。

 そして、文部科学省は、逆に詰め込み型の教育指導要領に戻したのは記憶に新しいですね。

 それなのに、未だに職人的?な精神論?「考えさせるためには教えないほうがいいんだ!」と未だにおっしゃる方がいます・・・。

 確かに、教える内容にもよることは認めます。間違った内容を伝えるぐらいなら、「あなたはどう思うの?」と聞いていたほうがましではあります。もしくは、教えるものを持っていない場合にも、そのほうがいいかもしれません・・・。

 意外と、コーチを名乗る人は、こういう人が多いですね。まあ、コーチングの前提は、「知識はいらない」というものがありますから、それはそれでいいのかもしれませんが・・・。

 ただ、この議論で本当におかしいと思うことは、「考える」ことを教えるためには、「詰め込んで」はならないという、「考える」と「詰め込み」があたかもトレードオフのように語られていることです。

 別に、詰め込むトレーニングをしながら、考えるトレーニングをすればいいのでは?と主張する人があまりいないのはなぜなのでしょうか・・・。不思議ですね。


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