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特大ヒットしたポップソングも含め、かつてあらゆる曲に登場したギターソロは、今や絶滅寸前となっている。その伝統芸がメインストリームに返り咲く日は来るのだろうか?

ポップR&B界の急先鋒カリードの新作、『フリー・スピリット』に収録された眩いディスコポップ「アウタ・マイ・ヘッド」では、冒頭から約2分のあたりで奇妙で異質なサウンドが登場する。うねるように音程を上下させるそれは約15秒間にわたってメロディを奏でた後、ゆっくりとフェードアウトしていく。

これはもしや…間違いない、ギターソロだ!

ジョン・メイヤーによるこのソロは、ジャンルを軽々と飛び越えるカリードの柔軟なスタンスを物語っている。しかし2019年において、ロックンロールの象徴であるギターソロという表現手法は、もはや絶滅寸前と言っていい。イマジン・ドラゴンズ、The 1975、トゥエンティ・ワン・パイロッツ等、現代のメインストリームのロックバンド(あるいはそれに準ずるもの)は、ギターよりも弾力性に富んだビートやプログラミングを多用し、ギターソロらしきものは全くと言っていいほど耳にしない。また今日のポップやヒップホップ、あるいはR&Bにおいて、ラップ・ロック、90年代のオルタナロック、エモ等の影響を感じさせるものはしばしば見かけるが、ギターが使用されているものは稀だ。ビリー・アイリッシュの「バッド・ガイ」等、ポップスの曲にブレイク部が挟まれる場合、そこで耳にするのは大抵シンセサイザーやキーボードの音色だ。

近年でギターヒーローが脚光を浴びる場といえば、音楽よりもむしろ映画が連想される。『ボヘミアン・ラプソディ』において、同名曲のギターソロを弾くにあたって悪戦苦闘していたブライアン・メイ役のグウィリム・リーに対し、フレディ・マーキュリーを演じたラミ・マレックは「自分を投影させろ」とアドバイスしたという。アンプの前に陣取った彼がそのギターソロを完璧に再現する姿は、もはやロックそのものよりも古めかしく、まるで古代エジプトの儀式を目にしているかのように思えてくる。

『ボヘミアン・ラプソディ』とは異なり、『アリー/ スター誕生』はコンテンポラリーな音楽業界が舞台となっているが、ブラッドリー・クーパーが演じるジャクソン・メインにはクイーンが活躍した70年代の方がよく似合う。シリアスでワイルドなメインは往年のロックスターさながらであり、レディ・ガガが演じた音楽と容姿もスタイリッシュなアリーは、彼のそういった印象を一層際立たせている。彼のバンドが野外フェスティバルでメタル風のロック「ブラック・アイズ」を演奏するシーンでは、メインというキャラクターの時代遅れ感が浮き彫りになる。悦に入ったメインは頭を垂れて、汗を滴らせながら怒りに満ちたギターソロを繰り出す。弦を引きちぎらんばかりの豪快なパフォーマンスは彼の心の叫びを表現しているが、ギターソロを弾く姿はその人物のダメっぷりを象徴している感もある。

エルヴィスの「ハートブレイク・ホテル」におけるスコッティ・ムーアの切り裂くようなパフォーマンス以降、ギターソロは60年以上に渡ってロックのDNAの一部であり続けた。ニューヨークのメトロポリタン美術館では先日、ロックを象徴する楽器を展示したエキシビション「Play It Loud」が公開された。そこにはジミ・ヘンドリックスがウッドストックで「星条旗」の美しくも残酷なカヴァーを弾いた時のギターや、エディ・ヴァン・ヘイレンが「暗闇の爆撃」で使った赤いペイントが目を引くギター、ジミー・ペイジが「胸いっぱいの愛を」や「天国への階段」で使った楽器の数々が展示されている。そういった楽器が美術館でガラス張りのケース内に収められているという事実は、ギターソロが過去の産物であるという認識を裏付けているのかもしれない。

メインストリームのロックおよびポップの分野において、ギターがいつ頃から衰退し始めたのかは定かではない(今なおギターソロが重宝されているメタル、またテクニックの誇示がしばしば歓迎されるカントリーは例外)。一時はポップのあらゆるヒット曲(最大の例は「今夜はビート・イット」)で耳にしたギターソロは、曲の人気の一要因となっていた。その衰退の兆候が初めて見られたのは、間違いなく90年代のオルタナ・ロックのシーンだろう。カート・コバーンは「カム・アズ・ユー・アー」でソロを弾いているし、ビリー・コーガンは「ソロを剥ぎ取る」というフレーズを評論家たちの間で流行させた。しかし、けばけばしいヘアーメタルに取って代わったグランジやオルタナロックの界隈においては、テクスチャーや気だるさ、地味なボディアクションなどが注目されがちであり、それはコバーンやコーガンによる混乱に満ちた感情を描いた歌詞ともリンクしていた(筆者は何度かニルヴァーナのライヴを観たが、カートは自身の見せ場においてもステージ前方に出てきたことは一度もなかったと記憶している)。ペイヴメント等はレコードにおいてギターソロを皮肉めいたものとして活用し、2000年代前半にハードロックがニューメタルという形で復活を果たした時には、コーンやデフトーンズといったバンドがコバーン以上にやさぐれたプレイスタイルを打ち出した。

ギターソロが見向きもされなくなることは、おそらく避けられない運命だったのだろう。長い年月と数々のイノベーションを経た現在、ギターソロに一体何が求められるだろう? ヘンドリックスやスティヴィー・レイ・ヴォーン以降、その領域は進化してきただろうか? ヒップホップやダンスミュージック、そしてコンテンポラリーなポップの隆盛は、ギターソロの時代遅れ感を浮き彫りにした。これらのジャンルにおいては、ギターはサンプルやリズムパートの一部として用いられるケースこそあれど、ソロを耳にする機会はほぼ皆無と言っていい。ビヨンセの2016年作『レモネード』に収録されたジャック・ホワイトとのコラボレーション曲、「ドント・ハート・ユアセルフ」はレッド・ツェッペリンを思わせるが、ギターの存在感は決して強くない。

もうひとつ特筆すべきことは、過去10〜20年間に登場したジミやスティーヴィーを思わせるギタリストたちが、確信犯的にノスタルジーを追求しているという点だ。今世紀の最初の10年間、ジャック・ホワイトやブラック・キーズのダン・オーバックは、瀕死状態だったギターソロを救い続けてきた。ホワイトが性急で鋭く尖ったソロを得意とするのに対し、ブラック・キーズのニューシングル「ロー / ハイ」で、オーバックは力強くきびきびとしたソロを弾いている。テキサスのブルースロッカー、ゲイリー・クラーク・ジュニアは新作『ディス・ランド』でギターヒーローというイメージを拒絶しつつも、「ロウ・ダウン・ローリング・ストーン」等、随所でうねるようなギタープレイを披露している。しかしこういったレトロ調のロックにおいてさえ、ギターが脇役となってしまっている感は否めない。ケイジ・ザ・エレファントの「レディ・トゥ・レット・ゴー」では、極めて簡潔でギターらしからぬソロを耳にすることができる。スライドギターに口笛を吹かせようとするかのようなそのソロは、始まったと思った次の瞬間には終わっている。彼らのニューシングル「グッドバイ」はピアノがリードするバラードであり、ソロはお呼びでない。

こういった具体例を挙げるまでもなく、ギターソロという伝統芸が文化的にも音楽的にも時代遅れとなってしまったことは否定できない。なぜならギターソロには、(主に)白人の男性のイメージが定着してしまっているからだ。その一方で今年のグラミーでは、ギターヒーローとして輝きを放った2人の女性が誇らしくソロを弾いてみせた。アニー・クラーク(セイント・ヴィンセント)とR&BシンガーのH.E.Rはそれぞれのパフォーマンスにおいて、フェミニンでもマッチョでもない、簡潔でセンスの良いソロを聴かせた。

クラークのアプローチはやや控えめでありながら、テクスチャーへのこだわりを感じさせる。リードのラインや時折登場するソロをその他の楽器と調和させる彼女のスタイルは、ロバート・フリップやマーク・リボットのニュアンスに満ちたプレイを思わせる。「ギターは死んだっていうセリフは、数年おきに耳にするわね」彼女は昨年そう語っている。「でもそれは間違ってる。ギターは常に生まれ変わり続けてるし、そのサイクルはこれからも続いていくの。ギターを耳にしなくなる日は永遠に来ないわ」ロックそのものがそうであるように、ギターソロが以前のような脚光を浴びることはもうないのかもしれない。しかしクラークのようなアーティストがいる限り、ギターが生きたまま葬られてしまうことは決してないだろう。