日本の「ビッグマック指数」が低すぎるのは、「経営者の哲学」に問題があることの証拠だといいます(撮影:尾形文繁)

オックスフォード大学で日本学を専攻、ゴールドマン・サックスで日本経済の「伝説のアナリスト」として名をはせたデービッド・アトキンソン氏。退職後も日本経済の研究を続け、『新・観光立国論』『新・生産性立国論』など、日本を救う数々の提言を行ってきた彼が、ついにたどり着いた日本の生存戦略をまとめた『日本人の勝算』が刊行された。
人口減少と高齢化という未曾有の危機を前に、日本人はどう戦えばいいのか。本連載では、アトキンソン氏の分析を紹介していく。

「日本の常識」か「人口増加の常識」か

地価が上がるのは人口が増加しているから。インフレも人口増加がもたらしている。GDP(国内総生産)が成長する主因もまた人口増加。1990年代初頭まで神社の初詣のお賽銭も増加傾向だったそうですが、これもまた人口増加によるところが大でした。


戦後日本が経済的に他の国をしのぐ勢いで急激に成長したのも、その主たる要因は人口動態で説明ができます。日本ではアメリカを除く他の先進国を大きく上回る勢いで人口が激増しました。これが日本の急成長の主要因です。

もっと大きく言えば、そもそも資本主義は、人口が増加した時代にできた制度です。

実は社会の常識の多くが、人口動態で説明可能なことに気がついたのは、ごく最近です。海外でもごく最近になって、人口増加と経済成長の関係を研究する学者が増えていますが、論文はまだ非常に少なく、たいへん注目されている分野です。

では、人口が減少するとどうなるでしょう。推して知るべしです。

日本はすでに人口減少の時代に突入しています。パラダイムがすでに変わってしまっているので、対処を急がなくてはいけないのです。

変えなくてはいけないものの1つが、企業経営者のマインドと戦略です。

松下電器産業(現パナソニック)の創業者である松下幸之助氏は、日本では今でも経営の神様として崇め奉られています。

松下氏の経営哲学の根幹にあるのは、「水道の水のように低価格で良質なものを大量供給することにより、物価を低廉にし、広く消費者の手に容易に行き渡るようにしよう」という、「水道哲学」として知られる思想です。要は「いいものを、安く、たくさん」です。

この考え方は松下幸之助氏がご存命の時期、つまり毎年子供がたくさん生まれて、人口そして消費者も増えていた時代では、最高の戦略でした。

利益率が短期的に若干低くなったとしても、価格を安くすることによって需要が大きく喚起され、規模の経済がどんどん広がり、結果として人口の増加以上のスピードで、商品を広く普及させることができます。その結果、パイが大きくなって、長期的により大きな利益につながるという、ものすごく賢い戦略だったと思います。

松下幸之助氏が一代で立ち上げた松下電器が世界に冠たる電機メーカーになったのは、この素晴らしい戦略の成果だったことには異論を挟む余地はありません。

しかし、この松下幸之助氏の素晴らしい経営哲学も、どの時代でも通用する普遍的なものではないことを、今の時代を生きている人は理解しておくべきです。

人口減少時代には「松下流」は通用しない

まったく状況が変わってしまった今の時代に、人口が激増する時代にこそふさわしい哲学に基づいた戦略を取り続ければどうなるでしょうか。

消費者が減っているので、パイが縮小しています。いいものをたくさん作って、安く提供しても、市場は飽和状態なので売れません。当然、規模の経済も実現できません。売り上げは価格を下げた分だけ減ります。競合が同じ戦略で戦いを挑んでくれば、共倒れになってしまいます。各社が、「『ものづくり大国』日本の輸出が少なすぎる理由」でご説明した「last man standing利益」を目指して競争し、結果としてデフレスパイラルを起こします。

少し前までの日本では、小さな企業がたくさんあっても、主要銀行だけで21行もあっても、自動車メーカーが何社あっても、半導体メーカーが海外より圧倒的に多く規模の経済が利きづらくても、なんとか成立しているように見えていました。それもこれも、もともと人口が多く、さらにその数が増えていたおかげだったのです。

しかし、このことに気がついていた人はほとんどいませんでした。それどころか、他の先進国ではありえない状況が日本だけで成り立っていたため、日本経済は「西洋資本主義」ではなく、より先進的であるという錯覚までもが生まれてしまいました。

バブル景気の終わりごろになると、「日経平均は無限に上がる、上がったものは下がらない」と信じられるようにまでなりました。日本型資本主義、日本的経営などと言って、計算の世界は日本経済には関係ない、日本経済を語るうえで普通の経済学は通用しないといまだに信じている人が、特に私より上の世代には少なからず存在するように感じます。

その証拠に、いまだに「数字ではない、お金ではない」とばかりに、「いいものを、安く、たくさん」という旧態依然たる経営戦略を強行している経営者が少なくありません。

日本のビッグマックは、なぜ途上国より安いのか

典型的な例は、外食産業です。国際比較が容易なマクドナルドを見ていきましょう。

イギリスの著名な政治経済紙「The Economist」が計算している「ビッグマック指数」は、以前、東洋経済オンラインの記事(なぜ日本のビッグマックはタイより安いのか)でも紹介されたことがあります。これは各国のマクドナルドのビッグマックの価格を比較することによって、適正な為替レートを算出しようとしている指数です。

ビッグマックは大きさ、材料、調理法などが、原則世界中で統一されています。一方、価格は国によってまちまちです。つまり同一品質・同一規格のものが、国によって異なる価格で売られていることになるので、このビッグマックの価格を比較することで、適正な為替レートを算出できるのです(ビッグマック指数は購買力調整されていますので、物価の違いなどはすでに調整されています)。

先ほど言及した記事でも紹介されていたので、ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、日本のビッグマックの価格はタイやギリシャよりも安く、スイスの半分ぐらいで、どの大手先進国よりも極端に安いのです。


香港と台湾も安いことが気になりますが、生産性とビッグマック指数の間には、0.638とかなり強い相関係数が確認できます。労働者の1時間当たりの生産性では、相関係数はさらに高くなります。これは大変興味深い事実です。

では、なぜ日本のビッグマックの価格はタイやギリシャなどよりも安いのでしょうか。

ご存じの通り、日本の不動産価格は決して安くありません。材料も決して安くはありません。電気代やガス代も高いです。

利益は全体の付加価値のごく一部にしかならないので、利益水準の違いでは、日本のビッグマックの価格が安い理由の説明はできません。

残るのは、付加価値の最大の構成要素である「人件費」です。

実際、購買力を調整したビッグマックの価格と最も相関関係が強い要素が何かを分析すると、最低賃金だという答えが導き出されます。結局、日本では最低賃金が極めて安く、安い賃金で人が雇えるので、ビッグマックを安い価格でも提供できているのです。

より正確に言うと、購買力調整後の最低賃金の水準が、1人当たりGDPという国全体の生産性に対して低ければ低いほど、かつ、最低賃金、もしくはそれに近い水準で働いている労働者の割合が高くなればなるほど、ビッグマックの価格が下がる傾向が確認できます。日本は1人当たりGDPに対する最低賃金の割合がヨーロッパに比べて異常に低く、アメリカに近いですが、アメリカでは最低賃金で働いている人の割合は日本に比べて非常に少ないのです。

「安売り」のメリットとデメリット

ここで考えなくてはいけないのは、ビッグマックを途上国並みに安い価格で売るために、労働者は非常に重い負担を背負わされているわけですが、何かそれを上回るメリットはあるのかという点です。

日本ではこれから何十年にわたって、高齢化がどんどん進み、人口は減少する一方です。このような状況下で、ビッグマックの価格が安いからといって、需要が喚起されることは考えづらいです。「安く買えるのなら所得の少ない人にとって、メリットは大きい」と主張する人もいるかもしれませんが、ビッグマックの客層が低所得者に限定されているという事実はまったくありません。

「給料を上げても物価も上がるから、結局何の意味もないじゃないか」という、経済学リテラシーのない反論もよくいわれます。しかし、マックを食べる層とマックで働く層は完全に同じではありませんし、その割合が高いとはいえ、付加価値の構成要素には給料以外のものも含まれますので、給料を上げてビッグマックの単価を上げても、同じだけ物価が上がるわけではありません。ゼロサムではないのです。アメリカの分析によると、最低賃金を10%上げると、食料品の価格が約4%上昇するものの、全体の物価水準に対する影響は0.4%にとどまるとしています。

ですから、日本ほどではないにしても日本と同じような人口減少問題を抱えるヨーロッパの先進国では、どこもビッグマックの価格が高く、最低賃金も高いことの背景と理由を真剣に考えるべきです。最低賃金はイギリスは1999年、ドイツは2015年から導入し、徐々に引き上げています。政府が労働市場に介入している動きに、特に注目しています。

人口減少の中、過当競争に対応するため、会社は商品価格を下げてなんとか生き残ったかもしれませんが、それ以外のメリットはよくわかりません。労働者へのデメリットは非常に大きいです。しかも、デメリットはそれだけではありません。

日本人の生産性はイギリス人とほぼ同じですが、最低賃金はイギリスの7割しかもらえていません。最低賃金を低く設定して、それをベースに商品の価格を下げているのです。その結果、本来もらうべき給料がもらえなくなっているので、払えたはずの税金も払えなくなってしまっています。所得が低く抑えられているので、消費に回らず、間接的に消費税へも悪影響を及ぼしています。ワーキングプアも増えます。

人口減少の下、このように、ビッグマックの価格が安いことによって生じるメリットに比べて、ビッグマックを安く提供することを可能にしている、極めて低い最低賃金のデメリットのほうが何倍も大きいのです。

借金と社会保障の負担に苦しんでいる日本は、実はビッグマックの価格が安いことで、世界中でいちばん悪影響を被っている国なのかもしれません。

「いいものを安く」という無責任をやめさせるべき

人口がコンスタントに増えていた時代と違い、人口減少・高齢化が進む時代に、最低賃金が安いことをベースにして、「いいものを、安く、たくさん」という経営戦略をとることは無責任極まりない行為です。

最低賃金の引き上げに反対する人は、「最低賃金を上げると、中小企業は潰れる」と言います。しかし、どんなに無能な経営者でも可能な「いいものを安く」という経営戦略を可能にしている「最低賃金の安さ」によるメリットは、いったいどこにあるのでしょうか。

最低賃金を引き上げたら、あたかもすべての中小企業が倒産するというような極論を言われても、愚言としか思えません。最低賃金を毎年5%程度ずつ引き上げていけば、大きな影響を受ける企業は数パーセントという試算になりますし、生産性向上を実行すれば、その影響も軽減されます。

マスコミでは人材の質の高さを自慢しながらも、経営者はその人材に払うべき給料を払わないというのは、矛盾以外の何物でもありません。自慢する労働者の能力に見合った賃金を払う気がないのなら、人材の自慢もすぐにやめるべきです。

要するに、今の最低賃金のレベルでは、世界第4位と極めて高い評価を受けている日本の貴重な人的資源を無駄にするだけなのです。

最近、店舗のバックヤードで信じられない行動をし、それをわざわざ動画に撮って、SNSに投稿して喜ぶという愚行が頻発し、問題になっています。私が注目したいのは、問題の動画はほぼすべて、低賃金で労働条件が過酷な業態ばかりが現場になっているように見受けられることです。過当競争の下、価格を1円でも下げるために、労働条件は厳しく、その行動を止める責任者がいないのだと思います。

もちろん、あんな犯罪行為を肯定するつもりも、擁護する気もいっさいありませんが、こういう人たちの愚かな行動は、安い賃金、過酷な労働条件に対する一種の「無意識の抗議」という意味合いがあるのかもしれないと感じることも、ないわけではありません。

日本経済の将来は、恐ろしく安い賃金の問題を解決しない限り、明るいものにはなりません。技術革新うんぬんを言う前に、さっさとこの問題を解決するしかないのです。そうして初めて、ようやく日本にも明るい未来が開かれるのです。